第3話「礼拝の時間」
昼休みのチャイムが鳴って、教室がざわつき始める。
弁当を広げる者、学食に向かう者、友人と連れ立って購買に走る者。いつもの光景だ。
俺は自分の弁当を取り出しながら、何気なく隣の席を見た。
空席だった。
「あれ、ファーティマは?」
独り言のつもりだったが、前の席の女子が振り返った。
「さっき出ていったよ。どこか急いでたみたい」
「そうか。ありがとう」
急いでた? 学食でも行ったのか。
でも昨日、彼女は弁当を持ってきていた。家政婦さんが作ってくれるとかで、かなり豪華な中身だった。
気になって、俺は弁当を置いたまま席を立った。
* * *
廊下を歩きながら、ファーティマの姿を探す。
学食、購買、中庭。どこにもいない。
図書室かと思って覗いてみたが、やはりいなかった。
どこに行ったんだ。
校舎の端まで来たとき、ふと特別教室棟が目に入った。普段はあまり使われない、古い校舎だ。
まさか、と思いつつ足を向ける。
階段を上り、廊下を進む。ほとんどの教室は施錠されているが、一つだけドアが薄く開いていた。
第二音楽室。
そっと近づいて、隙間から中を覗く。
ファーティマがいた。
でも、俺が予想していた姿ではなかった。
彼女は窓際に小さな布を敷いて、その上に正座——いや、正座とは少し違う姿勢で座っていた。両手を胸の前に組み、目を閉じている。
唇が小さく動いていた。何かを呟いている。祈りの言葉だろうか。
やがて彼女は深くお辞儀をするように上体を倒し、額を床についた。
礼拝だ。
イスラム教徒が行う、あの礼拝。
テレビや映画で見たことはあったが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。
俺は息を殺して、その場に立ち尽くした。
邪魔してはいけない。本能的にそう感じた。
数分後、ファーティマはゆっくりと顔を上げた。静かに両手を膝に置き、小さく息をつく。
その横顔は、教室で見せるどんな表情よりも穏やかだった。
俺が立ち去ろうとした瞬間、床板が軋んだ。
「誰?」
ファーティマが振り返る。目が合った。
「あ……悪い、覗くつもりじゃなくて」
「湊?」
彼女は驚いた顔をしていたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「見てたの?」
「いや、その、探してたら偶然——」
「いいのよ。隠してるわけじゃないもの」
ファーティマは敷いていた布を丁寧に畳みながら言った。
「お祈り、だよな?」
「ええ。サラートって言うの。一日五回、神様にお祈りするのよ」
「五回も?」
思わず声が大きくなった。一日五回。毎日。それはかなりの負担ではないのか。
「夜明け前、お昼、午後、日没、夜。時間が決まっているの」
「大変じゃない?」
ファーティマは首を傾げた。
まるで、質問の意味がわからないという顔だった。
「大変? ……考えたこともなかったわ」
「え?」
「だって、ずっとそうしてきたもの。息をするのが大変? って聞かれても困るでしょう?」
なるほど、と思った。
俺たちが毎日歯を磨いたり、朝ごはんを食べたりするのと同じ感覚なのかもしれない。習慣として染みついているから、苦労とは思わない。
「でも学校だと、場所探すの大変だろ」
「そうなの」
ファーティマは少し困った顔をした。
「本当は静かで清潔な場所でお祈りしたいのだけれど、なかなか見つからなくて。今日はここが空いていたから使わせてもらったの」
「毎日こうやって探してるのか?」
「ええ、まあ……」
彼女は曖昧に笑った。その笑顔の奥に、少しだけ疲れが見えた気がした。
* * *
教室に戻る道すがら、俺は考えていた。
ファーティマは毎日、礼拝の場所を探し回っている。それも一日に何度も。
誰にも言わず、一人で。
「なあ、ファーティマ」
「何?」
「なんで誰かに相談しないんだ? 先生とか」
「……迷惑をかけたくないもの」
彼女は窓の外を見ながら答えた。
「私は転入生よ。しかも外国から来て、宗教も違う。これ以上特別扱いを求めたら、みんなに嫌われてしまうわ」
「そんなことないだろ」
「わからないわよ、そんなの」
珍しく、彼女の声に棘があった。
すぐに「ごめんなさい」と小さく謝って、ファーティマはまた微笑みを作った。
「大丈夫。自分で何とかするわ」
俺は何も言えなかった。
彼女の言うことはわかる。確かに、転入してきたばかりで「礼拝用の部屋をください」とは言いにくいだろう。
でも、それを一人で抱え込むのは違う気がした。
* * *
放課後、俺は職員室に向かった。
担任の机の前で立ち止まり、声をかける。
「先生、ちょっと相談があるんですけど」
「おう、何だ湊」
「ファーティマのことで」
担任の目が少し真剣になった。何かトラブルでもあったかと身構えている様子だ。
「いえ、トラブルじゃなくて。あいつ、毎日お祈りしないといけないらしいんです。イスラム教の」
「ああ、聞いてるよ。それが?」
「場所がなくて困ってるみたいで。空き教室を使わせてもらえないかなって」
担任は腕を組んで考え込んだ。
「毎日となると……管理の問題もあるしな」
「でも、あいつ一人で何とかしようとしてるんです。迷惑かけたくないからって」
俺の言葉に、担任は少し表情を和らげた。
「お前がそこまで言うなら、考えてみるか。ちょっと待ってろ」
担任は席を立ち、他の先生と何やら話し始めた。
数分後、戻ってきた担任は小さな鍵を持っていた。
「特別棟の小会議室、使っていいそうだ。普段は誰も使わないから」
「本当ですか?」
「ただし、ファーティマさん本人から申請してもらう形にする。お前が勝手に決めたってことにはしない方がいい」
「わかりました。ありがとうございます」
俺は頭を下げて、職員室を出た。
* * *
翌日の昼休み。
俺はファーティマを連れて、特別棟の小会議室に向かった。
「どこに行くの?」
「いいから来いって」
会議室のドアを開ける。中は小さいが、窓から光が入って明るい。机と椅子がいくつか並んでいるだけのシンプルな部屋だ。
「ここ、使っていいってさ」
「え?」
「礼拝の部屋。先生に頼んだら、許可してくれた」
ファーティマは目を丸くした。
「湊が、頼んでくれたの?」
「まあ、サポート係だし」
俺は目を逸らしながら答えた。
「ただ、お前から正式に申請しないといけないらしい。自分で職員室行けるか?」
「……ええ」
ファーティマの声が少し震えていた。
見ると、彼女は唇を噛んで、何かをこらえているようだった。
「どうした? 嫌だったか?」
「違うの」
彼女は首を横に振った。
「嬉しいの。こんなこと、してもらえると思わなかった」
「大げさだな。部屋一つだろ」
「部屋一つじゃないわ」
ファーティマは俺をまっすぐ見つめた。その瞳が、微かに潤んでいる。
「私のことを、理解しようとしてくれた。それが嬉しいの」
俺は何と答えていいかわからなかった。
理解しようとした、なんて大層なものじゃない。ただ、困っている奴を放っておけなかっただけだ。
「シュクラン」
「え?」
「ありがとう、という意味よ」
彼女は微笑んだ。教室で見せるお嬢様の笑顔ではなく、もっと自然で、柔らかい笑顔だった。
「シュクラン、湊」
その響きが、なぜか心地よかった。
* * *
会議室を出ると、窓の外には曇り空が広がっていた。
四月も半ばを過ぎて、そろそろ五月が近い。
「ねえ湊」
「ん?」
「あなた、どうしてそこまでしてくれるの?」
ファーティマが不思議そうに尋ねた。
「サポート係だからって言うけど、そこまでする義務はないでしょう?」
俺は少し考えてから答えた。
「義務とか、そういうんじゃないな」
「じゃあ何?」
「……わかんね。なんとなく」
正直な答えだった。
自分でもよくわからない。ただ、彼女が一人で抱え込んでいるのを見て、放っておけなかった。それだけだ。
「なんとなく、か」
ファーティマはくすりと笑った。
「変な人ね、やっぱり」
「お互い様だろ」
いつかのやり取りを繰り返して、俺たちは教室に戻った。
空はまだ曇っていたが、どこか心は晴れやかだった。
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