第四章: 偽りの永劫
黄金色の光が蓄音機のホーンから霧散し、店内に再び重苦しい沈黙が降りた。
誠司は、自分が座っている椅子の手すりを、指が白くなるほど強く握りしめていた。目から溢れる涙は、止まるどころか熱を帯び、火傷のように頬を伝う。
「……なんだ、それは。俺がやってきたことは、あいつにとって、そんなに重荷だったというのか」
誠司の声は、自分のものとは思えないほど掠れ、震えていた。
「……なんだよ、それは! 加代子……お前、なんてことをしてくれたんだ!」
誠司の脳裏には、加代子と過ごした四十年近い歳月が、走馬灯のように駆け巡っていた。
二十代で出会い、不器用なプロポーズをし、小さなアパートで始まった生活。加代子は、誠司が仕事で失敗して帰った夜、何も聞かずにただ好物の味噌汁を温め直してくれるような女だった。彼女の優しさは、常に静かで、それでいて揺るぎない芯があった。
そんな彼女が、人生の終焉において、これほどまでに激しく、利己的で、残酷な愛を自分に叩きつけてくるとは。
「クロさん。彼女は……加代子は、自分の名誉さえも、あんたに売ったというのか。あんなに誇り高い女が、自分を罵り、夫を罵倒する醜い姿のままでいいと、そう言ったのか」
クロは、静かに頷いた。
「ええ。彼女は『私を悪女にしてください』と笑いました。あなたが彼女の遺影を直視できず、背中を丸めて『すまなかった』と泣くたびに、あなたの心には彼女という楔(くさび)が深く打ち込まれる。彼女は、あなたの愛を、罪悪感という形の不滅なものへと昇華させたのです。彼女は、あなたに忘れられることが、死ぬことよりも怖かったのでしょう」
「……あいつらしい。……あいつらしいよ。本当に、バカな女だ」
誠司は、膝に顔を埋めた。
彼は思い出した。加代子がまだ元気だった頃、二人で観た古い映画のことを。愛する男を忘れてしまう女の悲劇を観て、加代子はポツリと言ったのだ。
『ねえ、お父さん。もし私があなたのことを忘れても、あなたは私を忘れないでね。たとえ、私があなたを嫌いになったふりをしても、それは嘘だと思って、ずっと捕まえていてね』
あの時の冗談のような言葉が、まさかこんな形で、記憶の書き換えという狂気じみた献身として実行されるとは。
「さて、佐藤様。選択の時です」
クロの声が、死神の宣告のように響く。
「今、ここに二つの瓶があります。一つは、あなたが持ってきた、あの悍ましい『偽りの罪』。もう一つは、今しがたお見せした、あなたの尊厳を証明する『真実の献身』。……あなたがもし真実を選べば、明日からのあなたの心は、羽が生えたように軽くなるでしょう。夜中に跳ね起きることも、自分の手を呪うこともなくなる。あなたは、『病の妻を最後まで支え抜いた立派な夫』として、余生を謳歌できるのです」
誠司は、黄金色の瓶を見つめた。
その瓶の中には、誠司が報われるべきすべてが詰まっている。自分の潔白。自分の誇り。そして、加代子が本当は自分を愛し続けていたという、甘やかな安心感。
「だが、佐藤様。一つだけお伝えしておかなければならないことがあります」
クロが銀縁の眼鏡の奥で、怜悧な光を放った。
「もしあなたが真実を選び、潔白な夫に戻ったなら……この黄金色の瓶の中に眠る、加代子様の『本当の願い』は、その瞬間に消滅します。彼女が自らを汚してまであなたに遺そうとした、あの『呪いという名の愛』は、どこにも居場所を失い、霧となって消えるのです。あなたは、彼女の最後のラブレターを、破り捨てることができますか?」
誠司の胸を、鋭い痛みが貫いた。
加代子は、自分を救うために嘘をついたのではない。自分を「自分」という存在から切り離させないために、あえて泥を被ったのだ。もし今、自分が「俺は悪くない、俺は頑張ったんだ」と胸を張ってしまったら、加代子が最期に命を懸けて遺したあの残酷な嘘は、ただの無駄死にになってしまう。
誠司は、震える手で、灰色の瓶に触れた。
汚れて、濁って、自分を苛み続けてきた、あの忌まわしい記憶の瓶。
「……自由になんて、ならなくていい」
誠司の声に、確かな力が戻った。
「六十八年生きてきて、ようやく分かったよ。人は、誰かのために苦しむことでしか、その人を愛していると証明できないこともあるんだ。……加代子が俺にこの重荷を背負わせたいと願ったのなら、俺は一生、これを持って歩く。あいつに後ろ指を刺されながら、あいつに謝り続けながら……死ぬまで、あいつを忘れないでいるよ。それが、俺とあいつが最期に結んだ、唯一の約束だ」
誠司は、黄金色の瓶をクロに押し返した。
「真実は、あんたが持っていればいい。……俺には、この『汚れ物』がお似合いだ。これが、あいつが俺に遺した、唯一の形見なんだから」
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