第十話:残高六億円、私は私
ご指摘いただいた整合性と、これまでの物語の核である「沈黙」の重みを反映し、紗理奈の二十五歳の誕生日を舞台にした最終話の決定稿を執筆しました。
第十話:残高六億円、私は私
十二月二十七日。 一年前、人生が「バグった」あの日と同じ、透き通るような青空が板橋の街に広がっていた。
二十五歳の誕生日。 紗理奈は、アパートの狭いキッチンで、自分自身へのささやかな贈り物として一杯のほうじ茶を啜っていた。少しだけ良い茶葉。湯呑みから立ち上る湯気が、冬の低い光に透けて、螺旋を描きながら消えていく。
手元にあるのは、一通の合格通知と、新しく書き直した履歴書だ。 四月からは、社会福祉と経営学を専門的に学ぶための学校へ通うことが決まっている。 六億円という名の巨大な種火を、いかにして「低所得者向けケアハウス」という実りある畑に変えるか。そのための、自分なりの第一歩。
「……一年前は、あんなに震えてたのにね」
紗理奈はふっと笑い、引き出しから一冊の通帳を取り出した。 記帳された残高は、五億八千万。
あの「百万円の無駄遣い実験」で使った分を除けば、残りの一千九百万円ほどは、彼女がこの一年で「自分の生きる場所を整えるため」に動かしたお金だった。専門学校の入学金と学費、設立予定の施設の調査費用や専門家への相談料。そして、地方で暮らす母の将来のために、自分の名前を伏せて設立した信託基金。 自分のために使ったのは、あの日のコロッケと、今日の少し高い茶葉くらいだ。彼女の生活は四畳半のままだが、その内側には、知識という名の目に見えない財産が積み上がっていた。
「紗理奈ちゃん、いる?」
扉を叩く音と共に、真由が顔を出した。 彼女は今、別の介護施設で元気に働いている。腕には、いつものように「九年母(くねんぼ)」の袋を抱えていた。
「誕生日おめでとう! はい、お裾分け。実家から送ってきたの」
「真由。……ありがとう、嬉しい」
真由は部屋に入るなり、キョロキョロと辺りを見回した。 「あんた、本当に生活変わんないね。急に仕事辞めて勉強なんて始めるからさ、実はあの時のロト、一等でも当たったんじゃないかって疑ってたんだけど。 ……その質素な部屋を見てると、私の考えすぎみたいね」
真由は冗談めかしてケラケラと笑った。 その屈託のない笑顔が、紗理奈には眩しかった。真由は、今も手取り十八万円の世界で、懸命に、そして真っ当に生きている。
「ふふ、そんなに当たってたら、今頃ハワイにでも行ってるよ。……でも、私にはここが丁度いいんだもん。二十パーセント引きの惣菜を狙うスリルがないと、生きてる気がしないっていうか」
「あはは! 相変わらずだね。でも、勉強頑張りなよ。あんたが自分の施設を作ったら、私、一番に面接行くから」
紗理奈は、心臓の鼓動を悟られないよう、穏やかに微笑み返した。 嘘をついているという罪悪感は、もうなかった。 真由とこうして蜜柑を分け合い、笑い合える「対等な関係」を守るためには、この六億円という秘密は、一生墓場まで持っていかなければならない。 それが、お金の勉強を通じて紗理奈が学んだ、**「一番大切な、愛のための沈黙」**だった。
真由が帰ったあと、紗理奈は一人、こたつに入って最後の一粒の「蜜柑」を手に取った。 指先をオレンジ色に染めながら、皮を剥く。 プシュッ、と弾ける果汁の香りが、冬の乾燥した空気を瑞々しく塗り替えていく。 その香りは、あの聖夜の翌朝に感じた「恐怖」ではなく、今ここに自分が生きているという「実感」を連れてきた。
(お金の勉強は、一生続くんだと思う)
野崎先生が言ったように、お金は人格の鏡だ。 自分が何を望み、何を恐れ、誰を愛しているのか。 六億円という巨大な鏡を前にして、紗理奈はこの一年、誰よりも深く、自分自身の醜さと向き合い、そして不器用な強さを見つけ出してきた。
「真鴨」が冷たい水面の下で足を動かし続けるように。 「鷹」が孤独に、しかし高く空を舞うように。 私は、私という人間のままで、この数字を飼い慣らしてみせる。
彼女は、最後の一房を口に放り込み、ゆっくりと立ち上がった。 窓の外、板橋の空には、夕闇が静かに降りてきていた。 「霜」を孕んだ風が、火照った頬に心地よい。
「……さて」
彼女は、使い古した財布を握りしめた。 商店街へ向かう足取りは、一年前よりずっと、軽やかで確かだった。
スーパーの入り口。 いつものように、黄色いシールを待つ人だかりができている。 けれど、紗理奈は今日、その群れを通り過ぎ、鮮魚コーナーの中央へと向かった。
「……たまには、定価の刺身でもいいよね」
六億円の当せん者としてではなく。 二十五歳になった、一人の「小林紗理奈」としての、ささやかなお祝い。 彼女の手が、一番新鮮な琥珀色の身を湛えた、定価のパックへと伸びた。
「年歩む」夜の気配。 板橋の空には、冬の月が、どこまでも澄んだ光を投げかけていた。 その光は、過去の迷いを洗い流し、まだ見ぬ明日への道を、静かに、優しく照らしていた。
【『6億円の介護士 ―24歳、紗理奈のお金の履歴書―』全十話・完】
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