第14話「ラマダンの日々」
夏休みが始まって一週間。
ファーティマから突然、連絡があった。
『明日から少し会えなくなるかも』
スマホの画面を見て、俺は首を傾げた。
『どうした?急に』
『ラマダンが始まるの』
ラマダン。聞いたことはある。イスラム教の断食月だ。
でも詳しいことは知らない。
『断食するやつだっけ』
『ええ。日の出から日没まで、飲食禁止なの。だから昼間は外出を控えようと思って』
日の出から日没まで。夏の日本だと、五時前から七時近くまでか。十四時間以上、何も食べない。何も飲まない。
『大丈夫なのか?』
『慣れてるから平気よ。でも体力は落ちるから、無理はしないようにしてるの』
俺は少し考えてから返信した。
『会いに行っていいか?』
『え?』
『断食中でも、話すくらいはできるだろ。家で一人でいるより、誰かといた方がいいんじゃないか』
しばらく返信がなかった。
余計なお世話だっただろうか、と不安になった頃、メッセージが届いた。
『ありがとう。嬉しい』
『じゃあ明日、行くよ』
『待ってるわ』
* * *
翌日、ファーティマの家を訪ねた。
玄関で出迎えてくれた彼女は、いつもより少し顔色が悪かった。
「いらっしゃい、湊」
「調子どうだ?」
「まだ初日だから大丈夫よ。これからが本番だわ」
リビングに通されると、ユーセフがソファでぐったりしていた。
「あ、湊さん……」
「よう。お前も断食か」
「うん……。きついよ、夏のラマダンは」
ユーセフは起き上がろうとして、またソファに倒れ込んだ。
「水も飲めないのが一番つらい」
「想像つくよ」
七月の東京。気温は三十度を超えている。水分を取れないのは、確かにきついだろう。
「ユーセフ、無理しないで横になってなさい」
ファーティマがそう言って、弟の頭を撫でた。姉らしい優しい仕草だった。
「湊、こっちに座って」
促されるまま、俺はソファに腰を下ろした。テーブルの上には、飲み物もお菓子もない。当然だ、彼らは断食中なのだから。
「俺だけ何か飲むのも悪いな」
「気にしないで。私たちは慣れてるから」
「でも——」
「本当に大丈夫よ。むしろ、気を遣われる方が困るわ」
ファーティマは微笑んだ。
「断食は私たちにとって神聖な行為なの。つらいことじゃないのよ」
「そうなのか?」
「ええ。神様に近づくための修行というか……。空腹を感じることで、食べ物のありがたさを知り、貧しい人々の気持ちを理解する。そういう意味があるの」
俺は黙って聞いていた。
断食と聞くと、ただつらいだけのイメージがあった。でも彼女の話を聞いていると、もっと深い意味があるらしい。
「一ヶ月間、毎日断食するんだっけ」
「そうよ。約一ヶ月間、日の出から日没まで」
「長いな」
「でも、家族みんなで同じ体験を共有できるから、絆が深まるの。夜は一緒にご飯を食べて、一緒にお祈りして。ラマダンは大変だけど、私は好きよ」
ファーティマの目は穏やかだった。
信仰に支えられている人特有の、静かな強さがあった。
* * *
それから俺は、ラマダン期間中も定期的にファーティマの家を訪ねた。
日中は二人で静かに過ごした。テレビを見たり、本を読んだり、勉強したり。ファーティマは体力温存のため、激しい活動は避けていた。
「ねえ湊、アラビア語の勉強は続けてる?」
「ああ、少しずつな」
「じゃあ今日は私が先生になってあげる」
断食中でも、彼女は俺にアラビア語を教えてくれた。
新しい単語、文法、発音。一つずつ丁寧に。
「ラマダン・カリーム」
「何それ」
「ラマダンおめでとう、という意味よ。この時期に使う挨拶」
「ラマダン・カリーム」
「発音いいわね」
ファーティマは嬉しそうに笑った。
日が傾き始めると、家の中が慌ただしくなった。
日没が近づいているのだ。
「そろそろ準備しないと」
「準備?」
「イフタールよ。断食明けの食事。日没と同時に食べるの」
キッチンからいい匂いが漂ってきた。家政婦のサラさんが、料理を準備しているらしい。
「湊も一緒に食べていって」
「いいのか?」
「もちろんよ。むしろ、一緒に食べてほしいの」
* * *
日没の時間が近づいた。
ファーティマの家族がダイニングに集まった。父のアフマドさん、母のライラさん、ユーセフ、そしてファーティマ。
俺は少し緊張しながら、彼らの隣に座った。
ライラさんの視線を感じたが、今日は何も言われなかった。ラマダン中だからだろうか、表情もいつもより穏やかに見えた。
テーブルの上には、料理が並んでいた。
デーツ、スープ、サラダ、肉料理、パン。どれも美味しそうだ。
「もうすぐ日没よ」
ファーティマがスマホで時間を確認していた。
全員が静かに待っている。緊張感があった。
そして——。
「アッラーフ・アクバル」
アフマドさんが唱えた。神は偉大なり、という意味だ。
同時に、全員がデーツに手を伸ばした。
ファーティマも一粒を口に含み、目を閉じた。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。その表情は、言葉にできないほど安らかだった。
「ビスミッラー」
神の御名において。
そう唱えてから、本格的な食事が始まった。
「湊さんも遠慮なく食べてください」
アフマドさんがそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
俺は料理に手を伸ばした。
スープは優しい味がした。肉料理はスパイスが効いていて、日本では味わえない風味だった。
「美味しいだろう、これ」
ユーセフが復活した様子で、がつがつと食べていた。
「うん、美味い」
「サラさんの料理は最高なんだ」
断食明けの食事は、普段の何倍も美味しく感じるのだろう。ユーセフの食べっぷりを見ていると、そう思った。
「ファーティマ、大丈夫か?」
隣を見ると、彼女はゆっくりと食べていた。急いで食べると胃に負担がかかるのだという。
「ええ、大丈夫よ。……美味しいわ」
彼女は微笑んだ。
その笑顔には、達成感のようなものがあった。
* * *
食後、俺は帰り支度をした。
「今日はありがとう、湊」
玄関まで見送りに来たファーティマが言った。
「いや、こっちこそ。ご飯ご馳走になったし」
「また来てね。ラマダン中も」
「ああ」
「イフタール、一緒に食べてくれて嬉しかった」
彼女の目が、少し潤んでいるように見えた。
「日本に来てから初めてのラマダンで、少し寂しかったの。アブダビでは、親戚や友達がたくさん集まって、みんなで断食明けを祝ったから」
「そうか」
「でも湊がいてくれて、寂しくなかった。ありがとう」
「……どういたしまして」
アフワン、と言おうとしたが、なんだか照れくさくてやめた。
「じゃあ、また」
「ええ。マアッサラーマ」
「マアッサラーマ」
夜道を歩きながら、俺は今日のことを思い返していた。
断食の意味。イフタールの喜び。家族で囲む食卓。
知らない文化だった。理解できないと思っていた。
でも、実際に体験してみると、そこには確かな温かさがあった。
ファーティマの世界を、また一つ知ることができた。
それが嬉しかった。
夏の夜空には、星が瞬いていた。
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