第二章 ライオンの行進 その一
1
ライオンは百獣の王である。朝、まだ世界がまどろみに包まれている内に、住処をそっと発つと、ライオンは大きく伸びをして四方を見渡す。それから腹の奥にため込んだ息を一気に吐き出すように、それは他の生き物たちを震え上がらせ、逃げ惑わせる、力強い雄たけびをあげるのだ。
すると、鳥は慌てて空高く舞い上がり、ワニは水の底へと身を沈め、キツネは巣穴へ遁走し、ゾウの群れは興奮して足を踏み鳴らし、キリンは木の葉を食む口の動きを止め、首を高く掲げて、じっと遠方を凝視する。
無知の朝霧の中で、偽りの安眠を貪る者たちは、皆ライオンの雄たけびで目を覚ましてゆく。風に揺れる草木も、今まさに花開こうと蠢いていた蕾も、際限なく膨らみ、今にも弾けんとしていた入道雲でさえ、ライオンの雄叫びに思わず動きを止める。それらは一瞬の静止の後に、ハッと目を覚まし、まるで何事もなかったかのように、役目を思い出したかのように、また再び動き始める。そして、その動きに、もう迷いはない。サバンナの輪郭は、ライオンの咆哮によって鮮明さを取り戻すのだ。そうやって、サバンナの朝がやってくる。
そして、それはこの動物園でも同様である。ライオンの咆哮を合図に、園内の遍く展示たちは一斉に目を覚まし、重い腰を上げて、それぞれの一日を始める。檻の内外を問わず、ライオンの咆哮は確かに轟いている。力強さは消えていない。ライオンは、まさしくこの動物園の王であった。しかし、サバンナのライオンと、決定的に異なる点が一つだけある。それは、彼らが「飼育員」には基本的に服従しているという事実だ。飼育員が肉を持って展示の中に入って来ると、先ほどまでの威厳は影を潜め、彼等は猫のようにしおらしくなる。腹を見せ、尾を揺らし、鳴き声すらどこか甘えた調子に変わる。王の威厳は、餌の匂いの前に、いともたやすく霧散する。この世界は、自然のそれとは異なる法則に従って統治されているのだ。
2
最近巷では、ヨーロッパのあたりで流行っているらしい動物愛護の風潮が、日本の動物園にも波及するのではないかと、戦々恐々、専らの噂である。どうも、アシカショーやイルカショーは動物虐待にあたる、という見解が勢いを増しているらしく、もしかしたらそれらが近い内廃業させられてしまうのではないか、というのだ。こうした噂話は、当のアシカやイルカ、シャチたちの間で、日常の話題として頻繁に取り沙汰されているようであった。
私は、アシカたちが、ボールを鼻の頭で器用に小突くなどして、跳ね返し、受け止めるといったショーの稽古に勤しんでいるのを横目に、近くで手持ち無沙汰にしていた、手頃そうな一頭にやあと声をかけた。相手は私のことを知らないと見えて、最初は露骨にそっぽを向かれて、あまり取り合おうとはしなかった。しかし、私が歯に挟まっていた魚の垢を取ってやると態度は一転し、アシカ特有の愛嬌たる、妙に人懐っこい視線を向けてきて、すぐに打ち解けた様子を見せた。
「ここの飯は、量も質もまずまずだけれど、海から遠いのだけがいけないね。今ひとつ新鮮味に欠ける」
「なるほど。それで、どうですか。このところは。聞いた話では、仕事がなくなりそうだとか」
「ああ、うん。まあね。皆そのことでずいぶん不安がってるよ」
「不安ですか。仕事が無くなれば、それに越したことはないのでは?」
私がそう言ってやると、アシカはフンと鼻を鳴らして、少し呆れたような顔をこちらに寄こした。
「そりゃ、仕事が無くなってしばらくは楽だろうさ。でも、僕たちのショーが無くなるってことは、それを目当てで来てくれていたお客さんの脚が遠のくってことだ。お客さんの脚が遠のくということは、当然それだけ実入りが減るわけで、実入りが減ると僕たちの口に入ってくる魚の量が減っていき、最終的には進退窮まってここが閉館、我々は晴れて失業、というわけだ」
彼はそこで一息ついてから、また続けた。
「確かに仕事が無くなれば、働かなくて済むかもしれない。でも、生きて行くためには、結局は働かなくてはならない。どうせ生きている内は、色んな苦労をしょい込むのだ。だったら、ここでの暮らしは悪くない。無職共に比べりゃ随分贅沢な暮らしぶりだし、ここでの苦労は、人生の苦労の内には入らないよ」
「ヒトを相手に、芸を披露するのに、嫌気が注したことはないのですか」
「そりゃあ、お前、仕事なんだから一度や二度は考えたこともある。だけど、基本的に無理強いはされないし、上手くやればボーナス(つまりおやつの切り身)にもありつけるからねぇ。それに、なんだかんだと言ってやりがいもある。いくら楽だからって、日がな一日中水槽の同じところを泳ぎ回っているよりかは、芸の一つでも覚えた方が楽しいね」
「そうですか。となると、ショーをやめるというのは、あなたにとっては寝耳に水でしょうね」
「リストラ宣告そのものだよ」
そう言うや否や、アシカはにわかに喉を鳴らして、ウっと、低く唸ったかと思うと、その場に反吐を吐いた。魚の白みが混ざって、目にも白々しい反吐を。
3
アシカは、退屈に殺されるくらいだったら、いっそ芸の一つでも覚えた方がいいと言った。実際、動物園の展示たちが日中、どのようにして暇をつぶしているかという問題は、彼等にとって目下の大きな関心事であり、同時に中々切実な課題でもあるようだ。
あくる日、私がゾウの展示を見物しに出向いた時のことである。ゾウはなんとも奇妙な足取りで、ともすればアルコールでも摂取したのではないかと思われる程、あっちへ、こっちへフラフラと、如何にも危なげに歩き回っていた。巨体ゆえの迫力も相まって、見ているこちらの方が落ち着かない。
私は、ゾウの足元で矢鱈に跳ね回っている虫たちを、夢中になって追いかけまわしている友人たちが、ゾウに誤って踏みつぶされはしないかと心配になった。私は機を見計らって、千鳥足取りで展示内を歩き回っているゾウを呼び止めた。それから、ゾウの耳の穴の中に潜り込んで耳掃除をしてやりながら、何をしていたのかと問いただした。
すると、ゾウはにわかに足踏みを留め、どこか誇らしげに、そして実に嬉しそうに、こんなことを話し始めた。
「最近な、人間社会の文化である「バレエ」というのを始めたのだ」
「バレエというと……あの、人間がつま先でくるくる回ったりする、あれですか」
「ウン。ここは比較的快適ではあるのだが――冬を除けば――どうしても運動不足の感は否めない」
「ゾウは日に数十kmは歩くと聞きますからね。確かに、あなたにとってここは少々手狭でしょう」
「そうなのだ。飼育員にも『もう少し減量した方がいい』などと言われてしまった。それで、こうして室内でも手軽にできる運動として、バレエを習い始めたというわけだ」
「はぁ、そうですか」
ゾウはそう言うと、ズムズムと四つの脚を踏み鳴らした。ゾウの足裏には、まるでシルクの靴底のように柔らかなクッションが備わっており、それが数トンにも及ぶゾウの体重から脚を保護しているのである。とはいえ、いくら柔らかい足裏であるとはいえ、数トンの巨体が足踏みすれば、それだけで大地は否応なく激しく揺れる。彼の足踏みで、展示内の地面は小刻みに震え、草葉の陰でのんびりしていた虫たちが、慌てたように一斉に飛び上がる。その虫たちを、周囲に待ち構えていた野鳥たちが、逃すまいと目敏く啄んでゆく。
「えっと、ちなみに、今はどんな曲を練習しているんですか」
「ベルリオーズの『妖精の踊り』だ。少しテンポは速いが、幻想的で、はかなくも美しく……」
そう言って、ゾウはまた足を踏み鳴らし始めた。本人は確かに「妖精の踊り」を踊っているつもりらしいが、私の目には、妖精と言うより、土俵の上で横綱が四股を踏んでいるようにしか見えなかった。その堂々たる四股踏みの所作が再び大地を揺らして、虫たちが飛び上がる。そして、鳥たちが待ってましたとばかりにまた虫を啄んだ。ゾウのバレエが思いがけず形成した、小さな生態系である。
4
鳥は高度なコミュニケーション能力を有しており、特に大規模なコミュニティを形成するような鶏などは、驚くほど複雑な言語体系を扱う。鳴き声の高低や間、羽ばたきの強弱、首の傾け方一つで、挨拶から警告、噂話に至るまでを事細かく伝達できるらしい。動物園の展示たちはそれぞれ異なる言語を用いるがために、しばしば異種同士の意思疎通が困難になる。そんなときは適当な鳥類を一羽仲介させて、やりトリを行うので彼らは重宝される。彼らは翻訳者であり通訳者であり、時には利害の衝突を緩和するための調停者ともなり得る。動物園に住んでいる鳥たちは、その小さな体の中に、意外なほど多く動物園社会的役割を抱え込んでいるのだ。
ところで、彼らがこれほどまでに卓越した言語能力を一体何に活用しているのかと言えば、それは専ら異性を口説き落とすためである。特に雄鶏と雌鶏のさえずりあいは、比喩と誇張と甘言の濁流、あまりに嘴の浮いた台詞の応酬であり、聞くに堪えない。 互いの羽の艶をイチイチ詩にし、鳴き声の響きを哲学に仕上げ、果ては夕焼けを眺めながら愛を語り合うのである。
ある時私が、あまりに大仰ではないかと、彼らにそれを指摘してみたところ、「君は他人を愛するために鳴かないのか。それほど多くの言語を解しながら……」と雄鶏は羽を落として、深いため息をつくように嘆いた。
「愛するとは、より高貴な理解の仕方であり、行うとは、最上の思索なのです」雌鶏が言った。「考えてもみなさい。あなたはこの世に生まれ落ちた時、何かを考えていましたか。いいえ、あなたはただ、愛を求めて自らの殻を破り、ただ親の愛を乞うて、ひたすらに泣き叫んでいたはず。理解や思索は、愛と行動によってのみもたらされるものなのですよ」
なるほど、と思わされる理屈である。感銘を受けたと言ってもいい。だが、彼等はそうした深遠な言葉を交わした直後から、何事もなかったかのように、また各々が銘々に喧しく鳴き始める。大層なことを宣って、その結実として生まれるのが、足元に転がっている白い卵である。その卵に対して、彼らは驚くほど無関心である。産み落としたきり一瞥もくれず、また喧しく愛を語らい、また愛を行う。
よもやとは思うが、彼等の言語能力がこれほどまでに発達しているのは、ただひたすらに異性にモテたいから、というだけではなかろうか。
次の更新予定
ぷらいど まくらカバー @Dogramagra
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