エピローグ: 追憶の果てに
誠司が店を出ると、街を濡らしていた雨は上がり、雲の切れ間から冷ややかな月光が路地裏を照らしていた。
脳内には、灰色の記憶が再びこびりついている。自分が加代子を絶望させ、最期に突き放したという、最低な記録。
だが、不思議だった。店に入る前、あんなに彼を苛んでいた息苦しさは、綺麗に消えていた。
真実の映像は、灰色の瓶を脳に戻した瞬間に霧散してしまったはずだ。今の誠司には、加代子が店とどんな契約をしたか、詳しい内容はもう思い出せない。
けれど、心の一番深い場所に、消えない温かさが沈殿している。
根拠のない、けれど揺るぎない確信だけが、魂に刻まれていた。
それから、季節がひとつ巡った。
誠司の暮らしは、寂しい老後のように見えたかもしれない。だが、今の彼の生活には、以前にはなかった「静かな安らぎ」があった。
朝、仏壇の水を替える。加代子の遺影に向かって「おはよう」と声をかける。そのたびに、胸の奥にある「罪の記憶」が疼く。だがその痛みは、まるで彼女が「ここにいるよ」と合図を送ってくれているかのように優しかった。
ある冬の寒い朝、誠司は台所でふと立ち尽くした。
冷えた指先で湯呑みを持った瞬間、かつて加代子が淹れてくれた、熱すぎるほどのほうじ茶の香りが鼻腔をくすぐった気がしたのだ。
今の彼の記憶では、加代子との最後は憎しみ合って終わったはずだ。それなのに、ふとした瞬間に身体が覚えている「愛されていた感触」が、頭の中の嘘を静かに否定する。
誠司は、その矛盾を丸ごと愛することにした。
頭が覚えている「罪」と、魂が覚えている「愛」。その両方を抱えて生きることこそが、加代子という女性を、この世界で最も深く愛し抜くことだと悟ったのだ。
───。
「……加代子。今日も、謝りに来たよ。俺は本当に、最低の夫だ」
傾きかけた冬の陽光が、墓石を長く引き摺る影を作っている。誠司は冷たくなった石を丁寧に拭き上げ、深く頭を下げた。
彼は、心のどこかで分かっている。自分を責めるこの痛みさえ、彼女が自分を孤独から守るために遺してくれた「贈り物」であることを。
だから彼は、彼女が望んだ「罪人の夫」であり続ける。真実を忘れても、その温もりだけを道標にして。
誠司が墓所を後にし、家路につく頃には、空は濃藍に染まり始めていた。
誠司は今日も、「罪」を抱きしめて、彼女と共に生きている。
たとえその記憶が偽りであっても、彼が流す涙だけは、何よりも真実だった。
――──。
追憶堂。
薄暗い店内で、店主のクロが棚を見つめ、静かに口を開く。
「人間というのは、実に業が深い。真実という救済を突きつけられながら、あえて嘘の地獄に留まることで、誰よりも深い愛に浸るとは」
クロは、黄金色の瓶から、別の空の瓶へと光を移し替えた。
加代子が支払った対価は、自らの『誠司を愛していた記憶』そのものだ。
「夫には自分を殺したという罪を。自分には愛を捨てて逝くという罰を。……これほど調和の取れた商談は、滅多にありません」
クロは、加代子の愛の記憶が入った瓶を、非売品コーナーへと並べる。その瓶は、周囲の憎悪や後悔を照らすように、誰よりも強く輝き続けていた。
クロは、眼鏡の縁を指先で押し上げ、口角をわずかに歪めた。その瞳には、救済を語る者特有の冷徹な愉悦が宿っている。
「愛とは、時に死よりも残酷な呪い。……佐藤様。あなたは今、彼女の魂という檻に、自ら望んで鍵をかけられた。その罪の重みが、いつしかあなたの骨まで軋ませ、最後の一滴まで食い尽くすその日まで。……どうぞ、末永くお幸せに」
──追憶堂。
それは、人々の「思い出」を買い取る古い骨董屋。
今宵は、あなたのご来店を待っているかもしれません。
追憶堂 ─ 忘却の対価 ─ 空飛ぶチキンと愉快な仲間達 @sabanomisoni0730
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