第9話「友達という距離」

 五月も半ばを過ぎた。

 ゴールデンウィーク明けから、俺とファーティマの関係は微妙に変わった。


 いや、変わっていないと言うべきか。

 表面上は何も変わっていない。いつも通り隣の席で話し、昼休みは一緒に過ごし、放課後も時々一緒に帰る。

 でも、俺の中で何かが違っていた。


 ライラさんの言葉が、ずっと頭の片隅に残っている。

 これ以上、娘と親しくなることは控えていただきたい。

 その言葉を意識するたびに、俺は無意識にファーティマと距離を取ろうとしていた。


 * * *


「湊、今日の放課後、暇?」


 昼休み、ファーティマがそう聞いてきた。


「んー、どうかな」


「どうかなって、暇なの? 暇じゃないの?」


「まあ……暇だけど」


「じゃあ一緒に帰りましょう。途中でアイス食べたいの」


 いつもなら二つ返事で「いいよ」と言っていた。

 でも今は、ライラさんの顔がちらついた。


「今日はちょっと……」


「用事あるの?」


「いや、特にないけど」


「じゃあいいじゃない」


 ファーティマは不思議そうに俺を見た。


「最近の湊、なんか変よ」


「そうか?」


「そうよ。誘っても曖昧な返事ばっかり」


 図星だった。

 ここ一週間、俺は何かと理由をつけて彼女と二人きりになることを避けていた。自分でも意識していなかったが、彼女は気づいていたらしい。


「やっぱり母のこと、気にしてるんでしょう」


「……」


「気にしないでって言ったのに」


 ファーティマの声には、少し寂しさが混じっていた。


「気にしてないよ」


「嘘。湊は嘘が下手だって言ったでしょう」


 俺は何も言えなかった。

 彼女の言う通りだ。俺は気にしている。ライラさんの言葉を振り払えないでいる。


「湊」


 ファーティマが真剣な顔で俺を見た。


「私のこと、嫌いになった?」


「なってない」


 それだけは即答できた。嫌いになるわけがない。


「じゃあなぜ避けるの?」


「避けてない」


「避けてるわ。前みたいに気軽に話してくれない」


 彼女の目が潤んでいるように見えた。

 俺は、彼女を傷つけている。そのことに気づいて、胸が痛んだ。


「……悪い」


「謝らなくていい。理由を教えて」


 俺は深呼吸した。正直に言うべきだと思った。


「お前の母さんに言われたんだ。これ以上親しくなるなって」


「知ってるわ。母から聞いた」


「だから……俺なりに考えて」


「考えて、私を避けることにしたの?」


 その言い方は、少し棘があった。


「避けてるわけじゃなくて、距離を——」


「同じことよ」


 ファーティマは俯いた。


「私、悲しいわ。湊がそんな風に考えてるって知って」


「ファーティマ……」


「母が何を言っても、私は私よ。私が誰と友達になるかは、私が決める。母じゃない」


 彼女の声は震えていた。


「それなのに湊が離れていったら、私はどうすればいいの」


 その言葉が、胸に突き刺さった。

 俺は何をやっているんだ。

 ライラさんのことを気にするあまり、一番大切な人を傷つけていた。


「……ごめん」


「だから謝らなくていいって」


「いや、謝らせてくれ。俺が間違ってた」


 俺はファーティマの目を見た。


「お前の気持ちを無視して、勝手に距離を取ろうとしてた。最低だった」


「……」


「お前が友達だって言ってくれたのに、俺は逃げてた。本当にごめん」


 ファーティマは黙っていた。

 しばらくして、小さく息を吐いた。


「もう、しないでね」


「ああ」


「勝手に離れないで。ちゃんと話して」


「わかった」


 彼女は少しだけ微笑んだ。


「約束よ」


「約束する」


 * * *


 放課後、約束通り一緒に帰った。

 途中のコンビニでアイスを買い、公園のベンチに座った。


「やっぱりこうやって話す方がいいわ」


 ファーティマはアイスを頬張りながら言った。ストロベリー味のカップアイスだ。


「ああ」


 俺はチョコ味を選んだ。夕日が公園を照らしている。


「ねえ湊」


「ん?」


「さっきはごめんなさい。きつい言い方したわ」


「いや、俺が悪かったから」


「でも、あなたの気持ちもわかるの」


 ファーティマは空を見上げた。


「母は怖いでしょう? 私もたまに怖いもの」


「怖いっていうか……」


「いいの、わかってる。母は本気で言っているから、余計に怖いのよね」


 彼女は苦笑した。


「でもね、母も悪い人じゃないの。ただ、私のことが心配なだけ」


「わかってるよ」


「外国で暮らすって、不安なことが多いから。母は私を守りたいのよ。その方法が、私とは合わないだけ」


 ファーティマは俺の方を向いた。


「だから、母のことは私が何とかする。湊は気にしないで」


「でも——」


「大丈夫よ。時間がかかるかもしれないけど、いつかわかってもらえると思うから」


 彼女の声は、不思議と自信に満ちていた。


「湊は、私にとって大切な友達。それを母にも理解してもらいたいの」


 友達。

 その言葉を聞いて、俺は少し複雑な気持ちになった。

 嬉しいはずなのに、どこか物足りない。


 いや、贅沢を言うな。

 友達でいられるだけで、十分じゃないか。


「なあ、ファーティマ」


「何?」


「友達って、どういう意味だと思う?」


 唐突な質問に、彼女は首を傾げた。


「どういう意味って?」


「いや、国によって違うのかなと思って。日本での友達と、アブダビでの友達は、同じなのかな」


「同じよ」


 ファーティマは迷いなく答えた。


「一緒にいて楽しい人。困った時に助けてくれる人。自分のことを理解しようとしてくれる人。それが友達でしょう?」


「……そうだな」


「湊は全部当てはまるわ。だから友達」


 シンプルな答えだった。

 でも、その言葉が妙に心に染みた。


「俺も、お前のこと友達だと思ってる」


「当然でしょう」


 ファーティマは笑った。


「今さら何を言ってるの」


「いや、ちゃんと言っておこうと思って」


「変な湊」


 彼女はアイスを食べ終わり、立ち上がった。


「さ、帰りましょう」


「ああ」


 俺も立ち上がり、並んで歩き始めた。


 友達。

 その距離が、今の俺たちにはちょうどいいのかもしれない。

 ライラさんのことも、将来のことも、考えなければいけないことは山ほどある。

 

 でも今は、この距離を大切にしよう。

 彼女が友達だと言ってくれる限り、俺はその場所にいたい。


「湊」


「ん?」


「明日も一緒に帰ろうね」


「ああ」


「約束よ」


「わかってる」


 夕日が沈んでいく。

 俺たちの影が、長く伸びていた。


 友達という距離。

 それが正解なのかどうか、俺にはまだわからない。

 でも少なくとも今は、彼女の隣にいられることが嬉しかった。


 それだけで、十分だと思いたかった。

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