【幸せの履歴書】

【幸せの履歴書】


十二月二十八日。 御用納めの喧騒が駅前を包み込み、街は一気に「数へ日」の熱を帯びていた。


板橋の駅前。馴染みの魚屋の店先には、寒風に負けない威勢の良い声が響いている。 「さあ、今日のは最高だよ! 中トロも脂が乗ってる!」 紗理奈は、ショーケースの中に並んだ特製のお寿司を見つめた。一つ千五百円。かつての彼女なら、三回は素通りして、結局はスーパーの五百円のパックを探したであろう贅沢品だ。


「これ、三つください」 「はいよ! お姉さん、帰省かい? 気をつけてな!」


手渡された袋は、ずっしりと重かった。 一つ千五百円の、命の輝き。それが三つ。 六億円からすれば砂粒のような金額なのに、手に伝わるその重みは、どんな高級ブランドのバッグよりも誇らしかった。


「……今夜、帰るからね」


紗理奈は、胸の内でそっと呟いた。 鞄の底には、白い封筒が入っている。母へのお小遣い、十万円。 野崎先生との勉強を経て、紗理奈が決めた一つの形だ。一気に数千万を渡して人生を狂わせるのではなく、母が「ちょっと贅沢な化粧品を買える」「友達と気兼ねなくランチに行ける」、そんな手の届く幸せを、継続して贈ること。


「己を生かし、他を生かせ。……か」


それは、先生が教えてくれた言葉だ。 自分を犠牲にするのでもなく、金をばら撒いて相手をダメにするのでもない。 まず自分が正しく生きるための基盤を作り、その余熱で、大切な人の人生を温める。 紗理奈にとって、その基盤……礎(いしずえ)は、間違いなくあの古びた実家にいる両親だった。


電車が郊外へ向かうにつれ、車窓の景色は板橋のビル群から、深い闇が広がる田園風景へと変わっていく。 隙間風の入る実家の扉を開けると、そこには「温め酒」を火にかけたような、どこか懐かしく、少しだけ埃っぽい家の匂いがあった。


「ただいま」


「あら、紗理奈! 連絡もなしに。……あらあら、お寿司なんて! こんな高いもの、どうしたの?」


母が、魚屋の包みを見て目を丸くする。台所からは、父がテレビの音を小さくして顔を出した。 「なんだ、ボーナスでも出たのか?」


「うふふ、そう。今年、ちょっと頑張ったから。……ほら、お父さんもお母さんも、鮮度が落ちないうちに食べよう」


三人は、小さな食卓を囲んだ。 プラスチックの蓋を開けると、ツンとした酢飯の香りと、新鮮な魚介の瑞々しい匂いが広がった。


「美味しいね……。紗理奈、あんた、本当に無理してない?」 母が、中トロを口に運びながら、心配そうに覗き込んでくる。 「大丈夫だよ。ちゃんと食べて、勉強もしてるから。……これ、お母さんにお小遣い。一年の感謝」


差し出された封筒を見て、母は一瞬固まった。 「……十万円!? ちょ、ちょっと、多すぎるわよ。あんた、変なことに巻き込まれてないわよね?」


「やだ、失礼だなあ。……いいの。私、お金の勉強を始めたんだよ。これは、私が自分の力で『回せる』って決めたお金。だから、使って。お父さんと旅行の計画立ててもいいし、ずっと欲しがってたクリーム買ってもいいし」


母は、封筒と紗理奈の顔を交互に見て、やがて鼻の頭を赤くした。 「……ありがとう。大切に、使うわね。……あんた、立派になったわねえ」


その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。 六億円を持っているから立派なのではない。 六億円を持っていながら、自分を見失わず、こうして三人の食卓で笑えている自分を、少しだけ誇らしく思えた。


「……お父さんも、これ。日本酒。いいやつだよ」 「おお、済まんな……。よし、今夜は飲むか」


父が嬉しそうに一升瓶の封を切る。 部屋には、蜜柑の皮を剥くような、甘酸っぱくて温かな空気が満ちていった。 窓の外では、冬の「雪」を予感させる冷たい風が吹いているが、この古い家の中だけは、確かな熱が灯っている。


(この場所が、私の始まりだったんだ)


どんなに巨万の富を得ても、この十万円を喜んでくれる母の笑顔や、お寿司の一片を惜しむように食べる父の姿以上に、価値のあるものは存在しない。 「真鴨」が冷たい水面で羽を休めるように。 紗理奈は今、深い安らぎの中にいた。


「ねえ、紗理奈。来年はどんな年にしたいの?」 母が、蜜柑を差し出しながら聞いた。


「……私、学校に行くよ。もっと勉強して、みんなが安心して老後を過ごせる場所を、自分の手で作りたいんだ。……お金を『武器』にしてね」


「難しいことは分からないけど。……あんたが決めたことなら、母さんは応援するよ」


紗理奈は、蜜柑を一口食べた。 甘くて、酸っぱい。 一年前、一人で震えながら食べたあの蜜柑と同じ味。 けれど、今の彼女の心には、もう一ミリの恐怖もなかった。


「……さて。明日も早いし、今夜はゆっくり休もうかな」


板橋の空の下で一人で戦う日々も、孤独ではなかった。 この礎がある限り。 紗理奈は、両親の笑い声を子守唄に、深い、深い眠りへと落ちていった。 「年歩む」足音が、どこか遠くで、希望の鐘のように響いていた。


【完 ―― 幸せの履歴書】


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『6億円の介護士 ―24歳、紗理奈のお金の履歴書―』 春秋花壇 @mai5000jp

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