第16話「花火大会」

 ラマダンが明けた。

 一ヶ月間の断食を終えたファーティマは、イード・アル・フィトルという祝祭を家族で祝った。俺もその様子を少しだけ見せてもらった。新しい服を着て、特別な料理を食べ、お祝いの言葉を交わす。日本の正月に似ていると思った。


 そして、八月に入った。

 夏本番。俺たちはようやく、約束していた花火大会に行けることになった。


「湊、浴衣って着たことある?」


 花火大会の前日、ファーティマから連絡があった。


『あるけど、最近は着てないな』


『私、浴衣着てみたいの』


『浴衣? お前が?』


『駄目かしら』


 駄目なわけがない。ファーティマが浴衣を着る姿、正直見てみたい。


『いいと思うけど、ヒジャブはどうするんだ?』


『浴衣に合わせたヒジャブを用意したの。紺色の、和柄っぽいやつ』


 なるほど。彼女なりに考えているらしい。


『じゃあ俺も浴衣にするか』


『本当? 嬉しい!』


 こうして、俺たちは浴衣で花火大会に行くことになった。


 * * *


 当日の夕方。

 俺は駅前でファーティマを待っていた。紺の浴衣に白の帯。母さんに着付けを手伝ってもらった。


 待ち合わせ時間の五分前、彼女が現れた。


 息を呑んだ。


 白地に青い花模様の浴衣。帯は淡い水色。そして頭には、紺地に小さな花が散りばめられたヒジャブ。

 和と中東が融合した、不思議な美しさがあった。


「どう、変じゃない?」


 ファーティマは少し不安そうに聞いた。


「……似合ってる」


「本当?」


「ああ。すごく」


 それ以上言葉が出なかった。綺麗だとか、可愛いとか、そういう言葉が喉元まで来ていたが、恥ずかしくて言えなかった。


「湊も似合ってるわ。やっぱり日本人は浴衣が似合うのね」


「そうか? ありがとう」


 俺たちは並んで、会場の河川敷へ向かった。


 * * *


 河川敷は人で溢れていた。

 屋台が立ち並び、いい匂いが漂っている。りんご飴、焼きそば、たこ焼き、かき氷。夏祭りの定番が揃っていた。


「すごい人ね」


「花火大会だからな。毎年こんな感じだ」


「へえ……」


 ファーティマは目を輝かせながら、周りを見回していた。


「あれは何?」


「金魚すくい」


「あれは?」


「射的」


「あれは!?」


「りんご飴。食べてみるか?」


「食べたい!」


 俺たちは屋台を回りながら、少しずつ食べ歩いた。

 りんご飴は甘すぎると言いながらも完食し、かき氷は頭がキーンとすると騒ぎ、焼きとうもろこしは「アブダビにも似たのがある」と懐かしそうにしていた。


「ねえ湊、あれやりたい」


 ファーティマが指差したのは、ヨーヨー釣りだった。


「ヨーヨー?」


「あのカラフルな風船、可愛いわ」


 俺たちはヨーヨー釣りの前にしゃがんだ。紙のこよりで、水に浮かぶヨーヨーを釣り上げる遊びだ。


「こよりが水に濡れると切れるから、素早くやるんだ」


「わかったわ」


 ファーティマは真剣な顔でヨーヨーを狙った。

 そっとこよりを近づけ、引っ掛けようとした瞬間——ぷつん。


「あ」


 こよりが切れた。


「難しいわね……」


「最初はみんなそうだ。もう一回やってみろ」


 二回目。また失敗。三回目。またまた失敗。

 ファーティマの眉間にしわが寄ってきた。負けず嫌いが出ている。


「もう一回」


「お前、結構熱くなるタイプだな」


「うるさいわね」


 四回目。今度は慎重に、ゆっくりと。

 ヨーヨーの輪にこよりを通し、そっと持ち上げる。


「あっ、取れた!」


 ピンク色のヨーヨーが、彼女の手の中にあった。


「やった!」


 ファーティマは子供のように喜んだ。その笑顔が眩しくて、俺も思わず笑ってしまった。


「良かったな」


「ええ! これ、宝物にするわ」


 大げさな、と思ったが、口には出さなかった。彼女がそう思うなら、それでいい。


 * * *


 花火が始まる時間が近づいてきた。

 俺たちは河川敷の土手に場所を確保した。レジャーシートを敷いて、並んで座る。


「もうすぐね」


「ああ」


 周りにはカップルや家族連れがたくさんいた。俺たちも、傍から見ればカップルに見えるのだろうか。そう考えると、少し照れくさかった。


 ドーン。


 最初の花火が上がった。

 夜空に大輪の花が咲く。赤、青、黄色、緑。次々と打ち上がる光の芸術。


「わあ……」


 ファーティマが息を呑んだ。

 彼女の瞳に、花火の光が映っている。


「綺麗……」


「初めてか? 花火」


「ええ。こんなに大きいのは初めて」


 彼女は夜空を見上げたまま、言葉を続けた。


「アブダビでも花火はあるの。ナショナルデーとか、大晦日とか。でも、こんなに近くで、こんなにたくさんは見たことない」


 ドーン、ドーン。

 連続して花火が上がる。光が夜空を染め、少し遅れて音が届く。


「音が、お腹に響くわね」


「それが花火の醍醐味だ」


「そうなの?」


「ああ。体で感じるのがいいんだ」


 ファーティマは納得したように頷いた。


 しばらく、二人で黙って花火を見ていた。

 言葉は必要なかった。同じ空を見上げて、同じ光を見ている。それだけで十分だった。


 * * *


 クライマックスが近づいてきた。

 花火の数が増え、音も大きくなる。フィナーレに向けて、どんどん盛り上がっていく。


「ねえ湊」


 不意にファーティマが言った。


「ん?」


「私、日本に来て良かった」


 彼女は花火を見上げたまま続けた。


「最初は不安だったの。知らない国、知らない言葉、知らない文化。友達もいないし、何もかも違う。やっていけるか、わからなかった」


「……」


「でも、湊に会えた。湊がいてくれたから、日本での生活が楽しくなった」


 俺は何も言えなかった。胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。


「ありがとう、湊。私の友達でいてくれて」


 友達。

 その言葉を聞いて、嬉しいと思った。同時に、どこか物足りないとも思った。

 でも今は、それでいい。


「俺も、お前に会えて良かった」


 やっとそれだけ言えた。

 ファーティマは俺の方を向いて、微笑んだ。


 その瞬間、最大の花火が上がった。

 夜空いっぱいに広がる、金色の大輪。歓声が上がる。拍手が起こる。


 彼女の顔が、光に照らされていた。

 ヒジャブから覗く横顔。大きな瞳に映る花火。少し開いた唇。


 綺麗だ、と思った。

 花火よりも、隣にいる彼女の方が、ずっと。


 * * *


 花火大会が終わり、俺たちは人混みをかき分けて駅に向かった。


「楽しかったわ」


「良かった」


「来年も来たいわね」


 来年。

 その言葉に、俺の胸がざわついた。

 来年、彼女はまだ日本にいるだろうか。駐在期間は二年。来年の夏は——まだいるはずだ。でも、再来年は?


「どうしたの、湊」


「いや、何でもない」


「変な顔してた」


「してない」


「してたわ」


 いつものやり取り。でも今日は、少しだけ特別に感じた。


「ねえ湊」


「ん?」


「今日のこと、忘れないわ」


 ファーティマは、手に持ったピンクのヨーヨーを見つめながら言った。


「花火も、屋台も、浴衣も。全部、大切な思い出」


「……ああ」


「シュクラン、湊」


「アフワン」


 彼女は嬉しそうに笑った。


「発音、上手くなったわね」


「お前のおかげだ」


 駅に着き、改札の前で別れた。


「じゃあね、湊。また」


「ああ、また」


 彼女の浴衣姿が、改札の向こうに消えていく。

 俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 夏の夜。花火の余韻。彼女の笑顔。

 全部が胸の中で混ざり合って、甘くて、少しだけ切ない気持ちになった。


 友達。

 俺たちは友達だ。

 でも——。


 答えの出ない問いを抱えたまま、俺は家路についた。

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