第4話:回想、一週間の奇跡

 ゼグスが下着姿で逃げ出した後、王城の工房には妙な活気が居座り続けていた。

 職人たちは俺を「隠れた大賢者」として扱い始め、ガンテツは事あるごとに俺を酒に誘おうとしてくる。

 王城での生活は、思っていたよりも騒がしくなりそうだ。

 

 今は工房の端にある応接間で、リゼロッテが淹れてくれた茶を啜っている。

 彼女は俺の隣にぴったりと座り、俺が口をつけたカップを熱烈な眼差しで見つめていた。


「師匠。……ふふ、こうしてまた貴方にお茶を淹れられるなんて、夢のようですわ」


「……あまり見つめられると飲みづらいんだが」


「あら、失礼いたしました。あまりに尊い光景でしたので、つい。……でも、師匠。貴方はあの頃と全く変わりませんね。その無関心なようでいて、本質を鋭く突く眼差し。五年前、私を奈落から救い出してくださった時と同じです」


 リゼロッテが遠い目をして、愛おしそうに呟く。

 五年前。

 その言葉が引き金となり、俺の意識は古びた下町の雨の風景へと引き戻された。


 当時の俺は、まだ十五歳の子供だった。

 前世の記憶を持ったままこの世界に転生し、自分の胸に宿った「無色」の紋章が世間からどう見られているかを、嫌というほど理解した頃だ。


 両親を早くに亡くし、路地裏で細々と壊れた道具を直して日銭を稼ぐ日々。

 周囲からは「空っぽの欠陥品」と呼ばれ、石を投げられることも珍しくなかった。

 

 そんなある雨の日だった。

 店を閉めようとしていた俺の目に、路地裏のゴミ溜めの横で震えている一人の少女が映った。


 透き通るような銀髪は泥に汚れ、豪華だったはずの旅装束はあちこちが破れている。

 彼女は膝を抱え、ひどく絶望した表情で地面を見つめていた。

 それが、当時十六歳だったリゼロッテ・フォン・グランツとの出会いだった。


「……おい、死ぬならよそでやってくれ。うちの店の前で幽霊に出られると、商売あがったりだ」


 当時の俺は、今以上に可愛げのない子供だった。

 声をかけたのは同情からではない。ただ、その少女が纏っていた魔力の揺らぎが、あまりに危うかったからだ。


 彼女の周囲では、制御を失った冷気が渦巻き、近くにあるゴミや壁を無差別に凍りつかせていた。

 このままでは、彼女自身の精神が魔力の暴走に飲み込まれて壊れてしまう。

 そう直感した俺は、放っておくことができなかった。


 少女――リゼロッテは力なく顔を上げ、死人のような瞳で俺を見た。


「……貴方には関係のないことです。私は、失敗作ですから。……名門グランツ家に生まれながら、授かった『氷』の力を制御できず、家の名に泥を塗った。……精霊からも、家族からも見放された、無能の魔女。それが私」


 彼女の声は震えていた。

 聞けば、彼女は学院での昇級試験に失敗し、周囲からの期待という重圧に耐えかねて逃げ出してきたのだという。

 魔力は膨大なのだが、それを形にするための「定義」が複雑すぎて、彼女の脳が処理しきれなくなっていたのだ。

 

 前世の俺にはわかる。

 彼女は、自分を縛るルールが多すぎる。

 名門としての誇り、氷は冷たくあらねばならないという固定観念、そして周囲からの完璧主義。

 それらが積み重なり、彼女の魔道という名の設計図は、もはや誰も解読できないほどに混迷を極めていた。

 

「なるほど。つまり、頭が固すぎて自分の魔力に溺れているわけか。……無能なのは紋章じゃない。使いこなせないお前の『理屈』が間違っているだけだ」


「なっ……子供の貴方に、何がわかるというのです! 私はありとあらゆる家庭教師に学び、古今東西の魔道書を読破しました。それでも、この冷気は言うことを聞かない。……これは呪いなのですわ!」


「呪いでも何でもない。ただの、整理整頓の不足だ。……いいか、一週間だけ時間をやる。俺の言う通りにしてみろ。それでダメなら、好きなだけそこで氷像にでもなればいい」


 それが、俺たちの師弟関係の始まりだった。


 俺は彼女を店の中に招き入れ、まずは「虚無」の概念を教え込んだ。

 世間が言うような「何も生み出せない空っぽ」ではなく、すべての事象から余計な飾りを剥ぎ取り、究極の単純化を行うための力。


 俺は彼女に、複雑な魔法陣を組むことを禁じた。

 氷を作ろうとするな、と命じた。


「氷を『作る』と思うから、その性質や形状に意識が分散するんだ。……まずは、そこにある『熱』を捨てろ。ただ、余分なエネルギーを『無』に帰すことだけを考えろ」


 俺は彼女の背中に手を当て、俺の「虚無」の感覚を直接、彼女の魔力回路へと流し込んだ。


 冷たい、けれどどこか懐かしい、何もない静寂の世界。

 彼女は最初、戸惑い、抵抗した。

 

 三日が過ぎる頃、彼女の表情から焦りが消えた。

 

 五日が過ぎる頃、彼女が漏らす冷気は、暴虐な嵐から、澄み渡るような静謐へと変わっていた。

 

 そして七日目の朝。

 雨が上がり、眩しい朝日が路地裏に差し込む中、リゼロッテは俺の目の前で掌を広げた。


「……『虚無』。万物の理を、源へと還す。……その結果として残るのは、純粋なる静止の世界」


 彼女が呟くと同時に、掌の上に一輪の花が咲いた。

 それは、この世のものとは思えないほど美しい、透明な氷の華。

 一切の不純物がなく、完璧な幾何学模様を描くその結晶は、朝日を浴びて七色に輝いていた。

 

 魔力を「注ぐ」のではなく、世界から「引き算」をすることで至る究極の氷魔法。

 それが、後に王国を震撼させることになる「氷華の魔女」の真の力だった。


「……できました。師匠、私、できました……!」


 リゼロッテは涙を流しながら、俺に抱きついてきた。

 子供の俺は、彼女の柔らかな温もりと、流した涙の熱さに驚き、ただ呆然とするしかなかった。

 

 彼女にとって、俺は単なる技術の師ではなかったのだろう。

 世界中の誰もが「無能」と切り捨て、彼女自身すらも諦めていたその魂を、ただ一人、肯定し、再構築してみせた存在。

 絶望の底にいた彼女の手を引き、新しい世界の歩き方を教えた「神」にも等しい存在だったのだ。


 その後、彼女は「必ず迎えに来ます」と言い残して、グランツ家へと戻っていった。

 俺はそれを、単なる子供の約束だと思って聞き流していた。

 便利屋を続けながら、また静かな日常に戻るつもりだったのだ。


 まさか、その五年後に、彼女が本当に王族すら跪かせる権力と、俺を文字通り「逃がさない」ほどの執念を持って現れるとは、誰が予想できただろうか。


 回想から意識が戻ると、リゼロッテが俺の顔を覗き込んでいた。

 その碧眼には、五年前よりもさらに濃い情熱が渦巻いている。


「あの時、師匠が触れてくださった場所……背中もお腹も、今でも熱いのです。貴方の教えが、私の魔力の一部となり、血となり、肉となっています。……ねえ、師匠。私はもう、貴方なしでは魔法を撃つことさえできませんわ。貴方の『虚無』がなければ、私の世界は再び混迷に沈んでしまいます」


(怖いって……)


 リゼロッテの手が、俺の頬をそっと撫でる。

 その指先はわずかに震えていた。

 これは、単なる敬愛ではない。

 自分の存在意義のすべてを俺という一点に預けてしまった者の、危うい依存だ。

 

「……大げさだ。お前はもう、俺の手を借りなくても十分に強い」


「いいえ。強くなどありません。師匠に褒めていただけなければ、こんな力、ただの冷たい石ころと同じです。……ですから、もう二度と私の前から消えないでくださいね? もしまた姿を隠されたら、私、今度こそこの国を凍土に変えてしまうかもしれません」


 彼女の言葉に、冗談の響きは一切なかった。

 かつての教え子が、これほどまでに危険な「重荷」に育ってしまったことに、俺は深い溜息をつくしかなかった。

 

 だが、その重さが嫌いではない自分もいる。

 俺の『虚無』を、これほどまでに深く理解し、愛してくれたのは、広い世界で彼女ただ一人だったのだから。


「……わかった。勝手に行き先も告げずに消えたりはしないよ。……ただし、俺の睡眠時間と研究時間は保証してもらうぞ」


「ふふ、もちろんですわ。師匠の研究に必要なものは、私がすべて用意いたします。……たとえ、それが他の誰かの命であっても」


「さらっと怖いことを言うなーーッッ。……さて、休憩は終わりだ。リゼロッテ、お前に見せたいものがある」


 俺は立ち上がり、懐からゼグスとの戦いで得た「精霊器の核」を取り出した。

 リゼロッテの瞳が、俺の行動一つ一つを逃さぬように熱っぽく光る。


「……次のお披露目会まで、俺たちの『理』をさらに磨き上げておかないとな。……俺についてこられるか? リゼロッテ」


「どこまでも。地獄の果てまで、お供いたしますわ、師匠」


 彼女の重く甘い返答をした。


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