第11話「梅雨とホームシック」
六月に入り、梅雨がやってきた。
毎日のように雨が降り、空はどんよりと曇っている。湿気が肌にまとわりつき、不快指数は上がる一方だ。
日本人の俺でさえうんざりするのだから、砂漠の国から来たファーティマにとっては、なおさらだろう。
「また雨……」
窓の外を眺めながら、ファーティマがため息をついた。
いつもの元気がない。ここ数日、彼女の様子がおかしかった。
「どうした?」
「何でもないわ」
そう言うが、明らかに元気がない。
昼休みも、ほとんど喋らなかった。礼拝から戻ってきても、ぼんやりと窓の外を見ているだけだ。
「体調悪いのか?」
「大丈夫よ」
「大丈夫には見えないけど」
俺の言葉に、ファーティマは少しだけ微笑んだ。
でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
* * *
放課後、俺はファーティマを誘って、いつもの公園に寄った。
雨は小降りになっていたが、まだ傘は必要だった。ベンチは濡れていたので、屋根のある東屋に入った。
「座れよ」
「ええ……」
ファーティマは力なく座った。
俺は隣に腰を下ろし、少し間を置いてから口を開いた。
「なあ、何かあったのか?」
「……」
「言いたくないなら言わなくていい。でも、俺でよければ聞くぞ」
しばらく沈黙が続いた。
雨音だけが響いている。
「ホームシックかもしれない」
ファーティマがぽつりと言った。
「ホームシック?」
「アブダビが恋しいの」
彼女は窓の外の雨を見つめていた。
「この雨……ずっと続くでしょう? アブダビでは、雨なんてほとんど降らないの。年に数日、それも短い時間だけ」
「そうなのか」
「毎日晴れてて、空が青くて、太陽が眩しくて。それが当たり前だった」
ファーティマの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「日本に来てから、もう二ヶ月以上経ったわ。新しいことがたくさんあって、毎日楽しかった。でも最近、急にアブダビのことを思い出すの」
「……」
「友達のこと、学校のこと、家のこと。砂漠の匂いとか、夕日の色とか。今頃みんな何してるのかなって」
彼女の目が、微かに潤んでいた。
「おかしいわよね。日本での生活は楽しいのに、アブダビが恋しいなんて」
「おかしくないよ」
俺は静かに言った。
「当たり前だろ。生まれ育った場所なんだから」
「……」
「俺だって、もし知らない国に行ったら、日本が恋しくなると思う。それは自然なことだ」
ファーティマは俺を見た。その瞳に、涙が浮かんでいた。
「湊……」
「泣いてもいいぞ。誰も見てないし」
その言葉をきっかけに、彼女の涙が溢れた。
声を出さずに、静かに泣いていた。肩が小さく震えている。
俺は何も言わず、ただ隣にいた。
何をしてやることもできない。故郷を恋しがる気持ちは、俺には完全には理解できない。でも、せめて傍にいることはできる。
しばらくして、ファーティマは目元を拭った。
「ごめんなさい、みっともないところ見せて」
「いいよ。気にすんな」
「湊の前で泣くなんて……恥ずかしいわ」
「誰にでも弱いところはある。お前だって人間だろ」
その言葉に、彼女は少しだけ笑った。
「変な慰め方ね」
「俺、こういうの苦手だから」
「知ってる」
* * *
雨音が続く中、俺たちは並んで座っていた。
「ねえ湊」
「ん?」
「アブダビの話、聞いてくれる?」
「いいよ」
ファーティマは少しずつ話し始めた。
故郷のこと。学校のこと。友達のこと。
「私のベストフレンドは、マリアムっていうの。小学校からずっと一緒だった」
「へえ」
「日本に来る前、泣きながらお別れしたの。必ず連絡するって約束して」
「連絡してるのか?」
「ええ、ビデオ通話で。でも、時差があるから難しくて。最近あまり話せてないの」
そう言って、ファーティマはまた少し寂しそうな顔をした。
「家の近くに、大きなモスクがあったわ。金曜日には家族みんなで礼拝に行って、その後でみんなでご飯を食べるの」
「金曜日が休みなんだっけ」
「ええ。イスラムでは金曜日が聖なる日だから」
彼女は目を細めた。
「日本のモスクにも行ったけど、やっぱり違うの。アブダビのモスクは、もっと大きくて、壮大で……ここにいると、自分がとても小さな存在に思えて、でもそれが心地よかった」
「……」
「あとは、砂漠でのキャンプ。週末になると、家族で砂漠に行くの。テントを張って、焚き火をして、星を見て」
「砂漠でキャンプか。すごいな」
「楽しいのよ。夜の砂漠は涼しくて、星がものすごく綺麗なの。日本では見られないくらい」
ファーティマの顔が、少しだけ明るくなっていた。
故郷の話をしているうちに、元気を取り戻しているようだった。
「いつか、湊にも見せたいわ」
「え?」
「アブダビの砂漠。夜空。モスク。全部」
彼女はまっすぐ俺を見た。
「私の世界を、湊に見てほしいの」
その言葉が、胸に響いた。
「……いつか、行ってみたいな」
「本当?」
「ああ。お前の故郷、見てみたい」
ファーティマは嬉しそうに微笑んだ。
「約束よ」
「気が早いな」
「いいの。約束して」
俺は苦笑しながら頷いた。
「わかったよ。約束する」
「インシャアッラー」
「神が望めば、だっけ」
「覚えてるのね」
「お前に教わったからな」
* * *
気づけば、雨が止んでいた。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。
「あ、見て」
ファーティマが空を指差した。
虹が出ていた。雨上がりの空に、七色のアーチがかかっている。
「綺麗……」
「ああ」
「アブダビでは、虹ってあまり見られないの。雨が少ないから」
「そうなのか」
「だから、虹を見ると特別な気持ちになるわ」
彼女は立ち上がり、虹に向かって手を伸ばした。
届くわけがないのに、そうせずにはいられない。そんな表情だった。
「ねえ湊」
「ん?」
「私、もう大丈夫」
振り返った彼女の顔には、いつもの笑顔が戻っていた。
「話を聞いてくれてありがとう。少し楽になったわ」
「そうか。よかった」
「ホームシックは、きっとまた来ると思う。でも、こうやって話を聞いてくれる人がいれば、乗り越えられる気がする」
彼女は俺の隣に戻ってきた。
「湊がいてくれて、よかった」
「……どういたしまして」
「アフワン、でしょう?」
「あ、そうだった。アフワン」
ファーティマはくすくす笑った。
「発音、上手くなったわね」
「まだまだだよ」
「そんなことないわ。もう立派なアラビア語話者よ」
大げさだ、と思ったが、口には出さなかった。
彼女が笑っているなら、それでいい。
虹はゆっくりと薄くなり、やがて消えていった。
でも、この日のことは忘れないだろう。
雨の日の東屋。彼女の涙。故郷の話。そして、虹。
全部、俺の記憶に刻まれた。
「帰ろうか」
「ええ」
俺たちは並んで歩き出した。
水たまりを避けながら、駅への道を進む。
梅雨はまだ続く。
でも、雨の日も悪くない。
そんなことを、初めて思った。
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