第三話 その調査官、涙で牛丼がしょっぱくなりそう
魔術師ギルドの調査官が来ると聞いた時、まさかこんな子だとは思わなかった。
「──以上が、『嘆きの迷宮』における異常魔力消散に関する、ギルドからの正式な質問書です」
カウンターの向こうで、ぴんと背筋を伸ばした少女が、羊皮紙を差し出す。
長い銀髪はきちんと三つ編みにまとめ、深紅の魔術師ローブも皺一つない。
年は十六歳くらいだろうか。顔は幼いが、目は鋭く、何よりその口元が、どこか無理に引き締めているように見えた。
「はい、どうも」
僕は軽く会釈し、その羊皮紙を受け取った。
中身は読んでもよくわからない。難しい魔術用語が並んでいる。
「で、君が調査官?」
「はい。三級魔術師、ナグサ・ヴァイスと申します」
彼女はきびきびと自己紹介するが、その視線が、ちらちらと店内を泳いでいる。
流し台の包丁、鍋の並ぶコンロ、そしてカウンターに置かれた、小さな置物──それは以前、セシルたちが置いていった、剣の鍔を模した何かだ。
「へえ、偉いね。まだ若いのに」
僕はふきんを手に取り、カウンターを拭き始めた。
「でも、悪いけど、あのドラゴン……いや、トカゲみたいなのを倒したって話は、大げさなんじゃないかな。僕はただ、調味料を採りに行っただけだし」
「調味料……」
ナグサの口元が、微かに痙攣した。
「伝説級ダンジョンの最深部に、『調味料を採りに』行かれた、と?」
「ああ。カラーシマッヨネーってやつさ。で、見事ゲットした」
僕はこっそり、冷蔵庫のような魔法保冷箱をちらりと見た。
中には、昨日の戦利品が丁寧に保管されている。
「今、熟成させてる最中なんだ。後一晩で、最高の状態になるはずだ」
ナグサはしばし黙った。
その指が、ローブの端をぎゅっと掴んでいる。
「……それで」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「その『トカゲ』は、どう倒されたのですか? 現場には、剣や魔法の痕跡はほとんどなく……ただ一つの、深い斬撃痕だけが残されていました」
「ああ、あれか」
僕は自然に、まな板の上の玉ねぎに手を伸ばした。
包丁を持ち、縦に半分に割る。
「ナイフでやったよ。これ」
シュッ、と一切れ。
薄く均等な切り身が、まな板の上に積もる。
ナグサの息が止まった。
彼女の目が、包丁の動きから、僕の手元へ、そして僕の顔へと飛ぶ。
その表情が、ゆっくりと、確実に変わっていく。
鋭さの裏にあった無機質な仮面が、ひび割れ始める。
「その……包丁さばき……」
彼女の声が震えた。
「無駄のない軌道……間合いの測り方……『流水切り』……?」
「え? なんか名前ついてるの?」
僕は首をかしげた。
「僕はただ、いつも通りに切ってるだけだけど」
「いつも通り……」
ナグサが繰り返す。
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。
「そんな……まさか……そんなはずが……」
「ん? どうかした?」
「──違います!」
ナグサが突然、声を荒げた。
そして、彼女は一歩前に踏み出し、カウンターに手をつく。
「あなたは……本当に、ただの牛丼屋さんですか? 以前は何をされていたんですか? なぜ、あのような伝説の魔物を、たった一撃で──」
彼女の言葉が、そこで途切れた。
僕が、そっと包丁を置き、彼女を見つめ返したからだ。
「ナグサ……って言ったね」
僕はゆっくりと言った。
「君、もしかして……僕のことを、知ってる?」
一瞬、彼女の顔が真っ青になった。
そして、真っ赤に染まった。
彼女は口をぱくぱくさせ、何度も深呼吸をした。
「……知っている、というか」
やがて、ナグサが小さく呟いた。
その目は、もう完全に潤んでいる。
「私は……あなたに、かつて……剣と魔法の……基礎を……教えていただいた者の……一人です」
「…………へ?」
今度は、僕の番で声が詰まった。
またか?
セシルたちに続いて、今度は魔術師ギルドの調査官まで?
どうして、こんなにたくさんの人に、教えたりしたんだろう。
僕は、そんなに暇だったんだろうか。
「あなたは……ライエル師匠ですよね?」
ナグサの声は、もう泣き声に近い。
「十年ほど前……北部の魔術学院で、臨時の武術講師をされていました。私は……その時の、落ちこぼれの生徒の……一人です」
記憶の中を、必死に探る。
魔術学院? 武術講師?
何も出てこない。けれど……
彼女の目。
その瞳の奥に宿る、尊敬と、恥ずかしさと、そして何より深い憧れ。
それは、偽りようのないものだ。
「……ごめん」
僕は正直に言った。
「覚えてない。記憶をなくしてるんだ」
ナグサの肩が、ぽつりと落ちた。
「そう……ですか……セシル先輩たちから、聞いてはいましたが……」
「セシルって……あの、泣きついてきた子か」
「はい。彼らは、現在勇者パーティを結成し、あなたを探し続けていました」
ナグサが顔を上げた。涙が一筋、頬を伝っている。
「私は……魔術の道に進み、ギルドに所属しました。でも……あなたの教えは、ずっと胸に刻んでいます」
なんだか、胸が苦しくなった。
こんなに真剣に、僕のことを覚えていてくれる人が、こんなにたくさんいたなんて。
でも、その思いに応えられる記憶が、何もない。
「……とりあえず」
僕は、ふと冷蔵庫の中を覗いた。
熟成の魔法陣の中心で、黄金色に輝く調味料が、ほのかな辛みの香りを放っている。
ちょうどいい頃合いだ。
「牛丼、食っていかないか?」
ナグサはぽかんとした顔でこちらを見た。
「で……ですか?」
「ああ。せっかく来たんだし、それに」
僕はコンロの火をつけ、鍋を載せた。
「君、さっきからお腹が鳴ってるぞ」
「っ!?」
ナグサは慌ててお腹を押さえた。
確かに、微かにだが、ぐうう、という音が聞こえていた。
「調査で忙しかったんだろう。まずは腹ごしらえだ」
玉ねぎを炒め、秘伝のタレを加え、牛肉を投入する。
そして──今回の主役を、そっと加える。
黄金色の、とろりとしたマヨネーズ状の調味料。そこへ、透明な涙のような辛味成分を、三滴。
ふわあっ。
店内に、今までにない香りが広がる。
甘辛さの中に、爽やかな辛みが絡み、深いコクが鼻をくすぐる。
「これが……『カラーシマッヨネー』……?」
ナグサが目を丸くした。
「あの伝説の調味料を……本当に、再現されたんですか?」
「まあ、実験段階だけどね」
丼によそったご飯の上に、煮込んだ肉と玉ねぎをたっぷり載せる。
そして、真ん中に、カラーシマッヨネーをぽとり、と落とす。
黄金色のソースが、熱々の牛肉の上でとろけ、じわじわと広がっていく。
「はい、どうぞ。新作です──『ドラゴンあいもり牛丼』」
ナグサの前に、その丼が置かれた。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、彼女の眼鏡を曇らせる。
彼女はしばし、その黄金色の輝きに見とれていた。
「……いただきます」
小声でそう言うと、箸を手に取った。
一口、口に運ぶ。
その瞬間──
ナグサの目が、ぱっちりと見開かれた。
「……っ!?」
彼女は無言で、もぐもぐと咀嚼する。
そして、二口目、三口目。
食べ進めるうちに、彼女の頬がほんのり赤くなり、目に再び涙が浮かんでくる。
「どうだい?」
「……辛い……です」
ナグサが、鼻をすすりながら言った。
「でも……その辛さの後に……深い甘みと……コクが……そして……」
彼女は箸を止め、じっと丼を見つめた。
「……温かさが、あります」
「ああ。辛いものは、心も温めるからな」
僕は笑いながら、自分の分もよそった。
ナグサは黙って食べ続けた。
完食した時、彼女の顔は少し汗ばみ、目はきらきらと輝いていた。
「……師匠」
彼女が突然、そう呼んだ。
「この牛丼……魔法みたいです」
「魔法?」
「はい。食べていると……昔、あなたが教えてくださったことを、思い出すんです」
ナグサはうつむき、空になった丼を見つめる。
「『強さとは、力だけでない。心の余裕だ』……そうおっしゃっていました」
記憶の片隅が、ちらりと光る。
確かに……誰かに、そう言ったような。
へたくそな魔法の練習に焦る、小さい銀髪の少女に。
「私は……ずっと、強くなりたかったんです」
ナグサの声が震える。
「あなたのような、誰もが認める英雄に。でも……なれませんでした。魔法の才能も平凡で、結局、ギルドの事務職に落ち着いて……」
「それで、いいんじゃないか」
僕は自然に、そう口にした。
ナグサが顔を上げる。
「君は今、立派な調査官だろ? それに、この牛丼、美味いって言ってくれた。それだけで、十分だ」
「でも……!」
「強いだけが、人の価値じゃない」
僕は包丁を取り、新たな玉ねぎを切る手を止めなかった。
シュッ、シュッ。
「この牛丼だって、強い辛さだけじゃなくて、甘みやコクがあって、初めて完成する。人も同じさ」
ナグサは、ただじっと聞いていた。
そして、やがて、小さくうなずいた。
「……はい」
彼女は立ち上がり、きちんと一礼した。
「調査報告書は……『嘆きの迷宮の異常事態は、自然消滅とする』と、記載します」
「え、いいの?」
「はい。ギルドには、英雄ライエルが牛丼屋を営んでいる、という事実を知らせません」
ナグサの目が、少しいたずらっぽく光った。
「だって……もし知られたら、ここが押しかけ客で大混雑して、私は落ち着いて牛丼が食べられなくなりますから」
なんだか、面白い子だ。
僕は思わず笑った。
「ありがとな。また、来いよ」
「はい!」
ナグサは、はっきりとそう答えた。
「次は……同僚も連れてきてもいいですか? 彼女も、最近食欲がなくて……」
「もちろん。大歓迎だ」
僕は手を振った。
「その時は、もっと新しいトッピングを用意しとくよ」
ナグサはにっこり笑い、店を後にする。
ドアが閉まる時、彼女がこっそり呟く声が聞こえた。
「……やっぱり、あなたは変わってないです。教え子の心配を、まずは食事で解決しようとする所が」
さて。
僕は残ったカラーシマッヨネーを瓶に詰め、ラベルを貼った。
『特製 ドラゴンあいもりソース』
これで、新メニューが一つ増える。
「よし、次は……何に合うかな」
そう呟きながら、僕は冷蔵庫の中の食材を眺めた。
外では、今日も平和な町の喧騒が聞こえる。
何だか、少しずつ、この生活が、本当に自分のものになってきた気がする。
シュッ、シュッ。
包丁の音が、軽やかに響く。
湯気の向こうで、黄金色のソースが、ほのかに輝いている。
世界を救った元英雄、記憶を失って異世界で牛丼屋になったら、教え子だった現勇者たちが泣きついてきたんだが? ラズベリーパイ大好きおじさん @Rikka_nozomi
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