第10話「アラビア語はじめました」
きっかけは、些細なことだった。
放課後、ファーティマと一緒に帰る途中。彼女のスマホに電話がかかってきた。
「あ、ごめんなさい。弟からだわ」
彼女は電話に出て、流暢に話し始めた。
アラビア語だった。
何を言っているのか、まったくわからない。
でも、その響きが妙に耳に残った。抑揚のある、独特のリズム。時々笑い声が混じり、ファーティマの表情が柔らかくなる。
電話が終わり、彼女が俺の方を向いた。
「お待たせ。ユーセフったら、宿題わからないって」
「ああ、いいよ」
「何か考え事してた?」
「いや……お前のアラビア語、綺麗だなって」
思わず口に出てしまった。
ファーティマは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ありがとう。でも私のアラビア語、訛りがあるって言われるのよ」
「訛り?」
「アブダビの方言があるの。標準アラビア語とは少し違うわ」
「へえ……」
「興味ある? アラビア語」
その問いに、俺は少し考えた。
興味がないと言えば嘘になる。ファーティマと話していると、時々アラビア語が混ざる。ヤッラ、シュクラン、インシャアッラー。意味は教えてもらったが、それ以上のことは知らない。
「まあ、少しは」
「じゃあ教えてあげましょうか」
「え?」
「簡単な言葉からなら、すぐ覚えられるわよ」
ファーティマは楽しそうだった。
「湊がアラビア語話せるようになったら、面白いわね」
* * *
その日から、俺はアラビア語を勉強し始めた。
といっても、本格的に学ぶわけではない。ファーティマに教えてもらいながら、少しずつ単語を覚えていく程度だ。
まず最初に覚えたのは、挨拶だった。
「マルハバ。こんにちは、よ」
「マルハバ」
「そうそう。でももう少し喉の奥から出す感じ」
「マルハバ」
「うん、いいわね」
ファーティマは先生役が気に入ったらしく、熱心に教えてくれた。
「次は、キーファ・ハーラク。元気? という意味」
「キーファ……ハーラク」
「惜しい。ハーラクの発音が少し違うわ」
アラビア語には、日本語にない音がたくさんある。喉の奥から出す音や、舌を巻く音。何度も練習して、ようやく近い発音ができるようになった。
「上手になってきたわね」
「そうか?」
「ええ。筋がいいわ」
褒められると悪い気はしない。
俺は家でも、スマホのアプリを使ってアラビア語を勉強するようになった。
* * *
一週間後。
昼休み、いつものように礼拝から戻ってきたファーティマに、俺は声をかけた。
「キーファ・ハーラク」
ファーティマが固まった。
そして、目を見開いた。
「湊、今の……」
「合ってたか?」
「合ってる……ちゃんと通じるわ」
彼女の顔がぱっと明るくなった。
「すごい! 練習したのね」
「まあ、少しな」
「少しじゃないわよ。一週間でここまでできるなんて」
ファーティマは本当に嬉しそうだった。
その笑顔を見て、俺も嬉しくなった。
「他にも覚えたぞ。シュクラン、ありがとう。アフワン、どういたしまして。マアッサラーマ、さようなら」
「完璧よ!」
彼女は手を叩いて喜んだ。
「湊が私の言葉を覚えてくれるなんて、感動だわ」
「大げさだな」
「大げさじゃないわ。だって、日本で私の言葉を話そうとしてくれる人、初めてだもの」
その言葉に、少し胸が熱くなった。
* * *
アラビア語の勉強は続いた。
昼休みや放課後、ファーティマは俺に新しい言葉を教えてくれた。
「今日は数字を教えるわね。ワーヒド、一。イトネーン、二。タラータ、三」
「ワーヒド、イトネーン、タラータ……」
「アルバア、四。ハムサ、五」
ノートに書き留めながら、繰り返し練習する。
ファーティマは根気強く、何度でも発音を直してくれた。
「ねえ湊、なんでアラビア語を勉強しようと思ったの?」
ある日、彼女がふと聞いてきた。
「んー……お前の言葉だから、かな」
「私の言葉?」
「お前、時々アラビア語混ぜるだろ。意味わかんないと悔しいし」
半分は本当で、半分は照れ隠しだった。
本当の理由は、もう少し別のところにある。
ファーティマのことをもっと知りたかった。
彼女の文化、彼女の国、彼女の言葉。それを理解することで、少しでも彼女に近づきたかった。
でも、そんなことは恥ずかしくて言えない。
「嬉しいわ」
ファーティマは微笑んだ。
「湊が私の世界に興味を持ってくれて」
「お前だって、日本語上手いだろ。お互い様だ」
「それはそうだけど……でも、やっぱり嬉しいの」
彼女の目が、少し潤んでいるように見えた。
「アブダビにいた時は、当たり前だった。みんな同じ言葉を話して、同じ文化を共有して。でも日本に来て、私は少数派になった」
「……」
「寂しくないって言ったら嘘になるわ。でも、湊がいてくれるから大丈夫」
俺は何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉を受け止めるだけで精一杯だった。
* * *
それから一ヶ月。
俺のアラビア語は、少しずつ上達していった。
簡単な会話ならできるようになった。挨拶、自己紹介、数字、曜日、色。日常で使う基本的な単語は、だいたい覚えた。
「アナ・イスミー・ミナト」
ある日、俺はファーティマの前でそう言った。
私の名前は湊です、という意味だ。
「発音が綺麗になったわね」
「そうか?」
「ええ。最初の頃と全然違う」
ファーティマは感心したように頷いた。
「このまま続けたら、本当にアラビア語話せるようになるわよ」
「そうなったらいいな」
「何か目標でもあるの?」
俺は少し考えてから答えた。
「お前と、アラビア語で話してみたい」
「え?」
「いつか、俺の下手なアラビア語で、お前と会話したい。それが目標かな」
ファーティマは目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「素敵な目標ね」
「笑うなよ」
「笑ってないわ。本当に素敵だと思ったの」
彼女はアラビア語で何かを言った。
俺にはまだ理解できない言葉だった。
「今のは?」
「内緒」
「ずるいぞ」
「いいの。いつかわかる日が来るわ」
ファーティマはいたずらっぽく笑った。
「それまでに、もっと勉強してね」
「……わかったよ」
俺はため息をつきながら、ノートを開いた。
彼女が言った言葉、いつか必ず理解してみせる。
そう心に誓いながら、俺は新しい単語を書き込んだ。
アラビア語の勉強は、思っていたより楽しかった。
新しい世界が、少しずつ開けていく感覚。
そして何より、ファーティマと過ごす時間が増えることが嬉しかった。
友達という距離。
その距離を縮めようとしているわけではない。
ただ、彼女のことをもっと知りたいだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はアラビア語の勉強を続けた。
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