第2話 介添人の装いと早朝の訪問
東の空が白み始め、太陽が地平線から顔を出そうとする頃。王都別邸の静かな廊下に、軽やかな靴音が響いた。調理場の扉を開けたのは、介添人のドレスを纏ったセフィーヌである。
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
気品のある声に、料理長マルセルが顔を上げた。下ごしらえの手を止めた料理人たちの視線も、一斉に彼女へと注がれた。
セフィーヌの左胸には、ドレスと同じ布を薔薇のように重ねた胸飾りが添えられていた。その中心では、
金環柑は、ベルカント公爵家が世に送り出した植物のひとつであり、高級柑橘の一種として知られている。その橙色の果皮には、へたの周囲を取り巻くように明るい黄色の模様がある。
「おはよう、セフィーヌ。実に見事だ。……よく見せておくれ」
マルセルの感嘆に満ちた依頼に、セフィーヌは少し照れながらも、その場でくるりと一回転してみせた。
調理場に小さな歓声が上がる。彼らが知るセフィーヌは、常に働き者で控えめな侍女としての姿だった。伯爵家令嬢としての気品を纏った彼女の姿を目にしたことがある者は、ベルカント公爵家使用人の中でもごくわずかだったのである。
「君が成人してからもう数ヶ月か。祝宴の時も伝えたが、改めて言わせてほしい。……立派になったな、セフィーヌ」
マルセルの温かな眼差しに、セフィーヌの表情がふわりと綻んだ。親戚に成長を喜ばれた時のような、気恥ずかしさと誇らしさが胸を満たす。
「ありがとうございます、マルセルさん」
「お嬢様には、こちらの準備は万端だと伝えておくれ。最高の門出にするための準備は、すべて整っている」
マルセルもまた、この日のために心血を注いできた専門職の一人だ。
「かしこまりました。必ずお伝えします」
マルセルは料理人に指示して、一台の給仕ワゴンをセフィーヌの元に運ばせた。二皿のサンドイッチ、ナプキン、茶道具一式が載せられている。
「さあ、朝ごはんだよ。お嬢様と一緒に召し上がれ」
セフィーヌは感謝を述べると、大切にワゴンを押し出し、新婦控室へと向かった。
静まり返った廊下を、ワゴンの車輪が小さな音を立てて進んでいく。角を曲がった先、控室の扉の前には一人の女性が佇んでいた。
侍女頭ヒルダ。セフィーヌの上司である。
「おはようございます、ヒルダさん。本日はよろしくお願いいたします」
「おはようございます、セフィーヌ。お嬢様のお見立ては素晴らしいですね。そのドレスはあなたによく似合っていますよ」
一瞬だけ目を細めたヒルダだったが、その微笑みは瞬時に鋭い「仕事人」の顔へと戻った。セフィーヌの背筋が、無意識のうちに伸びる。
「今のうちに言っておきます。本日はくれぐれも、ミーティア王女殿下に失礼のないように。自覚はあるでしょうが、あなたもまた、ベルカント公爵家を背負う一員なのですから」
「はい、肝に銘じております……」
ポラリス王国王女ミーティア。
国王サミュエルと王妃ナターリアのただ一人の子女で、王太子の座に最も近いと目されている人物。父親同士が幼馴染である縁から、フェルマータとは公私ともに親交が深い。最新の流行から政治の込み入った話題まで語り合える間柄だ。
彼女こそ、もう一人の新婦介添人であり、今日、セフィーヌと共に王都大聖堂で働く「仲間」だ。
その事実を改めて突きつけられ、セフィーヌの胃が、彼女自身にしか分からないほどの小さな悲鳴を上げる。
部下の緊張を察したのだろう。ヒルダは歩み寄り、セフィーヌの肩にそっと手を置いた。
「案ずることはありません。所作とは心の現れです。お嬢様と若旦那様を祝う心と、王族方を敬う心。それさえ忘れなければ、あなたの振る舞いが乱れることはありません」
手のひらの温かさと力強い言葉に、セフィーヌはゆっくりと深く頷いた。
「お嬢様がお待ちです。わたくしは食後に伺います」
「はい、失礼いたします」
一礼し、再びワゴンを押し出す。扉の前で一度立ち止まり、深く呼吸を整えた。
ノックをして自分の名を告げ、向こうにいる相手の返事を聞き、扉を開ける。これまで幾千、幾万回と繰り返してきた入室の作法である。しかし、今日という特別な日の重みと、王都別邸という慣れない環境が、彼女の動作をいつになく慎重にさせる。
コン、コン。
いつものリズムより、半拍遅い音。それは彼女自身の、隠しきれない高揚と緊張の証だった。
「いらっしゃい」
扉の向こうから、鈴を転がすような、それでいて芯の通った愛おしい声が響く。その響きだけで、セフィーヌの身体から余計な強張りが霧散していった。
彼女は緩やかな所作で扉を開き、輝かしい一日が待つ部屋へと足を踏み入れた。
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