鯉は泳ぐ

夏乃あめ

花と鯉

 隣の家はいつも花に満ちあふれていた。



「なーちゃん、遊ぼう」

 そう声を掛けると、パタパタと足音が聞こえる。

「いいよ。今日は何する?」

 長い艶やかな黒髪に、黒曜石の様な瞳。隣の家の幼馴染の撫子はいつものようにニコニコとほほ笑んでいた。

「鯉にエサをあげたい」

 なーちゃんの家には、大きな池があって、色とりどりの錦鯉が悠々と泳いでいる。オジさんが飼っているという話を聞いた事があったけれど、私はその人の姿をみたことがなかった。

 なーちゃんとは学校も違っていたけれど、仲良くやっていたと思っていた。



「なーちゃんのお父さんが亡くなったって」



 母の口からその話を聞いた。




「軍人さんだから覚悟はしていらしたと思うけどやるせないわね……」




 この国は隣国の“王国”と呼ばれる所とずっと戦ってきていた。首都ここから遠い場所の話で、私には関係のない話。いつも甘い物を食べて、お芝居を楽しんで、他愛もない話で1日が終わる。

 学校では誰がどこにお嫁にいった、誰と婚約をしたという事ばかり話していた。きらきら輝いて、楽しいことばかりの私は隣の家の不幸事もどうでもよかった。

 今や盛りの花は自分に酔っていた。



 隣の家の花が次の季節に変わった頃、声を掛けてみた。



「なーちゃん」



 厳しい屋敷からはいつもの軽やかな足音は聞こえて来なかった。代わりにやってきたのは、顔見知りになっていたお手伝いさん。


「……お嬢様は暫くお戻りになりません」



 暗い表情。面白みのない返事。私はただ遊んで、甘い物を食べようと声をかけたのに、なーちゃんはどこに行ったのだろう。お嫁にでも行ったのだろう。そんな事を考えていた。



 隣の家は相変わらず、四季折々の花が咲いていた。



「貴女にもそろそろ縁談があるころね」



 女学生からお嫁さんになる。この国では当たり前の流れ。私は何も思わない。自由を満喫した後は、嫁いだ先の人間になり、その家に尽くすのが美徳。


 それが幸せだから、何も考えなくていい。



 ある日、隣の家に車が止まっていた。黒塗りの立派な車。

 なーちゃんが嫁ぎ先から帰ったのかと母に尋ねると意外な言葉が返ってきた。



「撫子ちゃんは、お父さんがお亡くなりになられた後に軍大学に入られたそうよ。陛下の親戚筋になるからと自分で選ばれたんだって。なにもお父さんと同じ軍人にならなくても、あんな綺麗で立派なお家だから、引く手数多だろうに。お兄さんも戦死なされたのに、撫子ちゃんまで」



 私には縁遠い話過ぎてピンと来ない。なーちゃんが血の匂いがする死装束を、好き好んでまとわなくてもいいのに。


 舞踏会で煌びやかなドレスを着て踊る。そう、なーちゃんの家の錦鯉みたいに艶やかに優雅に。



 甘いショコラに、眩しいシャンデリア。永遠に続くようなワルツ。

 ここは美しくて──




 空気が揺れた。

 硝子が赤く砕け、悲鳴が響く。



 華やかな場所は一瞬にして紅蓮に包み込まれる。

 初めて煙の臭いを嗅いだ。

 乾燥して、不快としか思えない。



 ああ、この国は戦いの最中だった。



 ひりつく肌、砂で汚れるドレス。袖を通したばかりなのに。何時しか靴は脱げて、小石が刺さった足で家に向かった。



 家に戻れば、砂糖菓子のような生活があるから。

 私は何も考えなくていいから。




 破片と炎が私を迎えてくれた。

 愛しい私の屋敷の崩れる様を眺めるしかない。



 両親が泣き崩れていた。先祖代々の家宝もピアノも何もかもが木っ端微塵になっている。



 これが戦時下という事なんだろう。



 すぐに家族で遠い山奥の別荘に疎開する事になった。何も面白みのない片田舎。それが楽しいと思っていたのに……。


 旅立つ前の夜に隣の庭に入った。ここだけは何も変わらず、凛としたまま佇んでいる。花は咲き、庭は整然としている。月明かりを映した池は煌めき、鯉の動きで波紋を描いている。



 隣も炎に包まれるだろう。



 凍りつくような銀色の光と、音のない世界で──


 池の堰を開けた。



 川に続く水の流れに乗って、次々と美しい鯉は流れていく。

 泥で濁った川へと。

 水面で揺れていた花びらと共に。



 なーちゃんと遊んだ錦鯉はいなくなった。



 なーちゃんは帰ってくるか分からない。これでいい。私たちの思い出を放っただけ。



 次の日、焼け落ちた家を後にした。



 川には白い腹を見せた魚が流れていた。花と一緒に澱みを作る。




 川は思ったより静かだった。

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