第2話:女教皇 ― 沈黙に滲むザクロの赤 ―【前編】
魔術師のいた、あの狂乱の時計工房を抜けた先。
たどり着いたのは、視界の果てまで白一色に塗り潰された、砂の回廊だった。
そこは、音という概念が死に絶えた場所だった。
風は吹いているはずなのに、空気は粘りつくように重く、一切の振動を許さない。ゆりえが一歩踏み出すたびに、砂を踏み締める「ジャリ……」という音が、まるで静かな水面に巨大な岩を投げ込んだかのように、異常な質量で鼓膜を叩く。
(……耳が、痛い)
音がないことが、これほどまでに暴力的な重圧になるとは思わなかった。自分の肺が空気を吸い込み、心臓が脈打つ音さえも、この場所では不敬なノイズのように響く。
「……ねえ、メルミ。ここ、なんなの。みんな、どこにいるの」
ゆりえは自分の声の震えに怯え、思わず自分の細い肩を抱きしめた。
半歩前を歩くメルミは、いつも通り短い尻尾を一定のリズムで振っている。その存在だけが、この色彩を失った世界で、唯一の確かな「命」としてそこにあった。
「しん、としてるわね。ねえゆり、あんたの頭の中みたいに空っぽな場所だわ。……不気味なくらい綺麗で、死体みたいに動かない」
メルミの呼ぶ「ゆり」という響きが、凍りついた回廊にわずかな亀裂を入れる。その体温だけを頼りに、ゆりえは重い足を前へ進めた。
回廊の突き当たり。光さえも屈折するような冷気の中心に、その影は座っていた。
巨大なヴェールが全身を幾重にも覆い、顔の輪郭さえも定かではない。
女教皇。
彼女は膝の上に、古びた、けれど一切の指紋もついていない重厚な書物を広げていた。一言も発さず、ただ静かに、そこにあるだけで「完璧な秩序」を体現している。
ゆりえは、彼女の前に立った瞬間、全身の血液が急速に冷えていくのを感じた。
女教皇のヴェールの奥から、無数の冷徹な視線が注がれているような気がする。
「お前は、なぜまだ生きているのか?」
「その汚れた手で、何を掴もうとしているのか?」
声なき審判が、皮膚を突き抜け、骨の髄まで侵食してくる。ゆりえは、自分が立っていることさえも許されない不浄な存在であるかのような、強烈な無価値感に襲われた。
女教皇が、ゆっくりと、儀式のような所作で書物をこちらへ向けた。
ページは曇り一つない鏡となり、ゆりえの「自責」を克明に映し出し始める。
(見たくない……やめて……)
鏡の中にいたのは、現実世界で彼女が必死に塗り潰してきた、惨めな残像だった。
誰かに謝り、自分を卑下し、透明なゴミとして振る舞うことで、ようやく居場所を確保しようとしていた、歪んだ微笑。
そして、鏡の中のゆりえが、ゆっくりと、呪詛を吐くように唇を動かした。
ゆりえが意識の深淵、鋼の鍵をかけて封印したはずの「あの日」の情景が、鏡の奥から染み出してくる。
「……ゆりえ……あなた、あの時……███……のに……!」
突如、鼓膜を裏側から掻きむしるような、激しい砂嵐ノイズが弾けた。
肝心な言葉は、不快な摩擦音にかき消され、意味を結ぶ前に霧散していく。
けれど、その「聞こえない音」は、鋭利なガラス片となってゆりえの神経を逆なでした。
ノイズは黒い泥のような文字となって鏡から溢れ出し、ゆりえの手足に、蛇のように絡みつく。
「あ……っ、やめて、言わないで……! 私は、ただ……!」
ゆりえが耳を塞ぎ、白砂の上にうずくまった、その時だ。
「フガッ、フガフガッ!! ……ペッ!」
視界の端で、メルミが女教皇の足元の「完璧に整えられた白砂」を、豪快に前足で掘り返し始めた。
静謐だった聖域に、砂煙が舞い上がる。女教皇の真っ白なヴェールに砂が飛び、冷たく張り詰めた空気が、メルミの野性的な鼻鳴らしによって台無しにされていく。
「なによ、この砂。掘っても掘っても、何も出てこないじゃない。ねえゆり、そんな『うるさい文字』なんて見てないで、こっちの砂利でも噛みなさいよ。少しは目が覚めるわよ。……お姉さんも、そんな難しい本ばかり読んでないで、外でも走ってきたら? 肩が凝るわよ、その格好」
メルミの、あまりに生理的な、あまりに不遜な振る舞い。
その「生々しい生命の音」が、ゆりえの意識をノイズの深淵から強引に引き戻した。
彼女を縛り付けていた文字の鎖が、一瞬だけ、その重みを失う。
だが、女教皇は微動だにしなかった。
彼女は砂の中から、一つの果実を差し出した。
泥にまみれ、皮が剥け、黒ずんだザクロ。
それは、ゆりえが「無かったことにしたい、醜い記憶」そのもののようだった。
女教皇の、氷のように冷徹な要求が、ゆりえの脳髄を直接叩く。
『ゆりえ。それを捨てなさい。不完全な自分を否定し、汚れなき無の中に沈みなさい』
「……捨てなきゃ。私が、こんなの持ってるから……あの日、私は……███……」
再び走る、目眩を誘うノイズ。
ゆりえの瞳から光が消え、彼女が自ら自分を消し去るための「拒絶」を選ぼうとした、その瞬間。
女教皇のヴェールが、かつてないほど冷たく、鋭く揺れた。
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