第6話「弟ユーセフ登場」

 日曜日の昼下がり。

 俺は自分の部屋でゴロゴロしていた。特に予定もなく、スマホをいじりながら時間を潰す。平和な休日だ。


 そんな時、スマホが震えた。ファーティマからのメッセージだ。


『今日、暇?』


 暇かと聞かれれば暇だ。でも日曜に何の用だろう。


『暇だけど、なんで?』


『弟がどうしても会いたいって言うの。日本の高校生と話してみたいんですって』


 弟。そういえば、家族の話で弟がいると言っていた気がする。


『別にいいけど、どこで会う?』


『うちに来て。住所送るわ』


 うち。つまりファーティマの家か。

 なんだか緊張する話だが、弟に会うだけだ。変に意識する必要はない。


 送られてきた住所を見て、俺は目を疑った。

 都心の一等地。高級住宅街として有名なエリアだ。


 やっぱりお嬢様は住む世界が違う。


 * * *


 指定された住所に着いて、俺は立ち尽くした。

 目の前にあるのは、マンションというより要塞だった。ガラス張りの高層ビル。エントランスにはコンシェルジュがいて、セキュリティゲートが何重にもある。


「あの、ファーティマさんのお宅に……」


「お名前をお願いします」


 名前を告げると、コンシェルジュが電話で確認を取った。しばらくして「どうぞ」と案内される。


 エレベーターで上がっていく。階数表示がどんどん増えていく。三十階、三十五階、四十階——最上階で止まった。

 ペントハウスかよ。


 エレベーターを降りると、廊下にファーティマが立っていた。


「来てくれたのね。ありがとう」


「いや……すごいとこ住んでるな」


「そう? 父の会社が用意してくれたの」


 そう、のレベルじゃない。

 案内されて部屋に入ると、窓から東京の街が一望できた。スカイツリーも、東京タワーも見える。まるでホテルのスイートルームだ。


「湊さん!」


 奥から声がして、少年が駆けてきた。

 中学生くらいだろうか。ファーティマと同じ黒い髪と大きな瞳。でも雰囲気は全然違う。活発で、好奇心に満ちた顔をしている。


「弟のユーセフよ」


「初めまして! 僕、ユーセフです!」


 少年は勢いよく手を差し出した。握手を求めているらしい。


「ああ、湊です。よろしく」


「湊さんって、姉さんの彼氏ですか?」


「ユーセフ!」


 ファーティマが顔を赤くして弟を睨んだ。


「違うわよ。クラスメイトで、サポート係なの」


「サポート係? 何それ」


「私の日本生活を手伝ってくれる人よ」


「へえ」


 ユーセフは俺をじろじろと見た。値踏みするような目だ。


「でも姉さん、湊さんの話ばっかりするよね。今日は湊がこう言ってた、湊に教えてもらった、湊と一緒に——」


「ユーセフ!」


 ファーティマの声が一段と大きくなった。頬が真っ赤だ。


「余計なこと言わないで」


「本当のことじゃん」


 弟は悪びれもせずにケラケラ笑った。なかなか手強いやつだ。


 * * *


 リビングのソファに座り、お茶を出された。

 といっても、日本のお茶ではない。甘いミントティーだった。


「アラビアンティーよ。口に合うかしら」


「うまいな、これ」


 爽やかなミントの香りと、ほのかな甘さ。意外と飲みやすい。


「でしょう? 私も好きなの」


 ファーティマは嬉しそうに微笑んだ。

 その横で、ユーセフが身を乗り出してきた。


「ねえ湊さん、日本の高校ってどんな感じ?」


「どんな感じって……普通だよ」


「部活とかあるの?」


「あるけど、俺は入ってない」


「えー、もったいない。日本の部活って漫画みたいなんでしょ?」


 漫画みたい。どこでそんな知識を仕入れたんだ。


「ユーセフ、日本のアニメが好きなのよ」


 ファーティマが呆れたように言った。


「好きっていうか、大好き! 最近は『進撃の巨人』にハマってて——」


「あれ、結構グロくないか?」


「それがいいんだよ! あと『呪術廻戦』と『SPY×FAMILY』と『推しの子』と——」


 次から次へと作品名が出てくる。こいつ、相当なオタクだ。


「アブダビでも見られるのか、日本のアニメ」


「見られるよ。ネットがあるから。でも日本に来てからは、もっと早く見られるんだ」


 ユーセフは目を輝かせた。


「あとゲームも! 日本のゲームって最高だよね。ゼルダとか、ポケモンとか」


「ゲーム好きなのか」


「うん! 湊さんは?」


「まあ、そこそこ」


「今度一緒にやろうよ!」


 なんだか話が弾んでいる。この弟、人懐っこいな。


 * * *


「ところで湊さん」


 ユーセフが急に真面目な顔になった。


「姉さんのこと、どう思ってるの?」


「ユーセフ……」


 ファーティマが頭を抱えた。でもユーセフは気にせず続ける。


「姉さん、日本に来てから楽しそうなんだ。前はあんまり学校の話しなかったのに、最近はよく話すし」


「そうなのか」


「うん。で、その話にはだいたい湊さんが出てくる」


 ファーティマが小さく唸った。恥ずかしいのだろう。でも止める気配はない。彼女も弟の話を聞いているようだった。


「だから、ありがとうって言いたかったんだ」


 ユーセフはまっすぐ俺を見た。さっきまでのふざけた様子はない。


「姉さん、強がりだけど、実は繊細なんだ。異国で一人は心細かったと思う。でも湊さんがいてくれて、楽になったみたい」


「そんな大したことしてないけど」


「してるよ。姉さんが言ってた。湊は私の話をちゃんと聞いてくれるって。変だって思わないで、理解しようとしてくれるって」


 横を見ると、ファーティマが顔を伏せていた。耳まで赤くなっている。


「ユーセフ、もうやめて……」


「なんで? 本当のことだよ」


「だから恥ずかしいのよ……」


 お嬢様の珍しい姿に、俺は思わず笑ってしまった。


「何がおかしいの」


「いや、ファーティマにもそういう顔するんだなって」


「どういう意味よ」


「いつも堂々としてるから。照れるとこ初めて見た」


「っ……」


 ファーティマはますます顔を赤くした。ユーセフがケラケラ笑っている。


「姉さん、可愛いとこあるでしょ」


「うるさい」


 * * *


 夕方になり、そろそろ帰ろうとした時だった。


「湊さん、また来てね」


 ユーセフが玄関まで見送りに来た。


「ああ、また」


「約束だよ。今度はゲームしよう」


「わかったわかった」


 ユーセフは満足そうに頷いた。そして、ファーティマには聞こえないように小声で言った。


「姉さんのこと、よろしくね」


「……ああ」


 なんだか重大な任務を託された気分だ。


 エレベーターホールまで、ファーティマが送ってくれた。


「ごめんなさいね、弟が変なこと言って」


「いや、面白いやつだな」


「面白い……そうかしら。私には悩みの種だわ」


 彼女はため息をついたが、どこか嬉しそうだった。


「でも、ユーセフが気に入ったみたい。あの子、人見知りするタイプなのに」


「そうなのか? 全然そう見えなかったけど」


「湊だからよ、きっと」


 ファーティマは微笑んだ。


「あなたといると、みんな素直になるの」


「買いかぶりすぎだろ」


「そんなことないわ」


 エレベーターが来た。

 ドアが開き、俺は中に入る。振り返ると、ファーティマが手を振っていた。


「今日はありがとう」


「こっちこそ」


「また明日、学校でね」


「ああ」


 ドアが閉まり、エレベーターが下降を始める。

 窓から見える東京の夜景がゆっくりと近づいてくる。


 ユーセフの言葉が頭に残っていた。

 姉さんのこと、よろしくね。


 よろしく、か。

 その言葉の意味を、俺はまだちゃんと理解できていなかった。


 でも、悪い気はしなかった。

 むしろ——。


 スマホが震えた。ユーセフからの友達申請だった。

 俺は苦笑しながら、承認ボタンを押した。

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