第二話 そのトカゲ、伝説級のやつでした
ダンジョンの入り口で、思わず呟いてしまった。
「……なんか、苔生してるな」
ゴツゴツした岩肌に、びっしりと緑の苔がこびりついている。
入り口とされる洞穴は、ひんやりとした湿った空気を吐き出していて、深呼吸すると肺がちょっとちくっとする。
どう見ても、手入れされていない。
近くに立てかけられていた、ぼろぼろの木札。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
『初級ダンジョン
推定階層:3
推定脅威度:スライム~ゴブリン
新米冒険者向け』
「へえ、初級か」
僕は背負った帆布のリュックをずり上げた。
中身は、採集用の小さいナイフ、麻袋数枚、水筒、そして大事な大事な、空のガラス瓶が三本。
目的は一つ。
伝説の調味料、『カラーシマッヨネー』の入手だ。
なぜそんなものを求めるかって?
簡単な話だ。一週間前、常連の鍛冶屋のおやじが、酔っ払ってこう言ったんだ。
「親父の牛丼、うまいけどな……たまに、ピリッとくるやつが食いてえ」
ピリッ、か。
確かに、甘辛い味ばかりじゃ、飽きが来る。
何か、爽やかな辛さでアクセントを付けられないか。
そう思って町の情報屋に聞き込みをしたら、出てきたのがこの名前だった。
『カラーシマッヨネー』
伝説のダンジョン最深部にのみ棲む、幻の魔物『マヨネーズスライム』と、希少な薬草『ワサビドラゴンの涙』を調合して生まれる、至高の調味料。
黄金色に輝き、辛さの中に深いコクとまろやかさを併せ持つ……らしい。
「伝説のダンジョンって、どこだ?」
「さあ? でっかいとこじゃね? でもな、噂じゃあ、この辺りの小さいダンジョンにも、ごく稀に材料が転がってるって話だぜ」
情報屋の言葉を信じるしかない。
というわけで、町から一番近い、この『初級』ダンジョンを選んだ。
店はマーサに一日預ける。心配性の彼女は、しつこく「行かないでください」と言っていたが、新メニューのためだ。
「よし、行くか」
懐中電灯代わりの照明魔導具を、額に装着する。
店の備品だ。暗い倉庫で豆を探すときに使うやつ。
薄明るい光を放ちながら、洞穴の中へと足を踏み入れた。
内部は思ったより広かった。
天井は高く、不自然なまでに整えられた通路が、地下へと続いている。
壁には所々、青白い苔が光っているので、それなりに見通しは効く。
「さて、マヨネーズスライムって……どんなだ?」
歩きながら、想像を巡らせる。
ドロッとした、白いやつかな。
でもスライムなら、この初級ダンジョンにもいるはずだ。
脅威度がスライム~ゴブリンって書いてあったし、一番弱いやつだろう。
ガサ……ガサ……
足元で何かが動く音。
照明を向けると、それは透明なゼリー状の物体だった。
小さく、ぷるぷると震えている。
ただのスライムだ。
「おっと、すまん」
通り過ぎようとしたその時、閃いた。
そういえば、マヨネーズって、卵と油から作るんだったな。
このスライム、もしかしたら……
「ちょっと、触らせてもらうよ」
麻袋を広げ、そっとスライムをすくい取る。
冷たく、少しヌルっとしている。
慎重にガラス瓶の口に近づけ、押し込もうとする。
プチュ!
いきなり、スライムが破裂した。
中から、生臭い液体が飛び散り、瓶の底にちょろりとたまる。
色は透明。白くはない。
匂いは……むせ返るような酸っぱい臭い。
「……これは違うな」
がっかりしながら瓶の蓋を閉める。
どうやら、マヨネーズスライムは、もっと特別な種類らしい。
先に進む。
通路は徐々に下り坂になり、空気はより冷たく、重たくなる。
ところどころに、小さい骸骨が転がっている。
ゴブリンか何かのものだろう。ちゃんと初級だ。
ふと、壁の苔の色が変わっていることに気づく。
青白かった苔が、所々で薄黄色に染まっている。
そして、その先の通路から、何かほのかな、甘いような、それでいて刺激的な香りが漂ってくる。
「この匂いは……!」
期待がふくらむ。
リュックの中の空き瓶を握りしめ、匂いのする方へと走り出す。
通路は曲がりくねり、やがて小さな広間のような場所に出た。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
広間の中央に、小さな泉がある。
その泉から湧き出ているのは、水ではなく、濃厚なクリーム色の液体だ。
そしてその泉のほとりに、ゆったりと横たわっているのは──
「……でけえトカゲ」
金色の鱗に覆われた、それはまぎれもない竜……いや、竜と呼ぶには少々みすぼらしい。
全長はせいぜい三メートル。僕の店のカウンターと同じくらいだ。
角は小さく、翼はあるものの、どう見ても飛べそうにない。
ひげを生やした顔は、なんだか眠たそうで、口元からはだらりと、透明な涎が垂れている。
その涎が、泉に落ちると……
ざあっ!
と、小さな水音を立て、泉のクリーム色の液体が、ほんのりと辛そうな香りを放つ。
「ああ……!」
僕は思わず声をあげた。
これだ。
『ワサビドラゴンの涙』って、つまりはこの涎のことか?
そして、この泉の液体……あのクリーム色……もしかして……
「マヨネーズスライムの棲家……じゃなくて、『湧き出る泉』!?」
どうやら、情報は少し間違っていたようだ。
マヨネーズスライムは単体の魔物ではなく、この特殊な泉そのもの──あるいは、泉に集まる何かなのかもしれない。
目の前の『トカゲ』は、その泉を守っている……あるいは、ただ居眠りしているだけに見える。
「よし……あの涎、少しだけ分けてもらおう」
僕は慎重に、泉へと近づいた。
トカゲ……いや、ドラゴンはぐうぐうと寝息を立てている。
どうやら、こっちには気づいていない。
よし、チャンスだ。
忍び足で泉の縁まで行き、空き瓶を開ける。
そして、しずくり落ちる透明な涎を、そっと受け止めようとした。
その瞬間──
ドラゴンの片目が、ぱっちりと開いた。
「…………」
「…………」
一瞬、時間が止まった。
その目は、爬虫類特有の縦長の瞳孔で、無機質に僕を見下ろしている。
そして、ゆっくりと、首を持ち上げた。
「お、おう……やあ」
僕は思わず、手を振ってみた。
「ちょっとだけ、その涙みたいなの、貰っていかない? トッピングに使うんだ」
ドラゴンは無言だ。
代わりに、喉の奥がごろごろと鳴り始めた。
それは明らかに、怒りのサインだった。
「ああ、まずいな」
僕は一歩、後ずさる。
「君のものだってのはわかってるよ。でも、ほんの少しでいいんだ。代わりに……ええと……店の牛丼、無料サービスするからさ」
交渉成立の見込みは、ゼロだった。
次の瞬間、ドラゴンは口を大きく開け、中に煌めくオレンジ色の炎を溜め込む。
「って、あああっ!?」
炎の息が、一直線に僕に向かって噴き出した。
咄嗟に、僕は横に飛び跳ねた。
熱風が頬をかすめ、後ろの岩壁を黒焦げにする。
「やれやれ……なんて厄介な」
僕は立ち上がり、リュックを地面に下ろした。
中から、採集用の小さなナイフを取り出す。
刃渡り十センチ。玉ねぎを切るには十分だが、どう見てもドラゴン戦用ではない。
ドラゴンはゆっくりと立ち上がり、四本の足で地を踏みしめる。
その巨体は、さっき寝ている時よりずっと大きく見えた。
そして、再び口を開けた──今度は、直接かみついてくる気だ。
「しょうがない……」
僕は自然に、低い姿勢を取った。
ナイフを逆手に持ち、重心を前に移す。
ドラゴンが突進してくる。
その動きは、確かに速い。だが……
「……隙間だらけだな」
無意識に、僕の体が動いた。
ドラゴンの顎が迫る。鋭い牙が光る。
その寸前で、僕は左へとすっと躱す。
同時に、右手のナイフが、閃く。
シュッ!
一撃。
ドラゴンの首元、鱗の一枚の継ぎ目に、ナイフが滑り込んだ。
深くはない。けれど、確かに致命傷になる部位だ。
「がぁああっ!?」
ドラゴンは悲鳴ともうめきともつかない声を上げ、その巨体をよろめかせた。
首から、黄金色の血が噴き出し、泉を染めていく。
僕はその場に呆然と立ち尽くした。
「え……?」
自分が何をしたのか、よくわからなかった。
ただ、さっきの一撃……何だか、ものすごく自然だった。
玉ねぎを切る時と同じ感覚で、ただ、『切れ味の良さそうなところ』を斬っただけだ。
ドラゴンはぐらり、ぐらりと揺れ、最後にどすん、と横倒しになった。
地面が小さく震える。
そして、静寂が訪れた。
「……あちゃー」
僕はため息をつき、ナイフの刃をふきんで拭った。
「言っただろう、ほんの少しでいいってのに……」
せっかくなので、瓶を二つ取り出す。
一つは泉のクリーム色の液体で満たす。濃厚で、いい香りがする。これが『マヨネーズ』部分か。
もう一つは、倒れたドラゴンの口元に寄り、まだ垂れている涎をそっと受ける。透明で、ツンとくる辛い匂い。これが『ワサビ』部分だ。
「これで、カラーシマッヨネーが作れる……のかな?」
調合の方法は知らないが、まあ、なんとかなるだろう。
料理は、いつだって実験の連続だ。
そう思って、リュックに瓶をしまい込もうとしたその時──
「うわああああっ!?」
広間の入口から、けたたましい悲鳴が響いた。
振り返ると、そこには四人の若者が立っていた。
錆びた鎧をまとった戦士、杖を握る魔導師、革鎧の盗賊、そして白いローブの司祭。
典型的な、新米冒険者パーティだ。
彼らの目は、くりくりと見開かれ、口はぽかんと空いている。
視線の先は、間違いなく、僕の足元に横たわる金色のドラゴンだ。
「な……なななな……!」
戦士が剣を抜きながら、声を震わせて指さす。
「『黄金の暴君ヴォーパルス』!? 伝説の、このダンジョンの主が……倒されてる!?」
「しかも、あの傷……一撃……?」
盗賊が目を凝らして呟く。
「首の急所を、寸分の狂いなく……そんな技、見たことない……」
魔導師は震える手で杖を掲げ、僕を睨みつける。
「あなたは……誰だ!? このダンジョンは、我々が初級と勘違いして潜入した、実は伝説級の『嘆きの迷宮』だ! 最も深部に棲むこの竜を倒せるほどの者が、なぜこんな辺境に!」
「……え?」
僕はきょとんとしてしまった。
「伝説級? でも、入り口に『初級』って書いてあったよ」
四人は一斉に絶句した。
司祭がゆっくりと顔を覆った。
「あの木札……確か、三年前に、先代の冒険者が冗談で立てかけたものだと……先輩から聞きました……」
「冗、冗談ですって!?」
僕は声を上げそうになった。
冗談で、人が死ぬかもしれないだろ!
と思ったが、まあ、自分は無事だったし、今更どうしようもない。
「と、とにかく!」
戦士が必死に声を張り上げる。
「あなたがこの竜を倒したのなら……それはとんでもない実力者だ! 我々とともに、王都へ──」
「ごめん、忙しいんだ」
僕はさっさとリュックを背負い、瓶を中にしまい込んだ。
「店の仕込みがたまってるからね。それに、新しいトッピングの実験をしないと」
「店……? トッピング……?」
四人の顔が、一斉に曇った。
どうやら、理解できないらしい。
「ああ、牛丼屋だよ」
僕は軽く手を振った。
「よかったら、町の『まるごと牛丼』に寄っていきなよ。今日の夜には、新メニューができるかもしれないから」
そう言い残すと、僕は来た道を引き返し始めた。
四人はただぼんやりと、その背中を見送るしかなかった。
通路を歩きながら、僕は考えた。
伝説のダンジョン?
黄金の暴君?
どうも、自分はとんでもないところに来てしまったらしい。
でも、まあ、いい。
目的の材料は手に入った。
後は、これをどう調合するかだ。
「まずは、マヨネーズ部分とワサビ部分を、1:3で混ぜてみるか……いや、逆か?」
そう呟きながら、僕は明るい方へと歩いていった。
頭の中は、もう牛丼のことでいっぱいだ。
一方、広間に残された四人の冒険者は、しばらく立ち尽くしたままだった。
「……ねえ」
やがて、盗賊が小さく声を上げた。
「あの人……ドラゴンを倒す時、使ってた武器……あれ、調理ナイフじゃない?」
「……そうだな」
魔導師が乾いた声で答えた。
「しかも、あの動き……無駄が一切ない。まるで……『料理をするように』戦っていた」
戦士は深く息を吸い込み、倒れたドラゴンを見下ろした。
「我々が死闘を繰り広げるはずだった、伝説の魔物を……あの人は、『でけえトカゲ』と呼んでいた」
司祭は祈りを捧げるように手を組み、うつむいた。
「神よ……あの人物は、いったい……」
その答えは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、その日の夕方、町の小さな牛丼屋から、なぜか王都にもないような芳醇な香りが漂い始めた、ということだ。
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