第5話「ハラールを探して」
放課後、俺はファーティマに呼び止められた。
「湊、今日は付き合ってほしいの」
「何に?」
「買い物よ。食材を探したいの」
食材? スーパーに行けばいくらでもあるだろう。そう思ったが、彼女の表情が少し困っているように見えて、俺は頷いた。
「いいけど、どんな食材?」
「ハラールのお肉が欲しいの」
「ハラール?」
聞いたことはある。確かイスラム教で許されている食べ物のことだ。
「豚肉が駄目なのは知ってるけど、牛肉や鶏肉なら大丈夫じゃないのか?」
「そう単純じゃないのよ」
ファーティマは小さくため息をついた。
「イスラムでは、お肉の処理方法にも決まりがあるの。正しい方法で処理されたものじゃないと、食べられないのよ」
「処理方法……?」
「動物を屠る時に、お祈りを唱えるの。そうやって神様に感謝してから頂くのが、ハラールなの」
なるほど。単に種類の問題じゃないのか。日本のスーパーで売っている肉は、当然そんな処理はされていない。
「普通のスーパーには売ってないってことか」
「ええ。だから専門店を探しているのだけれど、見つからなくて」
彼女は困った顔をした。
「アブダビでは当たり前に手に入るものだったから、こんなに苦労するとは思わなかったわ」
確かに、日本でハラールフードを探すのは難しいだろう。俺も聞いたことがないし、売っている店を知らない。
「ちょっと待て。調べてみる」
スマホを取り出して検索する。ハラール、食材、東京——いくつかのキーワードで探すと、専門店の情報がいくつか出てきた。
「あった。新大久保に専門店があるみたいだ」
「新大久保?」
「コリアンタウンって言われてる街だけど、最近はいろんな国の店があるらしい」
「行ってみたいわ」
ファーティマの目が輝いた。
「案内してくれる?」
断る理由はなかった。
「わかった。行くか」
「ヤッラ!」
* * *
電車を乗り継いで、新大久保に着いた。
駅を出た瞬間、ファーティマは目を丸くした。
「すごい……」
通りには様々な言語の看板が並んでいた。韓国語、中国語、ベトナム語、アラビア語。食べ物の匂いがあちこちから漂い、様々な国籍の人々が行き交っている。
「日本にこんな場所があるなんて知らなかったわ」
「俺も来たことなかった」
正直、ここまで多国籍な雰囲気だとは思っていなかった。東京は広い。知らない顔がまだまだある。
「あ、あれ見て!」
ファーティマが指差した先には、アラビア語の看板があった。どうやらハラール食材の専門店らしい。
「行ってみるか」
「ええ!」
店に入ると、見慣れない食材が所狭しと並んでいた。
スパイスの瓶、豆の袋、缶詰、そして冷凍ケースには肉類。パッケージにはアラビア語や英語で「HALAL」の文字が印刷されている。
「あったわ、ハラールのチキン!」
ファーティマは嬉しそうに冷凍チキンを手に取った。
「よかったな」
「ええ。これでお母様も安心して料理できるわ」
お母様、か。そういえば家族の話はあまり聞いたことがなかった。
「家族で料理するのか?」
「家政婦のサラさんが作ってくれるの。でもハラールの食材がないと困るって言ってたから」
家政婦。やっぱりお嬢様の世界は違う。
ファーティマは店内を見回しながら、次々と食材をカゴに入れていった。スパイス、豆、米、調味料。買い物カゴはあっという間にいっぱいになった。
「そんなに買うのか?」
「だって、なかなか来られないかもしれないでしょう? まとめ買いしておかないと」
確かに、学校帰りに気軽に来られる距離ではない。彼女なりに計画的なのだ。
「あ、これも!」
ファーティマがまた何かを見つけた。デーツと書かれた袋だ。
「デーツ?」
「ナツメヤシの実よ。アブダビではよく食べるの。甘くて美味しいのよ」
「へえ」
「湊も食べてみる?」
彼女は袋を開けて、一粒差し出した。茶色い、干しブドウを大きくしたような見た目だ。
口に入れると、濃厚な甘さが広がった。
「甘いな」
「でしょう? 栄養もあるの。ラマダンの断食明けには、まずこれを食べるのよ」
「断食か……大変そうだな」
「慣れよ」
彼女はにっこり笑った。
* * *
買い物を終えて店を出ると、日が傾き始めていた。
両手いっぱいの袋を持ったファーティマは、満足そうな顔をしていた。
「ありがとう、湊。一人じゃ絶対見つけられなかったわ」
「俺は検索しただけだけどな」
「それでも。付き合ってくれて嬉しかった」
彼女の言葉に、なんとなくくすぐったい気持ちになった。
「腹減ったな」
「あら、そうね。何か食べていく?」
「でもお前、食べられる店限られるだろ」
「この辺りならハラールのレストランもあるんじゃないかしら」
確かに、この街なら見つかるかもしれない。
スマホで検索すると、すぐ近くにハラール対応のカレー屋があった。
「カレーでいいか?」
「ええ、大好きよ」
店に入ると、スパイスの香りが鼻をくすぐった。
メニューを見ると、ちゃんと「HALAL」と表記されている。ファーティマは安心したようにメニューを眺めていた。
「チキンビリヤニにするわ」
「俺はバターチキンカレーで」
注文を終えて、料理が来るのを待つ。
ファーティマはテーブルの上の調味料を興味深そうに眺めていた。
「ねえ湊」
「ん?」
「日本に来て、食事のことで困ることが多いの」
「だろうな」
「でも今日、この街を知れて良かった。また来られるもの」
彼女は窓の外を見ながら続けた。
「アブダビでは何も考えなくてよかったの。どこで食べても、何を買っても、全部ハラールだったから」
「そりゃ、イスラムの国だもんな」
「ええ。でも日本では、いちいち確認しないといけない。お店の人に聞いたり、成分表示を見たり」
「面倒くさいだろ」
「最初はそう思ったわ」
ファーティマは俺の方を向いた。
「でも最近は、少し違う考え方をするようになったの」
「どんな?」
「自分の信仰について、ちゃんと考えるようになった」
俺は黙って聞いていた。
「アブダビでは当たり前すぎて、なぜハラールなのか、なぜ豚肉を食べないのか、深く考えたことがなかった。でも日本に来て、説明しなきゃいけない場面が増えて、改めて自分の宗教と向き合うようになったの」
「そうか」
「だから、困ることばかりじゃないのよ。新しい発見もある」
料理が運ばれてきた。
チキンビリヤニはスパイスの効いた炊き込みご飯で、バターチキンカレーは濃厚なトマトベースのカレーだった。
「いただきます」
「ビスミッラー」
ファーティマが小さく唱えた。食事の前の祈りらしい。
俺たちは静かに食べ始めた。
「美味しいわ」
「ああ、うまいな」
本格的なスパイスの味が口の中に広がる。コンビニのカレーとは全然違う。
「ねえ湊」
「ん?」
「今日のこと、すごく楽しかった」
ファーティマはスプーンを置いて、まっすぐ俺を見た。
「あなたといると、日本での生活が楽しくなる」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ねた。
「そ、そうか」
「ええ。だからこれからもよろしくね、サポート係さん」
彼女はいたずらっぽく笑った。
俺は照れを隠すようにカレーをかき込んだ。
* * *
帰り道、荷物の半分を持ってやりながら駅へ向かった。
「重くない?」
「これくらい平気だ」
「ありがとう」
夕焼けが街を染めていた。
様々な国の言葉が飛び交う通りを、俺たちは並んで歩いた。
「また来ようね、この街」
「ああ」
「次は何を探しに来ようかしら」
ファーティマは楽しそうに計画を語り始めた。
その横顔を見ながら、俺は思った。
彼女と過ごす時間が、少しずつ当たり前になっている。
サポート係という名目で始まった関係が、いつの間にか——。
「湊? 聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてる」
「本当に? 何の話をしてたか言ってみて」
「えーと……」
答えられない俺を見て、ファーティマは呆れたようにため息をついた。
「もう。ちゃんと聞いててよね」
「悪い悪い」
でも彼女は怒っているわけではなさそうだった。むしろ、どこか嬉しそうに見えた。
電車に乗って、いつもの駅に向かう。
両手の買い物袋は重かったけれど、不思議と苦にはならなかった。
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