第7話:天災級魔獣の襲来
断絶の渓谷。その最深部に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような静寂が俺たちを包み込んだ。
空気が重い。重圧というより、存在そのものを圧迫するような高密度の魔力が、そこかしこで火花を散らしている。
移動用の虚空人形から這い出した騎士たちが、次々と膝をつき、激しく喘ぎ始めた。
「……っ、なんだ、このプレッシャーは。呼吸すら……まともに……」
精鋭と呼ばれた騎士たちですら、この空間に満ちる毒気に当てられ、まともな思考を維持できていない。
空間の歪みが物理的な刃となって吹き荒れるこの場所では、生物が生存すること自体が自然の摂理に反しているのだ。
唯一、涼しい顔をしているのは、俺の腕をしっかりと抱きしめているリゼロッテだけだった。
「師匠、お気をつけください。この先、強い魔力でが空気がひどくねじれていますわ。……強者が、この地の主の気配がします」
「ああ……。これは大したものだ……。来るぞ、リゼロッテ」
俺が注意を促した直後。
渓谷の奥底から、咆哮が響き渡った。
地響きと共に現れたのは、山のような巨体を持つ「影」だった。
全身が黒檀のように黒く、太陽の光を吸い込むような、不気味な質感を備えた鱗。
四つの翼は広げるだけで空を覆い隠し、その瞳には知性と呼ぶにはあまりに原初的で、暴力的な殺意が宿っている。
天災級魔獣、カラミティドラゴン。
古の文献にのみ記された、一国を一夜にして地図から消し去るとされる伝説の災厄だ。
「……。嘘だろ。なんで、こんなに圧倒的な……勝てるわけがない」
騎士の一人が絶望に染まった声を上げる。
無理もない。彼らがこれまで対峙してきた魔物とは、前提となる存在の格が違いすぎる。
ドラゴンの周囲では、熱エネルギーが一方的に奪われ、空間が白く凍りついている。
この魔獣の特異性は、その強靭な肉体だけではない。周囲の「エネルギー」を無差別に吸収し、己の糧に変えるという、理不尽なまでの生存戦略にある。
ドラゴンが大きく息を吸い込んだ。
その喉元に、禍々しい紫色の光が集束していく。
「散れっ! それはただのブレスじゃない。魔力密度が異常だ!」
俺の声が響くのと、ドラゴンのブレスが放たれるのは同時だった。
紫色の閃光が、扇状に広がりながら渓谷を薙ぎ払う。
接触した岩石が、融解する間もなく砂となって崩れ去った。
「私が防ぎます! 第一位階開放――『永劫の氷壁』!」
リゼロッテが前に出た。
彼女が放つ絶対零度の魔力は、一瞬にして数メートルもの厚みを持つ巨大な盾を作り上げる。
だが、最強の魔女と呼ばれた彼女の氷ですら、ドラゴンの前には無力だった。
紫の波動が氷壁に触れた瞬間、エネルギーの均衡が崩れ、氷が蒸発するように消えていく。
「なっ……魔力を、直接吸い取られている!? 私の氷が、形を保てない……!」
リゼロッテの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
魔法という高度な構成式で組み上げられた現象であればあるほど、ドラゴンの「分解と吸収」という根源的な理の前には脆弱なのだ。
盾を失ったリゼロッテに、二の矢となる咆哮が迫る。
「リゼロッテ様!」
「終わりだ……すべて、消される……」
騎士たちが目を逸らし、リゼロッテの死を覚悟したその瞬間。
俺はリゼロッテの前に立ち、右手を虚空に突き出した。
「師匠!? いけません、お下がりください! 私はかまいません、でも貴方様を失うわけには……!」
「勘違いするなよ、リゼロッテ。弟子を守るのは、師匠の絶対的な義務だ」
俺は第一位階『虚無――ヴォイド』を全開にする。
ドラゴンの能力が「吸収」だというなら、俺の力は「無化」だ。
相手がエネルギーを吸おうとするその瞬間に、吸うための対象そのものをこの世界から消し去る。
「第一位階――『虚無の境界線』」
俺の周囲に、色が失われた円形の領域が展開された。
迫りくる紫色の波動がその領域に触れた瞬間、パチン、という静かな音を立てて消失した。
爆発も、余波もない。
ただ、そこに飛来していたはずの「破壊」という事象が、最初から存在しなかったかのように消え失せた。
「……あ?」
騎士たちが呆然と声を漏らす。
リゼロッテもまた、俺の背中を見つめたまま、言葉を失っていた。
「熱いのも寒いのも、元を正せば分子の振動……事象の揺らぎに過ぎない。その揺らぎの根本にある『定義』を虚無で塗りつぶせば、どんな天災だろうと、ただちに消える」
俺は淡々と言い放ったが、内心ではこのドラゴンの異常な硬度を分析していた。
こいつの鱗は、単なる物理的な防御力ではない。
「自分を傷つける攻撃を、傷つけられる前に無力な素材へと変換する」という、事象の優先権を掌握している。
俺が使った『虚無』も、このままではジリ貧だ。
ドラゴンの吸収スピードが、俺の「消去」の処理を上回れば、俺たちは一瞬でエネルギーの出涸らしにされてしまう。
「師匠、申し訳ありません……。私の力不足で、貴方様をこのような危険に、いっそ、私が自らを氷の核に変えて、この化け物と心中します。そうすれば、数秒の隙が生まれます。その間に、師匠だけは……」
リゼロッテが、ひどく思い詰めた表情で俺の裾を掴む。
彼女の碧眼には、自己犠牲を厭わない、狂気じみた献身が宿っていた。
俺を守るためなら、自分の命など、路傍の石ころほどにも思っていない。
その重すぎる愛が、今はひどく痛ましかった。
「馬鹿なことを言うな。……。そんなことをしたら、俺が後でドラゴンの燻製を食べる時に、寂しくて食欲がなくなるだろ」
「え? 燻製……?」
「ああ。こいつ、結構いい肉質をしてるんだ。さて、そろそろ終わらせようか。こいつの『理屈』はもう解けた」
俺は二歩、三歩と、ドラゴンの方へ歩み寄った。
ドラゴンは、俺という「魔力を持たないはずの矮小な存在」が、己の攻撃を無効化したことに苛立ちを覚えたらしい。
巨躯を震わせ、大気を引き裂くような速度で、その巨大な鉤爪を振り下ろしてきた。
「師匠! 逃げて!」
リゼロッテが叫ぶ。
だが、俺は動かない。
俺の視界の中では、ドラゴンの鉤爪が振り抜かれる軌道が、無数の光の糸として見えていた。
ドラゴンの存在を支える「理」の糸。
「お前の守りは、たった一つの『前提』に支えられている。自分を攻撃するエネルギーは、すべてお前よりも格下である、という傲慢な前提だ」
俺は胸の奥に眠る、第三の紋章を意識する。
神代より引き継がれた、世界のルールそのものを書き換える禁忌の力。
「第三位階開放――『神代紋・理の鍵――エンシェント・クレスト』」
刹那、俺の右手に漆黒の鍵が実体化した。
それは物質ではなく、概念の塊。
俺がその鍵を、虚空に向かって一捻りする。
「定義の施錠を解除する。カラミティドラゴンよ。お前の『不滅』という理は、今この瞬間をもって未定義の状態へと移行した」
カチリ。
世界の基底を揺るがすような、重厚な開錠音が響き渡った。
直後、ドラゴンの身体を覆っていた絶対的なオーラが、一気に霧散した。
太陽の光を吸い込んでいた黒い鱗が、「少し硬いだけの物質」へと変質する。
事象の優先権が、ドラゴンの手から、俺の指先へと移ったのだ。
「さあ、次は俺の番だ。第二位階、『形――フォルム』」
俺は影から、先ほどまでの「へのへのもへじ」の人形とは明らかに違う、禍々しいまでの威圧感を放つ影を呼び出した。
それは巨大な鎌を携えた、漆黒の死神。
アレンがその力を最大出力で解放した時にのみ現れる、虚無の具現。
「処刑人――エグゼキューター」
俺がその名を口にすると同時に、漆黒の死神がドラゴンの懐へと飛び込んだ。
ドラゴンが驚愕に瞳を見開く。
これまであらゆる攻撃を吸収してきたその肉体が、ただの「切り裂かれるべき肉」へと成り下がったことに、本能的な恐怖を覚えたのだろう。
エグゼキューターの鎌が、閃光となって一閃した。
断絶の渓谷に、ドラゴンの断末魔がこだまする。
俺はリゼロッテを背にかばいながら、無慈悲に振り下ろされる死神の鎌の軌跡を見つめていた。
伝説の災厄が、一人の「空っぽ」なはずの魔導師によって、一方的に蹂躙されていく。
その光景を、騎士たちはただ、言葉を失って見守ることしかできなかった。
「これでおしまいだ。リゼロッテ、終わったら一緒に肉を運ぶのを手伝ってくれ。こいつの尻尾の部分、最高に脂が乗ってそうなんだ」
俺が平然とそう言うと、リゼロッテは頬を染め、恍惚とした表情で俺を見上げた。
「……はい、喜んで。ああ、やはり貴方は私の、世界で唯一の神様ですわ、お師匠様……!」
ドラゴンの巨体が地に伏し、渓谷が再び静寂に包まれる。
その中心で、俺はこれからの夕食のメニューに思いを馳せていた。
王城への帰還、そして待っているであろう喧騒。
それらを思うと少し気が重いが、今は目の前の「極上の食材」に、少しだけ胸が高鳴っていた。
次の更新予定
2025年12月29日 06:20
虚空の宮廷魔導師の大出世 ~「無能」位階の俺、この国最強の魔導師にさらわれて、路地裏の便利屋から王宮務めの魔導師になる~ いぬがみとうま @tomainugami
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