第2話 淑女の肖像
最奥の展示室は、『白の回廊』と呼ばれていた。
その名の通り、壁も床も天井も、すべてが白一色。
照明すら隠され、影のできない特殊な設計になっているという。
その中央。
何もない空間に、一点だけ飾られた絵画があった。
重厚なアンティークの額縁に収められた、等身大の肖像画。
描かれているのは、十九世紀頃の貴婦人だろうか。
深紅のベルベットのドレスは、フリルやレースが幾重にも重なり、見るからに重そうだ。腰はコルセットできつく締め上げられ、細い首には真珠のネックレスが何連にも巻かれている。
髪は複雑に編み込まれ、高く結い上げられている。
写実的で、繊細な筆致。布の質感や宝石の輝きまでが、手に取るように分かる。
けれど、顔だけが、なかった。
未完成で空白なのではない。
そこには、分厚い白の絵具が、暴力的な筆致で塗りたくられていたのだ。
下地が乾く前に何度も塗り重ねたのだろうか、表面はひび割れ、その隙間から下の暗い色が覗いている。
それがまるで、音のない悲鳴を上げている口のように見えて、僕は思わず後ずさった。
『……もっと淑やかに』
脳内に、声が響いた。
耳からではない。頭蓋骨の内側から、直接響いてくるような声。
『足を開くな』『髪が乱れてるわよ』『あなたは女の子なんだから』
特定の誰かの声ではない。
学校の先生、近所のおばさん、母さん……僕がこれまでの人生で聞いてきた、無数の「常識」が混ざり合った不協和音。
女性だけに向けられた言葉じゃない。僕自身も、似たような言葉で縛られてきた。
それは、僕の罪悪感を的確に刺激した。
僕は無意識に背筋を伸ばし、足を揃えていた。
ちゃんとしなきゃ。みっともない真似をしてはいけない。笑ってはいけない。
そんな強迫観念が、鎖のように手足を縛り付ける。
「……美しい」
隣で、高見さんが陶酔したように呟いた。
彼は絵画の前に歩み寄ると、恋人を見るような目で見つめた。
「この気品、この慎ましさこそが至高だ。……彼女は、完璧であろうとして、自らの顔すら消してしまったのかもしれない」
その瞬間、場の空気が一変した。
ズズズ……と、空間が歪むような重圧。
高見さんの周囲から、いつもとは違う空気が漂ってくる。普段なら、彼のそばにいると少しだけ楽になる。頭痛が和らぐような、穏やかな感覚がある。けれど今は、その空気が逆に重く、息苦しく感じられる。
まるで、高見さんの「理想への執着」が、絵画に宿る怪異の「強迫観念」と共鳴し、増幅させているような――。
「……うっ」
息が詰まる。
物理的に首を絞められているような圧迫感。
「……趣味の悪いボンデージだ」
ミフユさんが、吐き捨てるように言った。
彼は懐からスマホを取り出し、素早くカメラを起動する。
僕も見えている不気味なものから逃げたくて、その画面を覗き込んだ。
そこに映し出されていたのは、優雅に座っている貴婦人ではなかった。
無数の、細く鋭い糸。
あるいは、透明なワイヤーのようなもの。
それが、彼女の手足を、胴体を、首を、何重にもがんじがらめに縛り付けている。
コルセットは肋骨が折れそうなほど食い込み、ネックレスは首輪のように彼女を繋いでいる。
彼女は座っているのではなく、無理やりポーズを固定されているのだ。
「……優雅なこって。ガチガチに固めて、息もできねえじゃねえか」
ミフユさんは不快そうに顔をしかめると、画面上のメニューをタップした。
「……邪魔だな」
彼は躊躇なく、『除去』ツールを選択し、画面上のワイヤーをなぞった。
彼女を縛り付けている糸を消そうとしている。いつものように、ポップなエフェクトと共に糸が消える――はずだった。
ジジッ!
不快なノイズ音が走り、画面が激しく明滅した。
「……ッ!?」
ミフユさんの指が弾かれる。
スマホが異常なほどの熱を帯びているのが、そばにいる僕にも伝わってきた。
画面上の加工はノイズにかき消され、アプリが強制終了してホーム画面に戻されてしまう。
「……チッ。頑固な『常識』だな」
ミフユさんは赤く腫れた指先を振り、忌々しげに絵画を睨みつけた。
オーナーである高見さんの「こうあるべきだ」という強い美意識が、怪異を守る強固な盾となって、僕たちの介入を拒絶しているみたいだった。
そして、拒絶されたことによる反動か、絵画の白く塗りつぶされた顔の部分から、どす黒い靄が溢れ出し始めた。
どす黒い靄は、瞬く間に人の形を成した。
絵画の縁に手をかけ、這い出てきたのは、あの貴婦人だった。
けれど、絵の中で見たような優雅さは微塵もない。
ギギ、ギギギ……。
動くたびに、錆びついた蝶番のような音が響く。
コルセットに締め上げられた胴体は、呼吸をするたびに軋み、何重にも巻かれたネックレスが鎖のようにカチャカチャと鳴る。
彼女は、苦しんでいるように見えた。
自分を縛り付ける「美しさ」という名の重石に耐えきれず、それでも「完璧」であろうとして、崩れ落ちそうになる体を必死に支えている。
そして、彼女は高見さんに向かって、両手を伸ばした。
その唇が、かすかに動く。
『……私を、完成させて』
声は聞こえない。けれど、その口の動きは読み取れた。
『もっと締めて。もっと飾って。完璧な私にして』
それは願いというより、強迫観念の悲鳴だった。
「……ああ、なんてことだ」
高見さんが、ふらりと前に出た。
その瞳は、怪異への恐怖ではなく、狂信的な憐憫で濡れていた。
「まだ足りないのか。そうか、まだ君は完成していないんだね」
彼は怪異に手を伸ばしかけ、ふと視線を彷徨わせた。その目が、部屋の隅にあるガラスケースに吸い寄せられる。
そこには、十九世紀のアンティーク・ティアラが展示されていた。
「待っていてくれ。今、それを出してあげるから……!」
高見さんはケースに駆け寄ると、強化ガラスに爪を立てた。
開くはずのないガラスを、こじ開けようとする。爪が反り返り、指先から血が滲んでも、彼は気づかない。
「これさえあれば、君はもっと輝ける。誰よりも美しくなれる……!」
大きな肉のぶつかる音が響く。
高見さんは、遂に拳でガラスを叩き始めていた。その背中は、痛々しいほどに小さく見えた。
彼は本気だ。本気で彼女を救おうとして、逆に彼女を飾るための「檻」を増やそうとしている。
その必死さが、僕にはひどく滑稽で――そして、泣きたくなるほど悲しく見えた。
「……寝言は寝て言え、ナルシスト」
低い声と共に、鋭い蹴りが高見さんのわき腹に突き刺さった。
「ぐっ!?」
高見さんが無様に床を転がる。
その位置に立っていたのは、いつの間にか移動していたミフユさんだった。
彼は血のついたガラスケースを一瞥し、心底うんざりしたように鼻を鳴らした。
「……ったく。どいつもこいつも、自分の『善意』に酔ってやがる」
ミフユさんは、スマホをスラックスのポケットに乱暴に突っ込んだ。
強制終了してホーム画面に戻された画面が、ポケットの中で虚しく光っている。
高見さんの執着が盾となって、加工を弾き返してしまう。何度やっても同じだ。
いつもなら、すぐに次の手を考えるはずだ。
けれど、彼は手ぶらになった両手をだらりと下げ、不気味に蠢いている貴婦人に向き直った。
その背中から、今まで感じたことのない異質な空気が立ち昇る。
冷たい、背筋が凍るような、純粋な殺気。
頭の中に、ザラザラとしたノイズが走る。
ミフユさんの苛立ちと、氷のような冷徹さが、直接胸に流れ込んでくる。
スマホでの加工は、ミフユさんが精神衛生上やるだけで完結する。僕が見ることで初めて霊に影響を及ぼす。けれど、高見さんの執着が盾となって、僕が加工を見ても現実に反映されない。なら、スマホを使わずに直接やるしかない――そう判断したのだろう。
彼は右手をゆっくりと持ち上げた。
振り返った横顔には、初めて会った日に見た、あの鋭い目があった。
仕事中に時折見せる、対象を「物」として見ている時の目。
そこに慈悲も躊躇いもない、ただ処理するだけの目。
いつものようなスマホ越しの「加工」じゃない。
もっと原始的で、取り返しのつかない――あの怪異を、苦しみごと、存在ごと、力尽くで消そうとしている。
「……あ」
ダメだ、と思った。
彼女は、暴れたいわけじゃない。
ただ、息がしたいだけなんだ。
重たいドレスを脱いで、締め付けられるコルセットを外して、ただの人間として呼吸がしたいだけなんだ。
それを力尽くで壊してしまうのは、高見さんが彼女を「理想」に閉じ込めるのと、何が違うと言うんだ。
ミフユさんが一歩、踏み出す。
その足が床につく直前、僕は叫んでいた。
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