第3話 介添人と新婦の静かな朝食

 部屋の中央に置かれた円形テーブルを挟み、二脚の椅子が向かい合っている。

「おはよう、セフィーヌ」

 そのうちの一脚に腰掛け、柔らかな声で呼びかけたのは、本日の主役、新婦フェルマータである。ゆったりとした部屋着を纏う彼女の姿は、公爵家令嬢としての威厳よりも、一人のうら若き女性としての瑞々しさが際立っていた。


 セフィーヌはフェルマータに歩み寄り、静かに、心を込めて、深く一礼した。

「フェルマータ様。本日は誠におめでとうございます。この佳き日を、一番近くでお祝いできますこと、わたくしにとって無上の喜びにございます」

 フェルマータは陽だまりのような微笑みを浮かべた。

「ありがとう、セフィーヌ。オリヴァーを正式にお迎えする今日も、そして明日からも、あなたが傍にいてくれるのは本当に心強いわ。さあ、二人で朝食にしましょう。マルセルが腕によりをかけてくれたのでしょう?」

「はい。料理長からも、『準備は万端だ』との言伝を預かっております」

「そうなのね、頼もしいわ」

 フェルマータの微笑みを前に、セフィーヌはその奥に秘められた感情をそっと推察する。喜び、高揚、緊張、あるいは次期公爵としての責任感。それらがどのような配合で彼女の心を満たしているのか、長年連れ添ったセフィーヌにもすべてを測り知ることはできない。


 セフィーヌは給仕ワゴンをテーブルまで引き寄せると、手慣れた所作で茶葉の入ったポットに湯を注ぐ。甘みを含んだ爽やかな香りが、湯気と共に立ち上がった。蒸らしている間に、サンドイッチの皿と食卓用のナプキンを並べていく。フェルマータがセフィーヌと朝食を共にするのは、誰かが作った習慣によるものではない。彼女自身が強く望んだ「友人」としてのひとときだった。

 注ぎ口から漏れる香りが濃くなったのを合図に、二つのカップに透き通った琥珀色の液体を注いだ。食欲をそそる香りが控室を満たすと、準備を終えたセフィーヌも、促されるままに向かいの席へ着く。

「では、いただきましょう」

「はい、いただきます」


 マルセル特製のサンドイッチを頬張りながら、穏やかな時間が流れていく。主従としてではなく、友として食卓を囲む至福。食べ慣れたサンドイッチ、そして温かい紅茶が、セフィーヌの心と胃を程よく満たした。

 同時に、彼女の胸には切なさも去来する。こうしてフェルマータにとっての「最も身近な話し相手」でいられる時間は、刻一刻と終わりに近づいているのだ。


「その介添人のドレス、改めて見ても本当によく似合っているわ、セフィーヌ。わたくしの見立てに間違いはなかったわね」

「ありがとうございます。このような素晴らしい衣装をご用意いただき、身に余る光栄です」

「ミーティア殿下も、きっと気に入ってくださるでしょう。……あの方も、今頃はお支度の最中かしら」


 ミーティア。その名を聞いた途端、セフィーヌの目は通常よりも少し大きく開き、背筋は自然と伸びた。今日、お揃いのドレスを纏って共に介添人を務める「仲間」。先ほど侍女頭ヒルダから受けた「くれぐれもミーティア王女殿下に失礼のないように」という忠告が、重く脳裏をよぎる。

 そのわずかな硬直を見逃さず、フェルマータは優しく声をかけた。

「大丈夫よ、セフィーヌ。殿下が恐ろしいお方ではないのは、あなたも知っているでしょう? ……あの日のことを思い出すわね」


 フェルマータの言葉をきっかけに、セフィーヌの脳裏に数日前の光景が蘇った。




 王宮の一室で行われた、介添人の顔合わせ。

 十六歳の王女ミーティアは、そこに佇んでいるだけで場の空気を支配するような、天性の気品と威厳を纏っていた。知的な輝きを放つ瞳は、時に相手の芯を見抜くような鋭さを見せる。

 フェルマータからの紹介を受けたセフィーヌにできたのは、用意していた挨拶の言葉を一本調子で諳んじることだけだった。王族と直接言葉を交わすのは成人の祝宴以来であり、人生で二度目だった。


 そんなセフィーヌの様子を察してか、ミーティアはふっと表情を緩めたのだ。

『セフィーヌ、そんなに固くならないで。今日は「王族と貴族」の会合ではないとわたくしは思っているの。「主従」ではなく、フェルマータの門出を祝う「仲間」として、よろしく頼むわね』

 さらに彼女は、セフィーヌとフェルマータを真っ直ぐに見つめて、こう続けた。

『だから、この式が終わって大聖堂を出るまでは、わたくしたちは対等よ。……そうですわ。せっかくですから形式的な呼び方はやめて、敬称を抜きにしましょう。わたくしのことは「ミーティア」と呼んで』


 あまりに型破りな提案に、セフィーヌは言葉を失った。しかし、隣のフェルマータは心得たとばかりに、にこやかに応じた。

『ええ、よろしくお願いするわ、ミーティア』

 その光景に後押しされ、セフィーヌもかろうじて、消え入りそうな声を絞り出した。

『は、はい……ミーティア……』

 その時の戸惑うセフィーヌに向けられた、ミーティアの微笑み。祖父である前国王ラングホーンがその「愛らしさ」に蕩けたという逸話も頷ける、純粋で、人を惹きつける無垢な笑顔だった。




「心配しなくていいわ。殿下はきっと、あなたのことを良き『仲間』として認めてくださるはずよ」

 フェルマータの言葉が、セフィーヌの意識を現在へと引き戻した。胃が発する悲鳴は、ある程度和らいでいた。

「フェルマータ様と、ミーティア様。お二人の足を引っ張ることのないよう、介添人として、精一杯務めさせていただきます」

 セフィーヌの力強い眼差しを確認し、フェルマータも満足げに頷いた。


「ところでセフィーヌ、ジョナサン様はお昼前に到着されるのかしら?」

「は、はい……」

 不意を突かれた問いに、セフィーヌの頬が林檎のように赤く染まる。


 セフィーヌの婚約者であるジョナサンは、モントリエ伯爵家次期当主の座を弟のジェラルドに譲る準備を進めている。その一方で、使用人としてベルカント公爵家に仕えるための修行にも励んでいる。それは、セフィーヌの奉公と私生活を両立させるため、彼が選んだ道だった。

 今日の彼は、モントリエ領の港で水揚げされた新鮮な魚介を、この王都別邸まで運ぶという大役を担っている。両家の結束を強く示す重要な任務であり、彼にとってもベルカント家を背負う一員となるための第一歩でもあった。


「いつもの作業着に着替える前に、見せて差し上げないとね?」

「……そうですね」

(今の姿を見て、彼は何とおっしゃるだろうか? ただ「綺麗だ」と言ってくださるのか、それとも……)

 セフィーヌは、気恥ずかしさをサンドイッチの最後の一片と共に飲み込んだ。


 フェルマータが紅茶の最後の一滴を飲み干した、その時。新婦控室の扉が控えめにノックされた。

「ヒルダでございます。お嬢様、セフィーヌ、お食事はお済みでしょうか?」

 扉越しに、侍女頭の厳かな声が響く。二人は顔を見合わせ、深く頷き合った。セフィーヌは名残惜しさを振り切るように立ち上がり、食器を片付けるべくワゴンへと手を伸ばした。

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