第2話「お嬢様の常識」
第2話「お嬢様の常識」
転入から三日目。ファーティマは少しずつクラスに馴染み始めていた。
とはいえ、問題がないわけではない。
いや、問題だらけだった。
「湊、学食というものに行ってみたいのだけれど」
昼休み、彼女は俺の机の前に立ってそう言った。今日も黒いヒジャブを纏い、背筋をぴんと伸ばしている。その佇まいだけで、周囲との違いが際立っていた。
「学食? いいけど、混んでるぞ」
「構わないわ。日本の学校の食堂を体験してみたいの」
体験、ときた。やっぱりこいつ、観光客の感覚だな。
まあいい。サポート係として、案内くらいはしよう。
「じゃあ行くか」
「ヤッラ」
「なんて?」
「さあ行きましょう、という意味よ」
アラビア語か。独特の響きが耳に残る。
* * *
学食は案の定、生徒でごった返していた。
ファーティマは入り口で足を止め、物珍しそうに辺りを見回している。
「こうやって並んで、好きなものを取るの?」
「そう。トレー持って、食べたいもの選んで、最後に会計」
「なるほど……セルフサービスなのね」
彼女はカウンターに並んだメニューのサンプルを、一つ一つ確認し始めた。
カレー、うどん、定食、ラーメン——どれも学食の定番だ。
「ねえ湊。これは何?」
「唐揚げ定食」
「この茶色いものは?」
「豚カツ。……ああ、それは豚肉だから駄目だな」
「そうね。豚は食べられないわ」
ファーティマはあっさりと頷いた。イスラム教では豚肉を食べないことは知っていたが、実際に目の当たりにすると不思議な感覚だ。
「じゃあ何なら食べられる?」
「魚は大丈夫よ。あと野菜も」
「魚か……。サバの塩焼き定食とかあるけど」
「それにするわ」
彼女がトレーを手に取り、サバ定食を選ぶ。俺はいつものカレーにした。
そしてレジに着いた時、事件は起きた。
「四百五十円です」
学食のおばちゃんが告げる。ファーティマは電光掲示板の金額を見て、目を丸くした。
「四百五十円?」
「そう」
「安い……タダみたいなものね」
おばちゃんの手が止まった。俺も固まった。
タダみたいって、お前。
「いや、普通の値段だから」
「そう? アブダビのカフェテリアは、一食三千円くらいしたわ」
「三千円!?」
学食の定食が三千円。どんな高級レストランだ。
というか、それを基準にされたら、日本の学食は確かにタダ同然に見えるのかもしれない。
「ねえ、カードは使えるのかしら」
「カード?」
「クレジットカード。それか、アップルペイとか」
「……いや、現金だけ」
「あら」
ファーティマは困ったように首を傾げた。
「現金……持っているかしら」
彼女が鞄から取り出したのは、ブランド物の小さな財布だった。開けて中を確認し、ほっとしたように微笑む。
「あったわ」
そう言って差し出したのは、一万円札だった。
「お釣り、出せるかな……」
おばちゃんが苦笑いしている。俺は慌ててポケットから小銭を出した。
「俺が払う。後で返してくれ」
「あら、いいの? ありがとう、湊」
いいのかじゃない。万札しか入ってない財布って何だ。
いや、突っ込みたいことが多すぎて追いつかない。
* * *
席に着いて、ようやく一息つけた。
ファーティマは箸を器用に使いながら、サバの塩焼きを口に運んでいる。
「お箸、使えるんだな」
「アブダビにも日本料理店はあるもの。練習したわ」
「へえ」
意外と適応力があるらしい。見た目のインパクトに反して、彼女は柔軟なのかもしれない。
「でも湊、さっきのお釣りの件は申し訳なかったわ」
「いや、いいけど。……というか、普段どうやって買い物してるんだ?」
「買い物? お店の人に言えば届けてくれるし、カードがあれば困らないもの」
なるほど。つまり現金を使う機会がほとんどないのか。
そういえば中東はキャッシュレスが進んでいると聞いたことがある。日本より進んでいるのかもしれない。
「日本は現金文化なのね」
「そうだな。最近はだいぶ電子マネーも増えてきたけど」
「電子マネー?」
「スイカとか、ペイペイとか」
「……スイカ? 果物の?」
「違う違う。カードの名前。電車乗る時に使うやつ」
「へぇ……」
ファーティマは興味深そうに頷いた。
「日本は複雑ね。果物の名前のカードがあって、現金も使って、クレジットカードもある」
「言われてみれば確かにそうかも」
当たり前だと思っていたことが、外から見ると奇妙に映るらしい。
* * *
放課後。
俺はファーティマを連れて、学校近くのコンビニに寄った。
「ここでスイカ買えるから。あると便利だぞ」
「わかったわ」
店員に説明して、無記名のSuicaカードを購入する。チャージは一万円。彼女にとっては端金なのだろうが、俺からすると結構な金額だ。
「これで電車にも乗れるし、コンビニでも使える」
「便利ね」
ファーティマはカードを大事そうに財布にしまった。
その時、彼女の視線がコンビニの棚に向いた。
「ねえ湊、あれは何?」
「おにぎり」
「オニギリ……」
「米を握ったやつ。中に具が入ってる」
「へぇ!」
彼女は棚に近づき、おにぎりを一つ手に取った。
「これは何が入っているの?」
「えーと、鮭だな」
「シャケ? 魚?」
「そう」
「買うわ」
即決だった。
さらに彼女は棚を物色し、ツナマヨ、昆布、梅干しと次々にカゴに入れていく。
「おい、そんなに買ってどうする」
「全種類試したいの。日本のコンビニ文化を体験するのよ」
体験って。
まあ、彼女の金だから止める理由もないか。
会計を済ませ、店を出る。ファーティマは早速ツナマヨのおにぎりを開封しようとして——失敗した。
「開かないわ」
「貸して。ここを引いて、こうやって……」
俺が手本を見せると、彼女は感心したように頷いた。
「すごい。こんな複雑な包装なのね」
「慣れれば簡単だよ」
彼女が一口かじる。もぐもぐと咀嚼して、目を輝かせた。
「美味しい! この白いもの、何?」
「マヨネーズ」
「日本のマヨネーズは特別なのね。アブダビのと全然違うわ」
そんなに違うのか。マヨネーズにも国ごとの差があるらしい。
* * *
駅に向かう道すがら、ファーティマはおにぎりを頬張りながら歩いていた。
「ねえ湊」
「ん?」
「さっき学食で、私、変なこと言った?」
タダみたいなもの、のことだろう。
「まあ……ちょっと金銭感覚が違うなとは思った」
「そう」
彼女は少し考え込むように黙った。
「私ね、自分が恵まれていることは知っているの。でも、それが当たり前になりすぎて、時々わからなくなる」
「……」
「だから教えて。私が変なことを言ったら、ちゃんと言って」
その言葉は、意外なほど真剣だった。
お嬢様の無自覚な発言かと思っていたが、彼女なりに気にしていたらしい。
「わかった。遠慮なく言う」
「ありがとう」
ファーティマは嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ早速一つ」
「何?」
「お前の常識、ちょっとおかしいからな」
「えっ」
「万札しか持ってない財布とか、三千円のランチが普通とか」
「そ、そうかしら……?」
「そうだよ」
彼女はむうっと頬を膨らませた。
「あなたの方が変なのよ。四百五十円で満足できるなんて」
「いや、それ普通だから」
「普通じゃないわ」
お嬢様は譲らなかった。
でも、その頑固さがどこか可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいの」
「いや、別に」
ファーティマは納得いかない様子で俺を睨んだが、やがて自分も笑い出した。
「変な人ね、湊って」
「お互い様だろ」
春の風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
コンビニのビニール袋を揺らしながら、俺たちは駅への道を歩いた。
異文化交流。
そんな大げさな言葉が頭をよぎる。
でも実際にやっていることは、こんな些細なやり取りの積み重ねだ。
おにぎりの開け方を教えたり、金銭感覚の違いにツッコミを入れたり。
隣を歩くお嬢様は、まだまだ日本の常識を知らない。
それを一つずつ教えていくのが、俺の役目らしい。
面倒くさいような、悪くないような。
複雑な気持ちで、俺は空を見上げた。
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