第3話:エリート騎士の屈辱

 工房内の温度が、物理的な限界を超えて急降下していく。

 俺の隣で、リゼロッテから放たれる殺気がもはや視覚化されそうなほど濃密になっていた。


 彼女の碧眼からは完全にハイライトが消え、一点の曇りもない「死」の宣告が、乱入してきた銀甲冑の男――ゼグスへと向けられている。


「……ゼグス。今、なんと言いましたか? ドブネズミ? 不潔? 私の師匠に対して、随分と威勢の良い言葉を並べましたね」


 リゼロッテの声は、静かすぎて逆に鼓膜を刺すような鋭さを持っていた。

 彼女の指先が微かに動く。それだけで、ゼグスの足元の石床がパリパリと白く凍りつき、彼の逃げ道を塞ぐように氷の棘が隆起した。


 このままでは、王城のど真ん中で騎士団の副団長が氷像にされてしまう。

 そうなれば、面倒なのは俺だ。俺の平穏な「宮廷引きこもりライフ」が始まる前に終わってしまう。


「おい、リゼロッテ。落ち着け。……その、気持ちは嬉しいが、ここでこいつを殺すと後始末が大変だろ」


 俺は彼女の冷え切った手に自分の手を重ねた。

 氷のように冷たかった彼女の指先が、俺が触れた瞬間にピクリと跳ね、次の瞬間には顔を真っ赤にしてフニャフニャと力が抜けていく。


「はぅ、はいっ! 師匠がそう仰るなら……! ええ、師匠の手の温もり……ああ、尊い……。この温かさを守るためなら、私は何だって我慢できますわ」


 チョロすぎる。

 殺意の塊だったはずの最強魔導師が、一瞬で熱に浮かされた少女に変貌する様を見て、ゼグスは屈辱に顔を歪ませた。


 彼にとって、リゼロッテは高嶺の花であり、公爵令嬢という至高のブランドだったのだろう。

 それが、どこの馬の骨とも知れない平民に、まるで主人の機嫌を伺う飼い犬のように懐いている。

 エリート騎士としてのプライドが、その光景を許容できるはずもなかった。


「貴様……リゼロッテ様を毒したか。その『虚無』などという忌々しい欠陥紋章を使って、卑劣な術をかけたに違いない! その汚らわしい手で、我らが王国の至宝に触れるな!」


 ゼグスが激昂し、腰の剣を引き抜いた。

 ただの剣ではない。刀身に複雑な魔法回路が刻まれた、炎属性の精霊器アーティファクトだ。

 彼はそのまま、俺に向けて左手を突き出した。


「焼き尽くせ――『獄炎の呪弾カース・フレア』!」


 彼が放ったのは、単なる火球ではなかった。

 炎の中に、相手の魔力回路を内側から焼き切る「呪い」の構成式が組み込まれた、騎士団秘匿の攻撃魔法だ。

 工房の職人たちが悲鳴を上げ、ガンテツが「よせ、ゼグス!」と叫ぶ。


 だが、俺の目には、その魔法が酷く稚拙なモノに見えていた。

 炎の熱量は高いが、その基盤となる魔力の結合が甘い。


「……遅いし、雑だ」


 俺は逃げるどころか、一歩前へ踏み出し、向かってくる黒炎の弾丸に向かって右手を伸ばした。

 周囲が驚愕に目を見開く。無能力者が、呪いの炎を素手で受け止めるなど自殺行為に等しいからだ。


 俺は第一位階『虚無』を起動し、手のひら全体に薄い「無の皮膜」を展開する。

 そして、飛来した呪弾を、まるで飛んできた野球のボールでも捕るようにガシリと掴んだ。


「なっ……!?」


 ゼグスが絶句する。

 俺の掌の中で、猛り狂うはずの黒炎が、まるで行き場を失ったように暴れ、やがてシュウシュウと音を立てて小さくなっていく。

 

「熱伝導の遮断。エネルギー構成式の強制初期化。……ついでに、この『呪い』の属性をすべて消去する」


 俺が指先に力を込めると、パリン、とガラスが割れるような音がした。

 ゼグスが放った「獄炎の呪弾」は、俺の拳の中で一欠片の火花も残さず、完全に消失した。

 煙すら出ない。最初から存在しなかったかのように、虚無へと帰したのだ。


「馬鹿な……。私の『獄炎』を……握りつぶしたというのか? 魔力を持たないはずの、虚無位階が!?」


「魔力を持っていないんじゃない。俺の魔力は、お前の魔法という『定義』を『未定義』に書き換える性質を持っているだけだ。……棟梁、この程度の騒ぎなら、まだ工房の備品に被害はないだろ?」


 俺が事もなげに言うと、ガンテツは口をあんぐりと開けたまま、呆然と頷いた。

 

「き、貴様ぁぁ! 魔法が効かぬというなら、騎士の剣でその首を刎ねてくれるわ!」


 魔法を無効化された恐怖を、ゼグスは逆上で塗り替えた。

 彼は炎を纏った剣を振り上げ、俺へと突進してきた。

 重装甲の鎧を纏っているとは思えないほどの速さだ。

 おそらく、足元の鎧に風属性の加速魔法を付与しているのだろう。


 リゼロッテが氷の壁を作ろうとしたが、俺はそれを手で制した。


「リゼロッテ、手を出すな。……こいつは、俺が『教育』しなきゃいけないらしい」


 俺は第二位階『形――フォルム』を発動させる。

 足元の影から、ドロリとした漆黒の物質が這い出してきた。

 それは不定形の触手のように伸び、空中で瞬時に固形化する。

 『虚空の手――ヴォイド・ハンズ』だ。


 ゼグスの剣が俺の脳天を割る寸前、俺は最小限の動きでそれを回避した。

 同時に、影から伸びた四本の『虚空の手』が、ゼグスの身体を通り抜けるように動く。


 いや、正確には通り抜けてはいない。

 俺の『手』が触れたのは、ゼグスの肉体ではなく、彼の鎧を繋ぎ止めている「概念的な接合部」だ。


「……全分解――デコンパイル」


 一言。

 俺がその「法則」を口にした瞬間、ゼグスの身体に劇的な変化が訪れた。


 ガシャン! ガラガラガラ……!


 金属同士が激しくぶつかり合い、崩れ落ちる音が工房内に響き渡る。

 ゼグスが身に纏っていた、王室謹製の特注銀甲冑。

 その胸当て、肩当て、腕甲、腿当て、そして脛当てに至るまで。

 あらゆるパーツの繋ぎ目――魔法的な留め具や、鋲が、俺の『虚無』によって一瞬で「消滅」したのだ。


「あ……?」


 突進の勢いそのままに、ゼグスが前のめりに転倒した。

 もはや彼を保護する鋼鉄の壁はない。

 そこにあるのは、精巧な細工が施されていたはずの、ただの金属板の山。

 そして、その中心で無様に地面を転がっているのは――。


「…………ぷっ」


 工房のどこからか、こらえきれない笑い声が漏れた。

 無理もない。

 王国のエリート騎士、聖陽騎士団の副団長ともあろう男が。

 今、大勢の職人たちの前で、白い下着一枚の無様な姿で転がっているのだから。

 鎧だけではない。ベルトのバックルさえも「分解」してやったおかげで、彼のズボン(下着の上から履いていたはずの防刃タイツ)までが足首までずり落ちていた。


「き、貴様……貴様ぁぁぁ!! 何をした! 私の鎧をどうした!!」


 ゼグスが顔を真っ赤にして叫ぶが、その声に威厳など欠片もない。

 むしろ、下着姿で怒鳴り散らす様は、滑稽を通り越して哀れですらあった。


「言っただろ、分解したんだ。お前の鎧、見た目は立派だが構成が甘すぎる。ちょっと『隙間』を見つけて開けてやれば、この通りだ」


 俺は『虚空の手』を消散させ、肩をすくめた。

 本当は、彼の鎧そのものを分子レベルで消去することもできた。

 だが、それをしてしまえば貴重な素材がもったいない。

 こうしてパーツごとにバラしてやる方が、ガンテツたち職人にとっても「再利用」しやすくて親切というものだ。


「ふふっ、ふふふふふ! 流石はお師匠様ですわ! あんな醜悪な男、鎧を着ている価値すらありませんものね。……ゼグス、貴方のその格好、今の貴方の実力にふさわしいお姿ですこと」


 リゼロッテが冷酷な笑みを浮かべ、見下すようにゼグスを眺める。

 彼女の視線は、ゴミを見るよりもなお冷たい。

 その視線に、ゼグスは震え、己の腕で身体を隠そうとした。

 一度折れたプライドは、もはや修復不可能だろう。


「覚えていろ……。こんな屈辱、タダで済むと思うな……! 私は、貴様を、絶対に……!」


 捨て台詞を吐きながら、ゼグスはバラバラになった鎧のパーツを拾う余裕もなく、情けない足取りで工房から逃げ出していった。

 下着姿で走る彼の背中には、職人たちの容赦ない嘲笑が浴びせられた。


「ハッハッハ! 最高だぜ、アレン殿! あの鼻持ちならねえ騎士様を、まさかあんな方法でわからせちまうとはな!」


 ガンテツが腹を抱えて笑い、俺の背中をバシバシと叩く。

 他の職人たちも、さっきまでの余所余所しさはどこへやら、英雄を見るような目で俺を囲んだ。


 「虚無」の位階が無能だなんて、もう誰も言わないだろう。


 だが、リゼロッテだけは違った。

 彼女は職人たちの輪を強引に割り込むと、俺の右手を両手で、大切そうに握りしめた。


「お師匠様……。あんな男、私が始末すればよかったのです。……あ、もしかして、私に汚いものを見せないために、わざとあんな方法で退けたのですか? ああ、なんて慈愛に満ちたお方……! 好きです。ますます離したくなくなりましたわ」


 彼女の碧眼が、怪しく、そして熱く発光している。


(……やばい。ゼグスの相手をするより、こっちの相手をする方が数倍エネルギーを使いそうだ)


 俺は頬を伝う汗を拭いながら、これからの王城生活に漂う暗雲を感じずにはいられなかった。


 だが、悪いことばかりでもない。

 俺は逃げていくゼグスの影から、こっそりと回収していた「あるもの」を懐で転がした。


 彼が持っていた精霊器の核――その構成式を、俺は分解のついでにコピーしておいたのだ。


 研究の素材には困らなそうだ。

 俺はリゼロッテの重すぎる抱擁を受け止めながら、次なる実験の算段を立て始めた。


 その数日後。

 この「事件」は尾ひれがついて王城中に広まり、俺の名は『公爵令嬢の隠し牙』として、貴族たちの間で畏怖とともに語られ始めることになるのだが――。

 この時の俺は、まだそれを知る由もなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る