第3話 ショートカットの魔法

「待ってください、ミフユさん!」


 美術館の広い空間に、僕の声が反響した。

 ミフユさんの動きがピタリと止まる。

 彼はゆっくりと首だけを回し、琥珀色の瞳で僕を睨みつけた。


「……あ? 止めんのか、ヨータ。このままじゃ高見のバカが、あいつに取り殺されるぞ」


「違います! 殺そうとしてるんじゃない……彼女は、苦しんでるんです!」


 僕は震える指で、怪異を指差した。

 その時、僕の肋骨が、ギシギシと悲鳴を上げた気がした。

 コルセットなんてしていないのに、息が苦しい。

 これは、彼女の痛みだ。僕が勝手に感じている、彼女の叫びだ。


「見てください。彼女は、飾り立ててほしいんじゃない……もう、疲れてるんです! 重たいドレスも、宝石も、もういらないって泣いてるんです!」


 高見さんみたいに、もっと飾り立てることでもない。

 ミフユさんみたいに、力尽くで壊すことでもない。

 もっと単純なことだ。


「壊さないでください。……ただ、脱がせてあげればいいだけなんです!」


 叫んだ瞬間、僕の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。

 それは確信だった。

 彼女を救う方法は、これしかないという、根拠のない、けれど揺るぎない確信。

 その感覚が、僕の中から溢れ出して——どこかに流れていくような気がした。


 ミフユさんが、ぴくりと肩を震わせた。


「……なんだ、今の」


 彼は眉をひそめ、自分の胸元を押さえた。

 僕の確信が、彼に伝わった?

 さっき美術館に入った時にも、何か不思議な感覚があった。けれど、こんなにはっきりと「流れていく」感覚は初めてだ。

 あの「混線」が、また起きたのだろうか。いや、今のは、もっと強かった気がする。


 ミフユさんは、きょとんとした顔をした。

 それから怪異を見やり、高見さんを見やり、最後に僕を見た。

 その顔に、ニヤリと凶悪な笑みが浮かぶ。


「……へえ」


 頭の中のノイズが消えた。

 代わりに、パチンとスイッチが切り替わるような、小気味良い感覚が走る。


「なるほどな。壊すんじゃなくて、脱がせるってか」


 ミフユさんは、再びポケットからスマホを取り出した。

 さっきまでの重苦しい殺気は綺麗に消え失せている。今の彼に漂っているのは、職人が面白い素材を見つけた時のような、不敵な気配だ。


「おいヨータ、こっち来い。特等席で見せてやる」


 手招きされ、僕はミフユさんの隣に立った。

 目の前には、まだワイヤーに縛られた貴婦人が蠢いている。

 でも、もう怖くなかった。

 僕には、やるべきことがある。


「よく見とけよ。お前のその目で、あいつを変えてやれ」


 ミフユさんの指が、画面の上で踊り始めた。

 ミフユさんの指先は、魔法の手みたいだった。

 迷いなく、大胆に。


 まずは『トリミング』ツール。

 指先で、画面いっぱいに広がっていた重厚なドレスの裾を、バッサリと切り落とす。

 地面を引きずるほど長かったベルベットの布地が消滅し、足首が露わになる。

 次に『消しゴム』ツール。

 胴体を締め上げていたコルセットを、ゴシゴシと擦るように消していく。

 高見さんが叫んだ。


「何をする気だ!? そんなことをしたら、彼女の……『貴婦人らしさ』が壊れてしまう!」


 床に倒れ込んだまま手を伸ばす高見さんを、ミフユさんは一瞥もしない。

 僕も、何も言わなかった。

 ただ、画面を見つめ続けた。

 ミフユさんの指先が生み出す「新しい現実」を、瞬きもせずに追いかける。僕が見ることで、その改変が現実に確定する。僕の目がトリガーなのだ。


 コルセットが消え、ドレスの上半身が消える。

 代わりにミフユさんが『ペン』ツールで描き加えたのは、シンプルな線だった。

 ゆとりのあるスラックス。

 肌触りの良さそうな、シルクのシャツ。

 足元は、窮屈なハイヒールから、歩きやすそうなフラットなローファーへ。

 線画だった服に、色を乗せていく。

 ミフユさんの私服とは違った。派手すぎず、でも洗練された、モダンなスタイル。

 そして、最後。

 ミフユさんの指が、彼女の頭部に伸びる。

 高く結い上げられ、スプレーで固められた髪の毛を、指先で弾くようにスワイプする。


 バサッ。

 画面の中で、長い髪が切り落とされたようなエフェクトが舞った。

 軽やかな、ショートボブへ。

 仕上げに、真っ白に塗りつぶされていた顔の部分に、指先でちょんちょんと点を打つ。

 淑やかな微笑み?

 いいや。

 ミフユさんが描いたのは、舌を出して「あっかんべー」をしている、茶目っ気たっぷりの表情だった。


「……よし、完成だ」


 ミフユさんが、決定ボタンをタップした。

 ピロン♪

 場違いなほどに明るい、電子音が鳴り響いた。

 その瞬間。

 カッ! と、現実の怪異が強烈な光に包まれた。

 バチンッ! バチンッ!  何かが弾け飛ぶ音が連続して響く。


 コルセットが弾け、重たいドレスが光の粒子となって霧散していく。

 高見さんが呆然と目を見開く中、光の中から現れたのは――。

 さらりとしたショートヘアを揺らし、スラックスのポケットに手を突っ込んで立つ、一人の女性だった。


 彼女は自分の短くなった髪を不思議そうに触り、それから軽く首を振った。

 まとわりつく重みは、もうどこにもない。

 彼女は軽やかにステップを踏むと、床に座り込む高見さんの前まで歩み寄った。

 そして、ニカッと笑った。

 ミフユさんが描いた通りの、あどけなく、自由な笑顔で。


 彼女はそのまま、窓から差し込む陽光に溶けるようにして、透き通っていった。

 後には、ただ爽やかな風だけが残された。

 壁に掛けられた『淑女の肖像』を見上げると、そこにはもう、誰もいなかった。

 ただの、真っ白なキャンバスだけが飾られていた。




 外に出ると、夏の湿り気を帯びた夕闘が、森の木々から滲み出していた。

 緑の匂いをたっぷりと含んだ風が、火照った頬を心地よく冷やしていく。


「……驚いたよ」


 美術館のエントランスを出てから、ずっと黙り込んでいた高見さんが、ぽつりと呟いた。


「まさか、あんな……あんな奔放な姿になるなんて」


 彼はまだ、夢を見ているような顔をしていた。

 自分の知る『美』の定義から外れたその解決法に、言葉を失っているようだ。

 けれど、その表情には恐怖も嫌悪もなく、ただ純粋な驚きと、憑き物が落ちたような安らぎがあった。


 高見さんはハッとして、自分の手を見た。

 指先には、ガラスを叩いた時の傷跡が残っている。滲んだ血は止まっているが、痛々しい赤色が白い肌に残っていた。

 彼はバツが悪そうに顔を覆った。


「すまない……取り乱してしまって。みっともないところを見せたね」


 完璧主義者の彼が、自身の醜態を恥じ、弱さを見せる瞬間だった。


「……僕もね、子供の頃は『男らしく』『長男らしく』とよく言われたんだ。期待に応えようと、自分を押し殺して……だから分かるつもりだったんだ。彼女の『正しくありたい』という願いが」


 高見さんは遠い目をして、誰もいない森の奥を見つめた。

 そこには、かつて失った弟の面影があるのかもしれない。


「でも……いつの間にか、僕も同じことをしていたのかもしれないな。救うつもりで、逆に彼女を『らしさ』の檻に閉じ込めていたんだね」


 ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる言葉は、懺悔のようだった。

 ミフユさんは、あえて何も言わなかった。

 ただ、ポケットから取り出した煙草をくわえようとして、思い出したようにやめた。


「……アンタの理想も結構だが、押し付けんなよ」


 ぶっきらぼうな声だった。


「女も男も、呼吸しやすいのが一番だ」


 その言葉に、高見さんは目を丸くし、それから力なく笑った。


「……そうだね。本当に、その通りだ


 彼は自分の指先の傷跡を、愛おしむように、そして哀しげに撫でた。


「弟も……こうやって自分を傷つけていたのかもしれないな。僕の思う『完璧な安全』や『美しさ』が、あの子を窒息させていたとしたら……僕はまた、間違えそうになっていたわけだ」


 ミフユさんと僕は顔を見合わせる。

 ミフユさんは何も言わず、ただ高見さんの肩をポンと乱暴に叩いた。

 慰めの言葉なんて、ミフユさんは言わない。でも、その乱暴な手つきには、不器用な優しさが滲んでいた。


「……似合ってましたね、ショートカット」


 僕は、風に揺れる街路樹を見上げて言った。

 さっき見た、あの笑顔が忘れられない。

 重たいドレスを脱ぎ捨てて、軽やかに笑った彼女。

 それは、ただの絵の中の話じゃない気がした。

 ミフユさんが鼻を鳴らす。


「……ま、お前のその冴えないスーツも、そろそろ着替えたらどうだ?」


 意地悪な指摘に、僕は苦笑して自分の服を見下ろした。

 量産型の、無難なスーツ。  誰からも文句を言われないように、目立たないように選んだ鎧。


「……そうですね」


 少しだけ、そう思えるようになっていた。

 数日前の事件も、今回も――僕の言葉が、誰かを救えた。

 なら、自分自身のことも、少しくらいは変えていいのかもしれない。

 完璧じゃなくていい。誰かの理想通りじゃなくていい。

 ただ、自分が息をしやすいように。


「今度、一緒に選んでもらえませんか」


 そう言うと、ミフユさんは一瞬きょとんとして、それからニヤリと笑った。

 夕闇の中で、琥珀色の瞳がいたずらっぽく輝く。


「……趣味悪いの選んでやるよ」


 僕たち三人の足取りは、来る時よりもずっと軽かった。

 振り返ると、『ブラン・エ・ノワール』の白い建物が、夕日に染まって少しだけ温かみを帯びているように見えた。


――完――

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ショートカットの魔法、あるいは二人がかりのレタッチ 小紫-こむらさきー @violetsnake206

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