ぷらいど
まくらカバー
第一章 序奏
1
いつもなら聞き苦しい、カッコウの声にも心惹かれる程には、夏も半ばを過ぎた頃である。 風は熱気を孕みつつも、どこか冷笑じみた乾燥を伴っていた。その風やカッコウの声が、まるで自らが木から落ちることで秋の到来を告げる紅葉のように、緩慢な季節の移り変わりを私に予感させたのだ。彼等はさしずめ、季節の奥行きを測るための物差しのようなものだ。私はゆったりと手足を四方に伸ばしながら、眼下に広がる、大きな鳥かごを眺めまわしていた。
大きな鳥かごの中では、鳥たちが、何のためらいもなく翼を広げ、自由に飛び回っていた。鳥かごの底には小さな草原が設えられ、ロバや、ダチョウ、象やキリンたちが穏やかな群れを成して、その合間を縫うように、子どもたちが無邪気に走り回っている。岩陰にはライオンの住処である人口の洞穴が備え付けられており、大きな、泡雪のように若々しいたてがみをこさえたライオンが一匹、大きなあくびを嚙み殺しながら、のそのそと這い出てきた。彼は一度だけ私の方へちらりと視線を寄こした後、その存在を確かめるように二度、三度瞬きをした。それからすぐに興味を失ったみたいにそっぽを向いて、日当たりの良さげな木陰を探した。それから、そこに手足を放り投げるようにして、寝そべった。私は彼をあまり刺激しないよう息を潜め、そっとその場を後にした。
2
入り口はヒトの群れでごった煮になっていた。押し合い、へし合いながらも、家族が離れ離れにならないように、互いの服を裾や腕を掴み、くっついたり、また思い出したかのように間を空けたりする。その不規則な蠢きは、まるで水槽の中で方向感覚を失い、衝突や旋回を繰り返す熱帯魚の群れのざわめきに酷似していた。
あたり一帯は、風がまるで黄ばんで見える程に、汗と糞と尿の匂いでむせ返っている。空気は粘着くように重く、息を吸うたび、肺の奥に黄色い澱が沈殿してゆく。
秩序は脆く、騒音と雑踏だけが幅を利かせている。その光景はまるで、統制を失った闇市の路上のようである。しかしこれが不思議なことに、彼等は皆、不思議なほど生き生きして見える。今、この瞬間、彼等は彼らに必要なものを、再び手に入れつつあると感じているようだった。それは自然に対する憧憬。そして失った光景への渇望。コンクリートの樹林に囲まれて生きている彼らの、遠い記憶の彼方、草原や密林の気配が、わずかにでも呼び起こされるのだろうか。
とはいえ、ここは自然豊かなアフリカの大平原でもなければ、時空が丸ごと閉じ込められたかのように鬱蒼とした、ジャングルの奥深くでもない。
ここは、動物園である。
3
私が、この動物園の中でもとりわけ気に入っている時間と場所がいくつかある。
まず、曙光が押し寄せる波のように差し込む頃の、通称「アフリカの草原エリア」。ここは読んで字の如く、アフリカの草原の情景を模した、約八千平米の展示区画である。動物園の中でも特に巨大な展示の一つではあるが、果たしてアフリカの草原と豪語するには、やはりどこかこぢんまりとした感は否めない。
展示内部に植え付けられているアフリカ由来の植物も、土地の気質と微妙に相性が悪いのか、葉の色は鈍く、どこか生気に欠けている。加えて、クーラーやらヒートポンプ、貯水槽といった人工物が、景観への配慮もなく往来に据え置かれているのが、やたらと目に付く。
しかし、そんな欺瞞に満ちた情景も、曙の緩い光が巧く輪郭をぼかしてくれるので、運動不足でやや血色の悪い動物の肢体も、仰々しい人工物の存在感も、ヒトと展示を隔離するための柵も、光と光の合間の影に沈みこんでゆく。そうして、丁度良い具合に、都合の良い具合に、アフリカの草原らしき印象だけが、束の間、立ち上がるのである。曙光がもたらす幻影は、日の昇る速度からして実際の所、ほんの十数分ほどしかその効力を発揮しない。だが、その短さ故に、偶然それに立ち会えた時の感動は一入である。私はそのわずかな幻想のために、何度もこの場所へと足を運んでしまう。曙光が消えてしまうと、私はすぐに立ち去る。魔法の溶けた後の平原は、灰の積もったようなくすんだ葉と、後にはだらけたシマウマとトムソンガゼルが、空調の周りを呑気に歩いているだけである。
4
また、閉館後の夜に見かけることのできる「ツルの水辺」の妙な景色も素晴らしい。しかし、それは月の頃に限る。新月の夜などは、水辺が丸ごと闇に全く包まれてしまい、何一つ見ることができない。蛍の数匹でも住み着いていれば、或いは違ったかもしれない。
満月の頃は絶景と言う他ない。月の浮かぶ夜空に、水面に浮かぶ月。そしてその二つの月のあわいを縫うように行き来する鶴たちの、重力を忘れたかのような優雅な姿ときたら。白い羽は月光を受けて、霜が降りたみたいに淡く光り輝く……。
実を言うと近頃は、新型の鳥インフルエンザが流行したせいで全く見かけなくなった。あの鶴たちはどこに行ったのだろう。今頃湖の底にでも沈んでいるのかもしれない。
5
夕方になると、猿の展示に収められている南国所縁のサルたちが、まるで野生を思い出したかのように、一斉に鳴き始める。昼の頃は断片的にしか聞こえなかった声が、日の傾きと共に次第に揃い、世にも珍妙なリズムを帯びた歌へと変わってゆく。それは、調和しているとも、混乱酩酊しているともつかぬ、朝露に濡れたクモの巣のような、不思議な音の数珠繋ぎであり、私はいつも、なんとなく足を留めて聞き入っている。何時か私が彼らから聞かされた話によれば、それらは彼らの故郷の歌なのだという。大海原から吹いてくる湿った熱風と、濃い緑に囲まれた熱帯雨林で、夕暮れの潮騒を表現した戦慄なのだとか。しかし考えれば考える程妙である。彼らはそのほとんどが生まれも育ちもこの動物園のはずなのだが、何故一度も土を踏んだことのない異国の歌を、故郷の歌だなどと言って聞かせるのか、甚だ疑問である。
とにかく、どうも夕暮れというのは、サルたちに哀愁を感じさせる、引き金であるらしかった。猿たちの故郷の歌が云云かんぬんとかは彼らの全くの気のせいであると確信してはいるが、私もまた、彼等の歌を聞くと、理由もなく胸がざわつくのを感じる。懐かしいとか、悲しいとかは思わないが、何かを置き忘れたような、兎も角そな感覚だ。しかし、サルたち以上に南国に縁もゆかりもない私が、彼等の故郷の歌とやらに、郷土愛的哀愁による共鳴など起こるはずもなく、結局のところ、これもつまりはまず間違いなく、全くの気のせいなのである。
6
夜もすっかり更けた朝方には、韓国の虎が、生け捕りの、八頭ほど生け捕られたのが、その皮を、植え木に擦る音が人知れず、聞こえてくるのは面白い。決して大きな音ではないけれど、人気の消え失せた朝方の園内では、不思議な存在感でもって耳に届いてくる。その密やかさが、かえって情緒に富んで感じられるのだ。彼らはだいたい朝方か、或いは夕方に活動しており、日の当たる時間帯には滅多に姿を現さない。展示区域もなんだか常に鬱蒼としていて、虎の姿を見かけることは殆ど無い。そのため、観客からの人気はあまり芳しくないようだった。檻の前に立っても、ただ静まり返った樹々とアンモニア臭が立ち込めているだけなので、当たり前と言えば当たり前である。
彼等は、動物園生まれ動物園育ちの者が比較的多い他の展示とは異なり、韓国の樹林から捕縛され、輸入されてきた野生の展示である。それゆえだろうか、彼等の纏う空気感は明らかに異質だった。私はこの動物園の大抵の展示たちと少なからず交流があるのだが、彼等は、私と一度も話したことのない、数少ない展示の一つである。どころか、視線の交わったことすら、殆ど記憶にない。
彼らが韓国の樹林に住んでいた頃、どうやら彼らは地元の動物たちから信仰を集めていた、神様だったらしい。だからかもしれない。彼らはこの動物園に全く馴染めていなかった。ほとんど声も発さず、姿も見せず、ただ影の中に身を潜めている。生きた動物と言うより、寧ろ化石のような、遥か古に失われた、琥珀色の時間の名残の様でさえある。しかし、そんな彼らが、ふと気を緩めたみたいに、朝方にだけ小さな音を発するのを、時折耳にするのはなんだが縁起が良い気がする。
ちなみに、彼らの故郷である韓国には、もう虎はいない。ヒトの手によっておおかた駆逐されたからである。現在、彼らの仲間は、ヒトの立ち入ることのできない、樹海の奥深くに密やかに潜んでいる。
7
この動物園は、なるべく展示スペースの側に圧迫感や閉塞感を与えないように、念を置いて設計されている。檻や柵は出来得る限り視界の外へ退けられ、通路を広く確保されている。それはひとえに、展示されている動物たちにストレスを与えないためなのだという。そう言えば、人間社会もようやくストレスフリーな社風を構築しようとあくせく工夫を凝らしていると聞く。勤務時間の短縮やら、柔らかな言葉遣いでの指導とかやら、過度な叱咤の排除だとか。どれも無意味ではないのだろう。しかし、労働というものはどうも、根本的に楽できないように出来ているのだ。たとえ短絡的に仕事の時間を減らしたとしても、仕事そのものが減るわけではない。形を変え、場所を変え、結局はどこかに滞留して、何れしわ寄せを食らうだけだ。
動物園もそこは同様であり、いくら展示空間を広げて、植栽を増やし、見た目を自然に近づけて、環境を快適に整えたとして、そもそものストレスの原因である顧客たちの喧騒が無くなるわけではない。子供の叫び声、シャッター音、無遠慮な視線。それらは設計思想に真っ向から叛逆して、取り除くことのできないストレスである。畢竟、労働はどう取り繕ってもストレスなのだ。まあ、それでも、と私は思う。動物園に就職できずに野生で生きて行くよりかは、ずっとマシなのだろう。少なくとも動物園のなかでは、喰うに困ることもなく、健康は逐次管理され、天敵に襲われる心配もない。その代わり自由を制限されるという取引が、どれほどの公正さを担保しているのかはわからないが、完全に不幸だとは言い切れないのではなかろうか。
8
鳥は放っておくと空に飛んで行ってしまうので、普通、鳥かごを設ける。外敵から保護するための柵であり、逃亡を防止するための檻でもある。飼い主の目で追われる鳥は、縦横無尽に鳥かごの中を飛び回り、その身のこなしはフルートのように軽やかだ。羽ばたきの音は弦楽器のトレモロであり、さえずりはさしずめ、その上に慎ましくも添えられたピアノの伴奏といったところだろう。そこには、窮屈さというよりも寧ろ、秩序だった優雅さがある。
ここは大きな大きな鳥かごの中。私の目には、誰もが、などと言えば明らかに言い過ぎではあるが、少なくとも目に付く者のほとんど全てが、のびのびと生きているように映る。各々が好き勝手に奏でる音は、無調のオーケストラとなり、鳥かごの内側で交じり合い、幾重にも折り重なってゆく。指揮者も譜面もないが、不思議と調和して破綻しない。
もっとも、鳥かごの中身が、全く健やかなものなのかと問われれば、少し言葉に詰まる。底には、白けた白身のような倦怠感と、ぶよぶよに緩んだ黄身みたいな不気味さが静かに沈殿して腐りかけている。それでも、代り映えのしない平穏と、よく演出された自由とが、展示内の動物たちに一定の充足感を与えていることもまた事実である。それは宛ら、孵化に失敗したひな鳥が、殻の中ではち切れんばかりの躰を丸めながら、酷く寝過ごしているかの様相であった。
そう言えば以前、一度だけ、動物園の動物たちにアンケートを取ってみたことがある。質問はいたって単純で、「今の生活に満足していますか」。結果、八割以上の動物が、「今の生活に満足している」と解答した。もちろん、その数字が具体的に何を示しているかはわからない。選択肢の少なさからか、慣れの問題なのか、或いは本心からの肯定なのか。彼らの暮らしぶりを眺めていると必然、色々と課題の多さはひしひしと伝わってくるものの、少なくとも統計上は、動物園の中は比較的平和なのだった。何より、毎日のように押し寄せてくる、血色の悪いヒトの群れよりかは、彼等の方が幾分か幸福そうなのである。
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