第15話「イフタール(断食明けの食事)」

 ラマダンが始まって二週間が経った。

 俺はほぼ毎日、ファーティマの家に通っていた。


 最初は断食中の彼女が心配だった。でも通ううちに、それだけではなくなっていた。

 イフタールの時間が、俺にとっても特別なものになっていたのだ。


「湊、今日も来てくれたのね」


 玄関で出迎えてくれたファーティマは、二週間前より少し痩せたように見えた。でも表情は穏やかだ。


「調子どう?」


「だいぶ慣れてきたわ。最初の一週間が一番つらいの」


「そうなのか」


「体が断食のリズムに適応するまで時間がかかるのよ。でも今は平気」


 リビングに入ると、ユーセフがゲームをしていた。断食中は体力温存のため、あまり動かないようにしているらしい。


「あ、湊さん。今日も来たんだ」


「邪魔してる」


「邪魔じゃないよ。姉さん、湊さんが来ると嬉しそうだし」


「ユーセフ」


 ファーティマが弟を睨んだ。ユーセフはにやにやしながらゲームに戻った。


 * * *


 日没までまだ数時間ある。

 俺たちはいつものように、リビングで過ごした。


「ねえ湊、今日は特別な日なのよ」


「特別?」


「ラマダンの中間日。折り返し地点ね」


「へえ。何か特別なことするのか?」


「イフタールを豪華にするの。あと、今日は母が料理を作るわ」


 ライラさんが。

 正直、少し緊張した。ゴールデンウィーク以来、彼女とはほとんど話していない。会っても軽く挨拶する程度だ。


「大丈夫よ。母も最近は湊のこと、認めてきてるから」


「本当か?」


「ええ。毎日通ってくれてるでしょう? それを見て、少し考えが変わったみたい」


 ファーティマは小声で続けた。


「この前、母が言ってたの。『あの子は礼儀正しいわね』って」


「……そうか」


「すごい進歩よ。母が日本人を褒めるなんて、珍しいことだもの」


 少しだけ、肩の荷が下りた気がした。


 * * *


 夕方になると、キッチンからいい匂いが漂ってきた。

 今日は家政婦のサラさんではなく、ライラさんが料理をしているらしい。


「何を作ってるんだ?」


「ハリーラよ。モロッコ風のスープなの。母の得意料理なのよ」


「お母さん、モロッコ出身なのか?」


「ええ。父がUAE、母がモロッコ。だから私はミックスなの」


 知らなかった。彼女のルーツがそんなところにあるとは。


「ハリーラはラマダンの定番料理よ。断食明けに飲むと、体が温まるの」


「楽しみだな」


「あと、母のバクラヴァも絶品よ。甘いお菓子なんだけど」


 ファーティマは嬉しそうに料理の説明をしてくれた。

 母親の料理を誇りに思っているのが伝わってきた。


 * * *


 日没が近づき、家族がダイニングに集まった。

 テーブルの上には、いつもより豪華な料理が並んでいた。


 ハリーラと呼ばれるスープは、トマトベースで豆やパスタが入っている。他にも、ラム肉の煮込み、クスクス、サラダ、そしてデーツ。


 そして、ライラさんが最後に持ってきたのは、黄金色に輝くお菓子だった。


「バクラヴァよ」


 ライラさんが俺の方を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。

 驚いた。彼女が俺に笑いかけてくれたのは、初めてだった。


「湊さんも、たくさん食べてね」


「……ありがとうございます」


 ぎこちない返事になってしまったが、彼女は気にしていないようだった。


 日没の時間が来た。

 アフマドさんの「アッラーフ・アクバル」の声で、食事が始まる。


 まずはデーツと水。預言者ムハンマドの慣習に倣って、この二つで断食を解くのだという。

 それから、ハリーラを一口。


「……美味い」


 思わず声が出た。

 トマトの酸味、スパイスの香り、豆の食感。すべてが調和していて、体に染み渡るような味だった。


「お口に合って良かったわ」


 ライラさんがそう言った。

 俺は頭を下げた。


「本当に美味しいです。ありがとうございます」


「礼儀正しいのね、あなた」


 ライラさんは静かにそう言った。批判ではなく、純粋な感想のように聞こえた。


 食事は和やかに進んだ。

 アフマドさんは仕事の話、ユーセフはゲームの話、ファーティマは学校の話。俺もたまに話を振られて、答えた。


「湊さんは、将来何になりたいの?」


 不意にライラさんに聞かれた。


「えっと……まだはっきりとは」


「そう」


「でも、大学には行きたいと思っています。何を学ぶかは、これから考えます」


「真面目ね」


 それだけ言って、ライラさんは食事に戻った。

 否定されなかった。それだけで、少し安心した。


 * * *


 食後、バクラヴァが出された。

 薄いパイ生地を何層にも重ね、ナッツを挟み、蜂蜜シロップをかけたお菓子だ。


「一口でいいから食べてみて」


 ファーティマが俺の皿にバクラヴァを乗せた。


 口に入れると、甘さが広がった。

 甘い。かなり甘い。でも、しつこくない。ナッツの香ばしさが、甘さを中和している。


「甘いな」


「中東のお菓子は甘いのよ。でも美味しいでしょう?」


「ああ、美味い」


「母のバクラヴァは、特別なの。私が小さい頃から、ずっとこの味」


 ファーティマは懐かしそうに微笑んだ。


「ラマダンになると、いつも母が作ってくれた。アブダビでも、日本でも、変わらない味」


 彼女の言葉を聞きながら、俺は考えた。

 食べ物には、思い出が宿る。味は、記憶と結びついている。

 ファーティマにとって、バクラヴァは単なるお菓子ではない。家族との絆、故郷の記憶、そういうものが詰まっているのだ。


 * * *


 食事を終え、俺は帰り支度をした。

 玄関で、ファーティマが見送ってくれた。


「今日は来てくれてありがとう」


「こっちこそ。ご馳走になった」


「母の料理、どうだった?」


「すごく美味しかった。本当に」


 ファーティマは嬉しそうに笑った。


「母も喜ぶわ。あなたがたくさん食べてくれて」


「お母さん、少し態度が柔らかくなった気がする」


「そうなの。最近、湊のことを聞いてくるのよ。どんな人なのか、って」


「何て答えてるんだ?」


「普通の日本人の男の子。でも、私のことをちゃんと理解しようとしてくれる人、って」


 彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「母は、それを聞いて黙ってたわ。でも、否定はしなかった」


「そうか」


「少しずつ、わかってもらえてる気がするの。時間はかかるけど」


 俺は頷いた。

 ライラさんのことは、正直まだ怖い。でも、今日の食卓で見せた表情は、以前とは違っていた。


「焦らないよ。ゆっくりでいい」


「ありがとう、湊」


 ファーティマは微笑んだ。


「残りのラマダンも、一緒に過ごしてね」


「ああ。約束する」


 夜道を歩きながら、俺は今日の食事を思い返していた。

 ハリーラの温かさ、バクラヴァの甘さ、そしてライラさんの少しだけ柔らかくなった表情。


 少しずつ、何かが変わっている気がした。

 ファーティマとの関係だけでなく、彼女の家族との関係も。


 夏の夜風が心地よかった。

 ラマダンはあと二週間。

 この特別な時間を、大切にしようと思った。

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