第8話「母の壁」
ゴールデンウィーク最終日。
原宿、東京タワー、秋葉原、お台場——連休中、俺たちは東京中を巡った。ファーティマは行く先々で目を輝かせ、写真を撮り、感動していた。
楽しかった。
素直にそう思えた。
でも、その日の夕方。
すべてが変わった。
* * *
お台場からの帰り道、ファーティマを家まで送ることになった。
いつもは駅で別れるのだが、その日は荷物が多かった。お土産や買い物の袋が両手いっぱいで、一人で持つには大変そうだったのだ。
「玄関まででいいわ。上がらなくていいから」
「わかった」
マンションのエントランスに着き、荷物を渡そうとした時だった。
「ファーティマ」
冷たい声が響いた。
振り返ると、女性が立っていた。四十代くらいだろうか。黒いアバヤを纏い、ヒジャブで髪を覆っている。整った顔立ちはファーティマによく似ていたが、表情は険しかった。
「お母様……」
ファーティマの声が強張った。
母親。つまり、ライラさんだ。
「この方は?」
ライラさんの視線が俺に向けられた。品定めするような、冷ややかな目だった。
「クラスメイトの湊よ。荷物を持ってくれて——」
「男性と二人で出歩いていたの?」
その言葉に、空気が凍った。
ファーティマは口ごもった。
「それは……」
「何度も言ったはずよ。家族以外の男性と二人きりになってはいけないと」
「でもお母様、湊はサポート係で——」
「そういう問題ではないの」
ライラさんの声には有無を言わせない厳しさがあった。
「あなたはムスリマよ。分別ある行動を取りなさい」
俺は立ち尽くしていた。何を言えばいいかわからない。
ファーティマは俯いたまま、唇を噛んでいた。
「荷物は私が持つわ。あなたは先に上がりなさい」
「……はい」
ファーティマは俺の方を見ずに、エントランスに消えていった。
残されたのは、俺とライラさんだけだった。
「あの、俺は——」
「湊さん、と言いましたね」
ライラさんが口を開いた。冷たいが、感情的ではない。むしろ、落ち着き払った声だった。
「娘がお世話になっているようですね」
「いえ、そんな……」
「感謝しています。異国での生活は大変ですから」
意外な言葉だった。てっきり怒られるかと思っていた。
「でも」
ライラさんは続けた。
「これ以上、娘と親しくなることは控えていただきたいのです」
「え……」
「あなたが悪い人ではないことはわかります。でも、私たちには私たちの価値観があります」
彼女の目は真剣だった。敵意ではなく、娘を守ろうとする母親の目だった。
「ファーティマは、いずれアブダビに帰ります。そして、ムスリムの男性と結婚します。それが、私たちの文化なのです」
「……」
「あなたとの友情が、娘にとって良い思い出になることは否定しません。でも、それ以上の関係は許されないのです」
俺は何も言えなかった。
反論する言葉が見つからなかった。いや、反論する権利があるのかさえわからなかった。
「ご理解いただけますか」
「……はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。
ライラさんは小さく頷き、エントランスの中に消えていった。
俺は一人、夕暮れの中に残された。
* * *
家に帰っても、ライラさんの言葉が頭から離れなかった。
これ以上、娘と親しくなることは控えていただきたい。
それ以上の関係は許されない。
それ以上って、何だ。
俺とファーティマは友達だ。サポート係と転入生。それ以上でも以下でもない。
……本当に?
自分に問いかけて、答えが出なかった。
ゴールデンウィーク中、毎日のように彼女と出かけて、俺は楽しかった。彼女の笑顔を見ると嬉しかった。一緒にいる時間が、特別に感じられた。
それは、友達に対する感情なのか?
スマホが震えた。ファーティマからだった。
『ごめんなさい。母に変なこと言われたでしょう』
『大丈夫。気にしてない』
嘘だ。気にしていないわけがない。
『本当に?』
『本当』
『……ありがとう』
しばらく間があった。
『母は保守的なの。悪気はないのだけれど、厳しいところがあって』
『わかるよ。心配なんだろ、お前のことが』
『ええ……』
『親ってそういうもんだ』
自分でも何を言っているのかわからなかった。ただ、彼女を安心させたかった。
『湊は優しいわね』
『そうでもないけど』
『優しいわ。いつも』
その言葉が、胸に刺さった。
優しい。そう言われるほど、俺は何もできていない。
『明日から学校だな』
『ええ』
『また普通に話そう』
『……ええ。おやすみなさい』
『おやすみ』
スマホを置いて、天井を見上げた。
普通に話そう。そう言ったけれど、明日から本当に普通でいられるのか。
ライラさんの言葉を聞いてしまった今、ファーティマと同じように接することができるのか。
わからなかった。
* * *
翌日。
教室に入ると、ファーティマがいつものように席に座っていた。
目が合う。彼女は小さく微笑んだ。
「おはよう、湊」
「おはよう」
普通だ。いつも通りだ。
でも、どこかぎこちない自分がいた。
「昨日は楽しかったわね、お台場」
「ああ、そうだな」
「観覧車からの景色、綺麗だった」
「……ああ」
ファーティマは俺の顔をじっと見た。
「湊、やっぱり気にしてる?」
「え?」
「母のこと」
見透かされている。彼女の目は真剣だった。
「気にしてない」
「嘘」
断言された。
「湊は嘘が下手ね」
「……」
「いいのよ、気にして当然だわ。私だって気にしてる」
ファーティマは窓の外を見た。
「でもね、私は私よ。母がどう言おうと、私の気持ちは私が決める」
「ファーティマ……」
「あなたは私の大切な友達よ、湊。それは変わらない」
彼女は俺の方を向いた。その瞳には、強い意志があった。
「だから、いつも通りでいて。お願い」
俺は息を吐いた。
彼女の方がずっと強い。こんな状況でも、堂々としている。
俺が縮こまっていてどうする。
「……わかった」
「本当?」
「ああ。いつも通りでいる」
ファーティマは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、湊」
「礼を言うのはこっちだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
チャイムが鳴り、授業が始まる。
俺は前を向いた。
ライラさんの言葉は、まだ胸の中に残っている。
でも、今は考えないことにした。
ファーティマが友達だと言ってくれた。
それだけで、十分だった。
……十分なはずだった。
でも心のどこかで、小さな疑問が芽生えていた。
俺にとって、ファーティマは本当に友達なのか?
それとも——。
その答えは、まだ出せなかった。
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