どぶ川パーカーの女
ペンネ
序章 技術教師・三創唯音
左手首の時計を見た。
「ゲッ、やっべ! もうすぐチャイム鳴るやんけ!」
すぐに白衣をつかむと、左腕を通した。その刹那、チャイムの音が無慈悲にも響き始めた。
「いかん!」
左腕に白衣を通したまま、
白衣の下には深いグリーンのフード付きパーカー。ベージュのスキニーパンツは踝の少し上あたりまでの丈。黒のウォーキングシューズは新調したばかりなのか撥水加工が施された表面が照っていた。
「っしゃ! 駆け抜けろ、青春!」
唯音はそう言うなり、廊下の地面を蹴って走り出していた。
無情にもチャイムの音が終わりに近づく。それでも、唯音は走るのをやめない。風をはらんで、白衣がなびく。その残像を振り払うように唯音は加速していく。
「あたいの脚に宿れ! 人見絹江の魂!!」
人見絹江とは、1928年に開催されたアムステルダムオリンピックの女子800m競争で日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった陸上競技選手である。当時としては珍しい高等女学校に進学した才女でもあり、家から学校までの約6kmという距離を徒歩で通学していたという。同じく女子校の出身であり、剣道に青春を捧げた唯音にとって、思うところがあるのだろう。
廊下を真っすぐ進むと、目指す「2年A組」の文字が印字されたプレートが見えた。チャイムの音は終わり、余韻だけが廊下に残っていた。
「滑り込め、あたい!!」
余韻が完全に静寂に消えて行くまでは許容範囲内。唯音はラストスパートをかけると、そのまま教室の引き戸に左手をかけた。そのまま、力強く引き戸を引いた。そのとき、風をはらんだ白衣が萎んだ。肘のあたりまでずり落ちた白衣がだらしなく唯音の左腕にかろうじて残っていた。
大きな音と衝撃を伴って引き戸が突如として開けられたからなのだろう。教室内の生徒全員の驚きと困惑の視線が唯音に集まっていた。
唯音は、走って来たばかりで肩で息をしていた。無言。その静寂が、生徒たちの困惑にもつながっているのだろう。
引き戸に手をかけたまま、少し俯いていた唯音は、突如として顔を上げた。その動きの俊敏さに、数人の生徒が肩を震わせたのが見えた。
やがて、
「ここって2年A組の教室で合ってる??」
目元に力を込めてそう訊いた。
「は、はい…。合ってます……」
と、唯音の一番近くの席に着く女子生徒が答えた。長い茶髪を後ろで二つ結びにしたその生徒は、真面目そうな表情のどこかに緊張を隠していた。唯音は今度は突如としてその女子生徒の顔を見た。
「え…次の授業は技術で合ってる??」
「はい…合ってます……」
「おっけい…Thanks、Mercy、Danke、Gracias」
と、4か国語で謝意を言い表すと、唯音は教卓の上の時計を見た。授業開始時間を1、2分過ぎていた。
「おっしゃ! 許容範囲内!」
そう叫ぶと、悠々と教卓に向かって歩み出した。そのまま教卓に着くと、カゴを教卓の上に置いて教室内を見渡した。
「はい、起立~!!」
唯音はそう言うと、カゴの中から竹製の定規を取り出して教卓を強かに打擲した。
教室内は、一斉に生徒が椅子を引く際のくぐもった音が鳴り響く。その間に唯音はずり下がった白衣を左肩まで通し、右腕を通した。そして、首の後ろのフードを白衣の外に出して襟を直した。
教室内の生徒が全員起立すると、唯音は「はい、礼~」と言いながら頭を綺麗に下げた。再び椅子のくぐもった音が鳴り響きながら生徒たちが席に着く間、唯音は黒板に自分の名前を大きく書いた。そして、生徒の方を向く。
「よし、このクラスの技術の授業を担当します。三創唯音っていいます。出身はアドベンチャーワールドでお馴染みの和歌山。みかんはそれほど好きじゃないけど、梅はかなり好きで梅干しも梅酒も梅しそ焼酎も大好物です。今年からこの学校に赴任したので教員としては1年目です。あ、でも大学受験は1年浪人して、教員採用試験も1年浪人したのでその辺の若造新任教員よりも辛酸舐めたし経験も豊富な自信があります!」
一口でそう言い切った。が、生徒たちの間には静寂が広がっていた。
(アレ…? ウケてへんなぁ……)
唯音は小首を傾げた。
「…ほか何か質問あるやつおりゅ~??」
唯音はヘラっと笑った。
「はい!」
右腕をスッと伸ばしたのは男子生徒。明るい短髪はツンツンと外にはねている。いかにも活発そうな明るい表情をしていた。
「はい、じゃあちみ! 自己紹介もよろしく!」
と、唯音は右手の掌を広げて促した。
「はいっス!
元気よくハキハキと言った。
「おっ。えぇやん、えぇやん! ゴールキーパーってタフな体力とメンタル必要やんな? めっちゃカッコイイやん!」
と、唯音は祥太郎に向けてサムズアップした。
「え…? あ、いやぁ…あははは……」
祥太郎は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口ごもってはにかんだ。
「あ…えぇっと、それで…質問!」
「はい、どうぞ!」
祥太郎はニッコリと微笑むと、
「先生! 歳はいくつですか??」
屈託のない表情と声音でそう言った。と、教室内では失笑が起こった。
「おぉ…なるほどなるほど……」
と、唯音は「フッ…」と吐息のような笑みをこぼした。そして少し俯いた。すぐに顔を上げると、祥太郎の顔を真っすぐに見つめた。左手でサムズアップしてニッコリと笑みを浮かべると、そのまま親指で廊下を指した。
「ちょっと表出よか?」
教室に笑いが満ちた。
「…ちな、今現在は24や。12月の誕生日が来たら25やな」
「へー、結構上なんっスね…」
「10くらいしか変わらんやろがい! 20代はまだまだヤングやぞ、ワレ」
祥太郎と唯音のやりとりに周りでは断続的に笑いが起こった。
「え…じゃあ、先生。今、彼氏とかいるの~?」
と、真ん中あたりの席から女子生徒の声が聞こえた。ショートカットの艶のある黒髪におっとりとした雰囲気を漂わせている。
「はい、自己紹介が先! ちみの名前は?」
「
「なるほど…。”調達”と聞くと何かしらの非合法活動が頭をよぎったんやが、大丈夫か?」
と、鈴夏は目を少し細めて無言で唯音の額のあたりをじっと見つめた。
「……あの、不安になってくるんで、
笑いが起こる中、鈴夏は少し首を傾げてニッコリと笑った。
「あのぅ…質問なんですけど~、彼氏はいますか?」
「ん? おらんぞ?」
「やっぱり」
「やっぱりてなんやねん、失礼にもほどがあるやろ。ってか、分かってるんやったらいちいち聞かんでもえぇやろがい!」
再び笑いが起こった。
「先生って面白いね~…」
おっとりとした口調で「フフフ…」と笑いながら鈴夏が言った。
「…おぉ。突然誉めんなや、照れるやんけ……」
と、動揺した素振りを見せると、再び教室内は笑いに包まれた。
***
「おっしゃ、じゃあ成績評価の基準について説明するぞ~」
唯音は黒板に「50:25:25」と大きく書くと、生徒たちの方に身体を向けた。
「私の授業では基本的にこの比率で成績をつける」
「…あの。それってどういう……?」
教室の入り口近くの席の女子生徒――
「これは筆記試験と普段の授業態度と実習の受講態度および成果物の出来の比率やな。数字を見ても分かるように、筆記試験の比重が最も高いから各々試験勉強はぬかるんじゃねぇぞ?」
と、唯音は教室全体を見渡しながらそう言った。
「…と、言っても、国語とか英語とか数学みたいな5教科の勉強に全力を注ぎたいっていう層もおるやろう。私としても、皆には5教科の勉強を優先してもらいたい。でも、成績はきちんとつける必要がある。その相反する矛盾の落としどころとして、こんな風な比率を作ったわけや」
「成績の評定はどんな感じになるんですか~?」
首を傾げながら鈴夏がゆっくりとしたペースで声を上げた。
「おぅ、私の評定は単純明快や。この比率に従い、素点で70~80の間を取った人には例外なく”8”または”9”の成績をつける。そして、普段の授業態度やけど、休まずきちんと出席する、授業中は私語をしない、忘れ物をしない、の三拍子が揃った人には例外なく25点分をそのままつける。あと、実習の態度と成果物やけど、人によっては手先がぶきっちょで苦手な人もいれば、細かい作業が得意な人もいるやろう…。私は基本的に前者の方やけども、こうして元気に技術教員をしているように、ぶっちゃけ得意不得意はそないに大きな影響はなくて、単なる”個性”くらいに考えてくれたらえぇねん。やから、私はどちらの人も平等に評価する。…成果物の質が高いから25点、下手やから10点みたいなつけ方はしません。…ってか、そのつけ方されたら私はその部分の点数が0点になる可能性すらある」
と、笑い声が漏れ聞こえた。
「…つまり、授業を問題なく真面目に受けて、実習の成果物もそこそこな人は、簡単に50点近い素点がこの時点でとれるわけやな。あとは、筆記試験の出来次第で成績が”8”の大台に上るか”6”とか”7”にとどまるかの分かれ目やな」
この学校では成績は10段階評価である。
「無理ゲーじゃん……」
祥太郎が小さく呟いたのを唯音は聞き逃さなかった。
「でもぉ~…大丈夫!」
と、唯音は右手の人差し指を立ててニッと笑った。が、生徒たちはポカンとした様子。
「……なるほど。最近のキッズたちにはSMBCのCMの吉高由里子は通じひんみたいやな」
静かに手を下した。
「筆記試験の難易度はそれほど高くないように設定する。具体的には、試験問題内でヒントとか誘導の導線を貼っとくから、それに従いながら回答してもらえると70~80%くらいはとれるように作るつもり。あと、試験に入る前の最後の授業で”総集編”と題したテスト対策の授業をやるので、ぜひ”総集編”でテスト対策してもらう感じで! さらには、筆記試験では毎回”最大20点が加点される!?救済措置問題”なるものを設置するから、しっかり対策したけれども当日頭が真っ白になってしまった人でも、救済措置問題だけでも取り組んで20点つかんでもろて、って感じやね!」
ふと教室の空気に違和感を覚えて唯音は教室全体を見渡した。生徒たちは唖然とした面持ちで唯音を見ていた。
(アレ…? あたい、また変なこと言うたかな……?)
不審に思っていると、ガタっと椅子が後ずさるような音がした。音を立てたのは、祥太郎だった。口を両手で覆い、肩を小さく震わせていた。
(ん? なんぞ…?)
唯音は訝しそうに祥太郎を見た。すると、祥太郎が小さく呟いた。
「………ほ、仏の三創先生だ――」
この日より、「仏の三創」の呼び名が学校を席巻した。
***
(”仏の三創”かぁ…。まーた変な通り名がついちまったぜ~……)
職員室の窓辺に立ち、唯音は緑茶を飲んでいた。窓の外には、満開の桜。時折、風に吹かれて桜の花びらが舞う。
話は、この日から5年前に遡る。
これは、「仏の三創」がまだ「どぶ川パーカーの女」だった頃のお話――
どぶ川パーカーの女 ペンネ @A_la_mano
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