第4話「電車という試練」
ゴールデンウィーク前の土曜日。
俺は駅の改札前で、ファーティマを待っていた。
きっかけは数日前の会話だった。
クラスメイトが修学旅行の話で盛り上がっていた時、ファーティマがぽつりと言ったのだ。
「電車って、どうやって乗るの?」
最初は冗談かと思った。でも彼女の顔は真剣だった。
聞けば、アブダビでは専属のドライバーがいて、どこに行くにも車だったという。公共交通機関を使った経験がほとんどないらしい。
「日本で暮らすなら乗れた方がいい。教えてやるよ」
そう言ったのは俺だ。サポート係の仕事の範囲内、のはずだった。
でも待ち合わせ場所に向かう足取りは、なぜか少し軽かった。
「湊!」
声のした方を見ると、ファーティマが歩いてきた。
今日は制服ではなく、白いブラウスに紺のロングスカート。頭にはいつもの黒いヒジャブ。シンプルだが、どこか品がある着こなしだった。
「待った?」
「いや、今来たとこ」
定番の台詞を言ってから、なんだか気恥ずかしくなった。別にデートじゃないのに。
「それで、運転手はどこにいるの?」
「いない」
「え?」
ファーティマは目を丸くした。
「電車に運転手がいないの?」
「いや、いるけど……お前が言ってるのは専属ドライバーのことだろ。そんなのいない」
「じゃあ誰が私たちを目的地まで連れて行ってくれるの?」
「自分で乗るんだよ」
「自分で?」
本気で驚いている。この子、本当にお嬢様なんだな。
「いいから来い。まずは切符の買い方から教える」
* * *
「これがスイカだな。この前買っただろ」
「ええ、持ってるわ」
ファーティマが財布から取り出したSuicaカードは、もう残高が少なくなっていた。コンビニでの散財が原因だ。
「まずチャージするぞ。この機械に入れて、お金を入れる」
「チャージ……補充するということね」
「そう」
彼女は真剣な顔でカードを機械に挿入した。今日は万札ではなく、ちゃんと千円札を用意してきたらしい。少しは学習している。
「次に改札を通る。ここにカードをタッチ」
「タッチ?」
「軽く当てるだけでいい」
ファーティマが恐る恐るカードをかざすと、ピッと音がして改札が開いた。
「開いた!」
「そんな大げさな……」
「だって魔法みたいじゃない。触れただけで門が開くなんて」
魔法て。日本人なら幼稚園児でも知ってる仕組みだ。
でも彼女の目は本当に輝いていて、なんだか微笑ましくなった。
「ホームに降りるぞ。階段こっち」
「ヤッラ」
彼女は軽い足取りでついてきた。
* * *
問題は、電車が来てからだった。
土曜の昼間とはいえ、都心に向かう電車はそれなりに混んでいた。
ドアが開くと、人がどっと降りてくる。そして入れ替わりに、待っていた人々が乗り込んでいく。
「さあ乗るぞ」
「……」
ファーティマが動かない。
顔が強張っている。
「どうした?」
「人が……多いわね」
「まあ、普通だな」
「これが普通?」
彼女は信じられないという顔をした。
確かに車内は混雑している。座席は全て埋まり、吊り革につかまって立っている人も多い。でも満員電車というほどではない。
「大丈夫だ。乗れないほどじゃない」
「でも……」
ファーティマは躊躇っていた。その視線が、車内の男性客に向けられているのに気づいた。
ああ、そうか。
「男の人と近くなるのが嫌なのか」
「……ええ」
彼女は小さく頷いた。
「イスラムでは、家族以外の男性とは距離を保つのがマナーなの。身体が触れるなんて、本当は避けたいのだけれど」
満員電車では無理な話だ。日本の通勤ラッシュなんか、見知らぬ人と密着するのが当たり前になっている。
「わかった。俺が壁になる」
「壁?」
「お前はドアの端に立て。俺が反対側に立って、他の人が近づかないようにする」
ファーティマは目を瞬かせた。
「いいの? 大変じゃない?」
「サポート係だからな」
我ながら便利な言い訳だと思った。
電車に乗り込み、言った通りの位置取りをする。ファーティマはドアの端に立ち、俺は吊り革を持って彼女を囲うように立った。
これなら他の乗客が彼女に触れることはないだろう。
「ありがとう、湊」
「いいって」
電車が動き出す。ファーティマは窓の外を興味深そうに眺めていた。
「速いのね」
「まあ、普通かな」
「景色がどんどん変わる。アブダビでは車の中から見る景色は、いつも同じ砂漠だったわ」
「砂漠か……想像つかないな」
「美しいのよ、砂漠も。でも日本の景色は、もっと色が多い」
彼女はそう言って、微笑んだ。
窓の外には、住宅街や商店街、時々緑の木々が流れていく。俺にとっては見慣れた風景だが、彼女には新鮮に映るらしい。
* * *
三駅ほど過ぎた頃、車内がさらに混雑してきた。
大きな駅で大勢の客が乗り込んできたのだ。
「っ……」
ファーティマの顔が青ざめた。
人混みに押されて、空間が狭くなっていく。俺は踏ん張って彼女のスペースを確保したが、それでも限界がある。
「大丈夫か?」
「ええ……」
明らかに大丈夫じゃない声だった。
彼女は目を閉じて、小さく唇を動かしていた。祈りの言葉だろうか。
「あと二駅だ。我慢できるか?」
「……ええ」
長い数分間だった。
ようやく目的の駅に着き、ホームに降りると、ファーティマは大きく息をついた。
「はぁ……」
「お疲れ」
「日本人は毎日こんな戦いをしているの?」
「戦いって言うな」
つい笑ってしまった。でも確かに、初めて体験したら戦いに感じるかもしれない。
「すごいわ、日本人。こんなのを毎日耐えられるなんて」
「慣れだよ、慣れ」
「私は慣れる自信がないわ……」
ファーティマは疲れた顔で首を振った。
「ああ、そうだ。一つ教えてなかったことがある」
「何?」
「女性専用車両ってのがあるんだ」
「女性専用……?」
「女の人だけが乗れる車両。朝のラッシュ時にある」
ファーティマの目が輝いた。
「そんなものがあるの!? なぜ最初に教えてくれなかったの!」
「いや、今日は走ってないから——」
「信じられないわ。そんな素晴らしいシステムがあるなんて」
彼女は本気で感動していた。
「日本は進んでいるのね。女性への配慮があるわ」
いや、痴漢対策なんだけど。そこまで説明するのも気が引けて、俺は曖昧に頷いた。
* * *
帰りは空いている時間帯を選んだ。
座席に並んで座りながら、ファーティマは今日の体験を振り返っていた。
「電車って難しいのね」
「慣れれば平気だよ」
「本当に?」
「本当。最初はみんなそうだって」
ファーティマは窓の外を眺めながら、ぽつりと言った。
「湊がいてくれて助かったわ。一人だったら、パニックになっていたかも」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないわ。本当に怖かったもの」
彼女の声は真剣だった。
「でも、あなたが壁になってくれたから、安心できた」
「……そっか」
なんと答えていいかわからず、俺は窓の外に目を向けた。
夕日が街を橙色に染めている。
「ねえ湊」
「ん?」
「次は何を教えてくれるの?」
振り返ると、ファーティマは少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「まだ日本には知らないことがたくさんあるもの。全部教えてもらわないと」
「全部って……お前、どんだけ俺を働かせる気だよ」
「だってサポート係でしょう?」
またそれか。
でも、嫌な気持ちにはならなかった。
「わかったよ。少しずつな」
「ヤッラ」
「だからそれどういう意味だっけ」
「さあ行きましょう、よ。もう覚えて」
彼女は笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
この先も、こうやって少しずつ、彼女に日本を教えていくのだろうか。
電車の乗り方、街の歩き方、日本の習慣。
一つずつ、一緒に。
悪くない、と思った。
むしろ——。
「何をにやにやしてるの?」
「してない」
「してたわ」
ファーティマに指摘されて、俺は慌てて顔を引き締めた。
電車は夕暮れの街を走り続ける。
窓の外の景色が、少しだけ特別に見えた。
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