第6話:断絶の渓谷へ

 王城の地下倉庫で発覚した、国家規模の横領事件。

 あの太った役人は、リゼロッテによってすぐに捕らえられ、尋問(という名の氷の拷問)の末、わずか数分で背後関係をすべて吐き出した。


 本物のドラゴンの素材や希少石は、一部の腐敗した貴族たちを通じて隣国へ流されていたらしい。

 王宮内がその事後処理に追われる中、俺はリゼロッテを伴い、王都の北門に立っていた。


 俺が求めていた「魔導の芯」となる素材は、すでに国外へ運び出された後だという。

 奪い返す手間をかけるより、産地へ行って自分で手に入れたほうが早い。

 俺がそう提案すると、リゼロッテは「師匠の御心のままに」と即答し、公爵家の権限で強引に調査隊を組織してしまった。



「……師匠、準備は整いましたわ。ですが、目的地が『断絶の渓谷』というのは、少々骨が折れますわね」


 リゼロッテが、俺の隣で少しだけ眉をひそめる。

 その背後には、彼女が選抜した十名の精鋭騎士たちが、重々しい甲冑に身を固めて控えていた。

 彼らの顔には、これから向かう場所への隠しようのない緊張が張り付いている。

 



 断絶の渓谷。

 王国の北端に位置するその場所は、数千年前の神代の戦いにより、空間そのものがねじ切れたとされる禁足地だ。


 常時、空間の歪みが刃となって吹き荒れ、並の魔導師では足を踏み入れた瞬間に五体をバラバラに引き裂かれる。

 だが、その過酷な環境だからこそ、そこでしか手に入らない特異な素材が眠っているのも事実だった。


「移動には、軍用の快速馬を用意させました。渓谷の入り口までは、この馬たちで三日はかかりますわ」


 リゼロッテが指差したのは、王宮が誇る精霊馬だ。

 風の加護を受け、時速にして六十キロメートル以上の速度で数日間走り続けることができる名馬たち。

 騎士たちも「これ以上の移動手段はない」と言いたげに、誇らしげに馬のたてがみを撫でている。

 

 俺は彼らのやる気を削ぐようで申し訳ないと思いつつ、首を横に振った。


「いや、馬はいい。三日もかけていたら、俺の魔導的なインスピレーションが冷めてしまう。……もっと効率的で、安全な手段を用意してあるんだ」


「……はあ? 効率的な手段だと?」


 騎士の一人が、我慢できずに鼻で笑った。

 彼はリゼロッテの部下ではあるが、まだ俺の実力を目の当たりにしていない新参者らしい。


「おい、便利屋。お前がどんな手品を使うか知らねえが、精霊馬以上の移動手段なんてこの国には存在しねえんだ。ましてや断絶の渓谷へ行くとなれば、重量のある防御結界も必要だ。……空っぽの位階のお前に、何ができるってんだ?」


「……。……。貴方、今すぐその首を撥ねられたいのかしら?」


 案の定、リゼロッテから殺気が噴き出した。

 彼女の碧眼が冷酷な光を宿し、騎士の足元を瞬時に凍りつかせる。

 

「待て、リゼロッテ。……。……。いちいち殺していたら、護衛がいなくなるだろ。……彼らにも、俺の『やり方』を見せておいた方が、後々の作業がスムーズだ」


 俺はリゼロッテをなだめ、一歩前へ出た。

 そして、第二位階『形――フォルム』の魔力を練り上げる。

 俺が思い描くのは、空気という流体の抵抗を極限まで逃がし、かつ地形の凹凸という物理的な衝撃を事象レベルで減衰させる、移動専用の筐体だ。


「第二位階、開放――『虚空人形――ヴォイド・ドール・中央快速型』」


 俺の影が大きく膨らみ、そこからドロリとした漆黒の物質が噴出した。

 それは五体の騎士たちを包み込めるほどの巨大な塊となり、やがて不気味な形へと凝縮されていく。

 

 数秒後、そこに出現したのは――。

 真っ黒な全身タイツを模したような、人型の巨大な塊だった。

 

 表面は滑らかで、一切の装飾がない。

 頭部には目や鼻の代わりに、俺が適当に指先で描いた「へのへのもへじ」のような、間の抜けた白い顔が一つ。

 

「…………なんだ、これは」


 騎士たちが、唖然とした声を漏らす。

 無理もない。王宮の壮麗な景色の中で、その黒い着ぐるみのような物体は、あまりに異質で、滑稽でだ。


「見た目は気にするな。……こいつは内部に『虚無』の緩衝材を敷き詰めてある。外からの衝撃はすべて『無』に帰し、かつ前方の空気を側面に逃がすことで、移動時の抵抗を最小限に抑える設計だ。……要は、時速百キロメートル以上で走り続けても、中は揺れ一つない特等席ってことだよ」


 俺が説明している間も、黒い人形は「へのへのもへじ」の顔で、所在なさげに首をかしげている。


 前世の感覚で言えば、最高級のスポーツカーに、究極の衝撃吸収材を詰め込んだようなものだ。

 ただ、俺にデザインセンスというものが決定的に欠けていただけの話である。


「バ、バカにするな! こんなふざけた着ぐるみに乗れというのか! 我々は王国の誇り高き――」


「素晴らしいですわ……! 流石はお師匠様、機能性を突き詰めた結果、これほどまでに洗練された、無駄のないフォルムに辿り着くなんて……! この何とも言えない愛嬌のある顔、師匠の深い慈愛を感じますわ!」


 リゼロッテが、頬を染めて黒い人形に抱きついた。

 彼女の狂信的なフィルターを通せば、この手抜きデザインも「究極の機能美」に見えるらしい。

 

「師匠、早く中へ入りましょう。私、師匠と狭い空間で揺られるなんて、想像しただけで……ああ……!」


「揺れないって言っただろ。……ほら、お前らも乗れ。……置いていかれたくなければな」


 俺は人形の腹部に手を当て、入り口となる『虚無の門』を開いた。

 騎士たちは屈辱に震えながらも、リゼロッテの殺気混じりの視線に促され、おずおずと黒い塊の中へと飲み込まれていった。

 

 内部は、外見からは想像もつかないほど広々としていた。

 床も壁も、俺の魔力で生成された柔らかなクッションに覆われている。

 俺とリゼロッテが中央の特等席に座り、俺が「発進」を命じた。


 直後。

 

「ぎゃあああああああああ!?」


 騎士たちの悲鳴が室内に響いた。

 窓に映る景色が、一瞬で線の塊へと変わったからだ。

 

 移動用虚空人形は、俺の意志に呼応して、爆発的な加速度で大地を蹴った。

 一歩で数十メートル。

 空気の抵抗を『虚無』で削り、地面との摩擦を『定義』で無効化する。

 精霊馬ですら追いつけないその速度は、もはや移動というより、空間を滑走する弾丸に近い。

 

 だが、人形の内部は驚くほど静かだった。

 コーヒーを注いだカップをテーブルに置いても、一滴もこぼれないほどの安定性だ。


「すご……本当に、全く揺れない……。それに、この速さは何だ!? もう王都の門が点にしか見えないぞ!」


「流石はお師匠様です。馬に揺られて三日もかけるなんて、確かに野蛮な行為でしたわ。……これなら、おやつを食べている間に着いてしまいますわね」


 リゼロッテは俺の肩に頭を預け、どこからか取り出した手作りのクッキーを俺の口元に運んでくる。

 外では騎士たちがマッハに近い速度の恐怖に顔を青ざめさせているというのに、この女はピクニック気分だ。


「……あーん、してください。師匠」


「自分で食えるから。……前を見ろ、リゼロッテ。……そろそろ『境界』だ」


 人形がさらに速度を上げる。

 やがて、平坦だった草原が消え、視界の先には天を突くような断崖絶壁が現れた。

 空間が熱に浮かされたように揺らぎ、時折、空に走る亀裂から紫色の雷光が漏れ出している。


 断絶の渓谷。

 そこは、世界の「ほころび」そのものだった。

 

「……。……。ここから先は、俺が直接手綱を取る。……お前ら、噛まないように舌を引っ込めておけよ」


 俺は座席から立ち上がり、人形の感覚受容器と自分の意識を深く連結させた。

 前世の戦闘機乗りが感じていたであろう、音速の世界の解像度。

 それを、魔導の理で再現する。

 

 人形は速度を落とすことなく、空間の亀裂が乱舞する渓谷の中へと突っ込んだ。

 左右から迫る、目に見えない空間の刃。

 俺はそれを『虚無』の眼で見極め、一ミリの誤差もない軌道で回避していく。


「お、おい! 死ぬ! 死んでしまう!」


「騒がないでください。……師匠の操縦を信じられないのですか? ……次、声を上げたら、その口ごと頭を氷漬けにしますわよ」


 リゼロッテの冷徹な一喝に、騎士たちは沈黙した。

 恐怖と、そしてそれ以上の畏怖。

 彼らは今、自分たちが「世界で最も安全で、かつ最も危険な場所」にいることを、骨の髄から理解し始めていた。


 人形はねじれた岩壁を縦横無尽に駆け抜け、やがて渓谷の最深部、空気が不自然に停滞した広場へと辿り着いた。

 

 そこには、俺が求めていた「本物の理」が眠っている。

 だが、到着と同時に、俺の肌を焼くような強烈な圧力が襲いかかってきた。

 

「……。……。来るぞ。……。……。リゼロッテ、準備しろ」


「ええ。……。……。誰であれ、師匠の素材採集の邪魔をすることは許しませんわ」


 人形のハッチが開くと同時に、俺たちの前に立ちふさがったのは、巨大な「影」だった。

 

 それは、空間そのものを食らい、熱エネルギーを吸収して成長するという、伝説の魔獣。

 

「……天災級魔獣、カラミティドラゴンか。お前を俺の研究の糧にさせてもらうぞ」


 俺は一歩、ねじれた大地を踏みしめた。

 背後では、俺が作った黒い人形が「へのへのもへじ」の顔で、静かに事の顛末を見守っていた。


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