第12話「期末テストと日本語」
六月末。期末テストが近づいていた。
教室の空気がピリピリし始め、休み時間も参考書を開く生徒が増えてくる。俺も例外ではなく、そろそろ本腰を入れて勉強しないとまずい時期だった。
でも、俺以上に大変なのはファーティマだろう。
「湊、この漢字、何て読むの?」
昼休み、彼女がノートを差し出してきた。古文の教科書を書き写したらしい。
「えーと……『徒然なるままに』だな」
「つれづれなるままに……意味は?」
「することがなくて退屈なままに、って感じかな」
「日本語って難しいわね……」
ファーティマはため息をついた。
彼女の日本語力は日常会話では問題ないレベルだが、古文となると話は別だ。現代の日本人でさえ苦労するのに、外国人にとってはなおさら難解だろう。
「古文、テスト範囲広いんだよな」
「ええ。徒然草と枕草子と……あと何だっけ」
「万葉集の一部」
「万葉集……」
彼女の顔が曇った。明らかに苦手意識がある。
「大丈夫か?」
「正直、全然わからないの。現代語訳を読んでも、なぜそうなるのか理解できなくて」
ファーティマは珍しく弱音を吐いた。いつも堂々としている彼女が、こんなに困っている姿を見るのは初めてだった。
「よかったら、教えようか」
「え?」
「俺、古文はそこそこ得意だから」
正確には、母さんが古典文学好きで、小さい頃から百人一首とか聞かされていたおかげだ。おかげで古文アレルギーがない。
「本当? 助かるわ」
ファーティマの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ放課後、勉強会しよう」
「ありがとう、湊」
* * *
放課後、図書室で勉強会を開いた。
窓際の席を確保し、教科書とノートを広げる。
「まず古文の基本からおさらいしよう」
「お願い」
「古文って、要するに昔の日本語なんだ。文法も単語も、現代語とは違うけど、ルールを覚えれば読めるようになる」
「ルール……」
「例えば、『けり』って語尾は過去を表す。『なり』は断定とか伝聞。こういう助動詞を覚えるのが最初のステップだ」
俺はノートに助動詞の一覧を書き出した。
ファーティマは真剣な顔で見つめている。
「アラビア語にも、動詞の活用ってあるだろ?」
「ええ、あるわ。過去形とか現在形とか」
「それと同じだ。日本語の古文も、動詞や助動詞が活用する。パターンを覚えれば、意味がわかるようになる」
「なるほど……」
彼女は頷きながら、ノートにメモを取り始めた。
「じゃあ実際に読んでみよう。『春はあけぼの』」
「枕草子ね」
「そう。『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる』」
俺は一文ずつ区切りながら、意味を説明していった。
「『やうやう』は『だんだん』。『なりゆく』は『なっていく』。『山際』は山の稜線のあたり」
「だんだん白くなっていく山の稜線……」
「そう。夜明けの空が少しずつ明るくなっていく様子を描いてるんだ」
ファーティマは目を閉じた。
「想像できるわ。アブダビの夜明けも、そんな感じよ。砂漠の向こうから、だんだん空が白くなって……」
「へえ」
「清少納言は、千年前にこれを書いたのね。でも、その感覚は今の私にもわかる。不思議だわ」
彼女はそう言って、微笑んだ。
その言葉に、俺ははっとした。
古文は過去の遺物じゃない。千年前の人も、同じように夜明けを美しいと感じていた。その感性は、時代も国も超えて通じるものなのかもしれない。
「ファーティマ、お前すごいな」
「え? 何が?」
「そういう捉え方、俺にはできなかった」
「そうかしら。普通のことを言っただけよ」
彼女は首を傾げたが、俺は本心からそう思っていた。
* * *
勉強会は続いた。
徒然草、万葉集、文法問題。一つずつ丁寧に進めていく。
「『つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて』……」
ファーティマが音読する。発音は少し硬いが、意味はちゃんと理解しているようだった。
「することがなくて退屈なので、一日中、硯に向かって……」
「そう。兼好法師が、暇つぶしに文章を書き始めた、って内容だな」
「暇つぶしで書いたものが、何百年も読み継がれるなんて、本人もびっくりでしょうね」
「確かにな」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
「ねえ湊」
「ん?」
「日本語って、本当に複雑よね」
「まあ、そうかもな」
「漢字があって、ひらがながあって、カタカナがあって。しかも古文と現代文で文法が違う」
ファーティマは教科書を見つめながら言った。
「最初に日本語を勉強した時、何度も挫折しそうになったわ。でも、諦めなくてよかった」
「どうして諦めなかったんだ?」
「父が言ったの。言葉を学ぶことは、その国の心を学ぶことだって」
彼女は窓の外を見た。
「日本語を学んで、日本の文化を知って、日本の人と話して。そうやって少しずつ、この国のことがわかってきた気がする」
「……」
「湊がアラビア語を勉強してくれているのも、同じことよね。私の言葉を学んで、私の世界を知ろうとしてくれている」
俺は少し照れくさくなった。
「大したことないよ。まだ全然話せないし」
「でも、嬉しいの。本当に」
ファーティマは俺を見て微笑んだ。
「私たち、お互いの言葉を学び合っているのね。素敵だと思わない?」
「……そうかもな」
素直に頷くのは恥ずかしかったが、彼女の言葉は胸に響いた。
* * *
数日後、期末テストが始まった。
初日は国語。古文の問題が大きな配点を占めていた。
テスト中、隣のファーティマをちらりと見た。
真剣な顔で問題用紙に向かっている。鉛筆を握る手に力が入っているのがわかった。
大丈夫。あれだけ勉強したんだ。きっとできる。
そう心の中で祈りながら、俺は自分の答案に集中した。
* * *
テスト最終日の放課後。
結果発表はまだ先だが、とりあえず終わった解放感で教室は賑やかだった。
「湊!」
ファーティマが俺のところに駆け寄ってきた。
「古文、できたわ!」
「本当か?」
「ええ! 枕草子の問題、ほとんど答えられた。『春はあけぼの』の解釈も書けたし」
彼女の顔は達成感に満ちていた。
「徒然草も、文法問題も、湊に教えてもらったところがたくさん出たの」
「よかったな」
「ありがとう。湊のおかげよ」
「いや、お前が頑張ったからだろ」
「でも、一人じゃ無理だった。湊が教えてくれなかったら、絶対に解けなかった」
ファーティマは真剣な目で俺を見た。
「本当にありがとう」
「……どういたしまして」
照れくさくて目を逸らすと、彼女はくすりと笑った。
「アフワン、でしょう?」
「ああ、そうだった。アフワン」
「発音、上手くなったわね」
そんなやり取りも、もう慣れたものだった。
* * *
一週間後、成績表が返ってきた。
ファーティマの古文の点数は、クラス平均を上回っていた。
「見て、湊! 七十八点!」
「すごいじゃん」
「私の日本語の先生のおかげよ」
「大げさだな」
でも、内心ではかなり嬉しかった。
彼女の努力が報われたこと。そして、少しは役に立てたこと。
「お祝いに何かおごるわ。何がいい?」
「いや、いいよ」
「遠慮しないで。私がおごりたいの」
ファーティマは譲らなかった。
「じゃあ……アイスでいいか」
「アイス? もっと高いものでもいいのよ?」
「アイスがいい」
「変な湊」
彼女は笑いながら、俺の腕を引っ張った。
「じゃあ行きましょう。コンビニでいい?」
「ああ」
夏の日差しが眩しかった。
梅雨が明けて、本格的な夏がやってくる。
一学期が終わろうとしていた。
ファーティマと出会ってから、もう三ヶ月。
季節が変わっていく。
俺たちの関係も、少しずつ変わっていくのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は彼女の隣を歩いた。
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