第13話「夏休みの始まり」

 七月二十日。終業式が終わり、夏休みが始まった。

 四十日間の長い休み。去年の俺なら、ダラダラと過ごして終わっていただろう。


 でも今年は違った。


「湊、夏休みの予定は?」


 終業式の帰り道、ファーティマが聞いてきた。


「特にないな。お前は?」


「私も特にないわ。家族でどこかに行く予定もないし」


「アブダビには帰らないのか?」


「夏は帰らないの。向こうは今、四十度を超える暑さだから」


 四十度。想像もつかない。日本の夏も暑いが、それでも三十五度くらいだ。


「じゃあ、ずっと日本にいるのか」


「ええ。だから、たくさん遊びましょう」


 ファーティマは楽しそうに笑った。


「日本の夏って、いろいろあるんでしょう? 花火とか、お祭りとか、海とか」


「まあ、あるな」


「全部やりたいわ」


「全部って……」


「駄目?」


 彼女は首を傾げた。その仕草が妙に可愛くて、俺は思わず目を逸らした。


「駄目じゃないけど……俺でいいのか?」


「湊がいいの。他に誰がいるの?」


 確かに、彼女の交友関係で夏休み中も会えるのは俺くらいだろう。クラスメイトとはまだそこまで親しくないし、家族は家族で忙しい。


「わかったよ。付き合う」


「約束よ」


「ああ」


 こうして、俺の夏休みの予定が埋まっていった。


 * * *


 夏休み初日。

 朝からファーティマに呼び出された。


『プール行きたい』


 スマホに届いたメッセージを見て、俺は固まった。

 プール。つまり水着。ファーティマが水着?


『お前、水着持ってるのか?』


『持ってないから買いに行くの。付き合って』


 なぜ俺が女子の水着選びに付き合わなければならないのか。疑問は尽きなかったが、断る理由もなかった。


 駅前のショッピングモールで待ち合わせた。

 ファーティマは薄いブルーのヒジャブに、白いワンピース姿だった。夏らしい爽やかな格好だ。


「待った?」


「今来たとこ」


「じゃあ行きましょう。水着売り場はどこかしら」


「三階だったと思う」


 エスカレーターで上がりながら、俺はふと疑問を口にした。


「なあ、お前って水着着れるのか? その、宗教的に」


「普通の水着は無理ね。でも、ムスリム用の水着があるのよ」


「ムスリム用?」


「ブルキニって言うの。全身を覆うタイプの水着」


 聞いたことがあるような、ないような。

 水着売り場に着くと、ファーティマは迷いなく一角に向かった。そこには確かに、全身を覆うタイプの水着が並んでいた。


「これよ。ブルキニ」


 見た目はウェットスーツに近い。長袖長ズボンで、頭を覆うフード部分もある。色は黒やネイビーが多いが、中には花柄や幾何学模様のものもあった。


「へえ……こういうのがあるんだな」


「最近は種類も増えてきたのよ。昔はもっと地味なものしかなかったけど」


 ファーティマはいくつかの水着を手に取り、品定めを始めた。


「これなんかどうかしら」


 彼女が選んだのは、紺地に白いラインが入ったデザインだった。スポーティで、彼女に似合いそうだ。


「いいんじゃないか」


「そう? じゃあ試着してくるわね」


 彼女は試着室に消えていった。

 俺は手持ち無沙汰で、周りをきょろきょろしていた。水着売り場で待っている男子高校生。客観的に見ると、かなり怪しい図だ。


「湊」


 試着室のカーテンが開いた。


「どう?」


 ファーティマがブルキニ姿で立っていた。

 全身を覆っているとはいえ、体のラインはそれなりにわかる。普段のゆったりした服とは違い、彼女の細いウエストや長い手足が際立っていた。


「……似合ってる」


「本当?」


「ああ」


 それ以上何か言うと墓穴を掘りそうだったので、俺は口をつぐんだ。


「じゃあこれにするわ。湊も水着買わないの?」


「俺は持ってるから」


「そう。じゃあ着替えてくるわね」


 試着室のカーテンが閉まり、俺はほっと息をついた。

 心臓がやけにうるさい。変な意識をするな、と自分に言い聞かせた。


 * * *


 買い物を終え、フードコートで昼食を取ることにした。

 ファーティマはハラール対応のケバブ屋を見つけて、嬉しそうにチキンケバブを注文していた。


「夏休み、楽しみね」


「そうだな」


「プールの他には何がしたい?」


「俺は別に……お前の行きたいところでいいよ」


「私の行きたいところ?」


 ファーティマは少し考えてから、指折り数え始めた。


「花火大会、夏祭り、海、かき氷、スイカ割り、線香花火……」


「多いな」


「だって全部やりたいんだもの。日本の夏を満喫したいわ」


 彼女の目は輝いていた。

 そういえば、彼女にとってはこれが日本で初めての夏だ。何もかもが新鮮なのだろう。


「花火大会は来週あるぞ。近くの河川敷で」


「本当? 行きたい!」


「じゃあ行くか」


「約束よ」


「わかってる」


 ファーティマは嬉しそうにケバブを頬張った。


「ねえ湊」


「ん?」


「夏休みが終わったら、二学期よね」


「そうだな」


「あっという間だわ。日本に来てから、もう四ヶ月も経ったのね」


 彼女は窓の外を見た。

 夏の日差しが眩しく降り注いでいる。


「残り、一年と八ヶ月か」


「え?」


「私が日本にいられるの。父の駐在期間は二年だから」


 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。

 二年。それは長いようで短い。気づけば五分の一が過ぎている。


「まだ先の話だな」


「そうね。でも、時々思い出すの。いつか帰らなきゃいけないって」


「……」


「だから、今を大切にしたいの。湊と過ごす時間も」


 ファーティマは俺を見て、微笑んだ。


「この夏、たくさん思い出を作りましょう」


「ああ」


 俺は頷いた。

 残り時間のことは、考えたくなかった。でも、彼女の言う通りだ。いつか終わりが来る。だからこそ、今を大切にしなければ。


「よし、午後はプールに行こう」


「え、今日?」


「善は急げって言うだろ。水着も買ったことだし」


 ファーティマは目を丸くして、それからぱっと笑った。


「ヤッラ!」


「だからそれ、さあ行こうって意味だっけ」


「覚えてるじゃない」


「お前に何度も言われたからな」


 俺たちはフードコートを後にした。


 夏休み初日。

 まだ始まったばかりだ。

 四十日間、彼女とどんな思い出を作れるだろう。


 そんなことを考えながら、俺は真夏の太陽の下を歩いた。

 隣には、ブルキニの入った紙袋を大事そうに抱えたファーティマがいた。


 この夏は、きっと特別なものになる。

 そんな予感がしていた。

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