第1話:魔術師 ― 重力を切り裂く銀の針 ―第1話


森の奥に現れたのは、無数の時計の部品が雪のように降り積もる、天井のない工房だった。




カチ、カチ、カチ。


あべこべなリズムで刻まれる秒針の音。空中に静止した巨大な歯車。そこには重力という規律が存在せず、ただ「正しさ」という名の薄暗い糊のりがすべてを固定しているようだった。




「おやおや。迷い子の登場ですか」




工房の奥、ペン先の形をした鉄の仮面を被る男が、長い指を鳴らした。


魔術師。彼は、ゆりえの肩に揺れる空っぽのがま口を、透き通った瞳で射抜く。




「中身がない。……それは罪ですよ、お嬢さん。目的のない魂は、この世界ではただのガラクタだ。どうです、私の授ける黄金の羅針盤を。これさえあれば、あなたは最短距離で『正解』へと辿り着ける」




魔術師が机に並べたのは、完璧に磨かれた羅針盤と、一分の隙もない地図だった。




「これに従えば、もう迷うことはない。醜い自分を省みる必要も、不確かな獣に縋る必要もない。さあ、その犬ノイズを捨てて、こちらへ」




「……捨てる?」




ゆりえの喉が、熱い塊を吐き出した。


魔術師の言うことは、あまりに正しかった。最短距離。正解。迷わなくていい自分。現実世界で、ゆりえが喉から手が出るほど欲しかったもの。




けれど、足元でメルミが「フンッ」と鼻を鳴らした。


彼女は黄金の羅針盤を冷やかしの対象として見下ろし、作業台の隅に転がっていた一本の、錆びついた「銀の針」に鼻を寄せた。




「ゆりえ、これ。こっちの方がずっとマシな匂いがするわよ。……あんた、そんなキンキラした重石を持って、私を追いかけてこれるつもり?」




「……。そうだね、メルミ」




ゆりえは、魔術師の羅針盤には目もくれず、その小さな「銀の針」をひっ掴んだ。


指先に刺さる、冷たい痛み。それが、今のゆりえにとって唯一の「手触り」だった。




「正解なんて、いらない。……私は、私の『好き』だけを持って歩くわよ!」




「愚かな! ルールを無視する者に、この工房の出口はない!」




魔術師の杖が地面を叩くと、工房の床が砂のように崩れ始めた。


出口は、遥か上方。巨大な時計の文字盤が、まるで空に浮く島のように遠ざかっていく。




(……あんなの、届くわけない)




一瞬、絶望が足を縛る。


けれど、魔術師がメルミを「不要品」として杖で払いのけようとした瞬間、ゆりえの意識が真っ白に弾けた。




「その子に……触るなっ!!」




ゆりえは地面を蹴った。


その瞬間、世界から重力が消失した。


いや、ゆりえの怒りが、世界の法則を書き換えたのだ。




――跳んだ。




見ている人がいるならば、それはただの跳躍には見えなかっただろう。


ゆりえの体は、物理的な限界を無視し、信じられないほどの高さまで一気に吸い込まれていった。


視界が急激に引き絞られ、魔術師の工房が豆粒のように小さくなる。空を切る冷たい風。鼓膜を叩く衝撃音。


彼女は、自分が少女であることも、ここがどこであるかも忘れ、ただ一筋の光の矢となって空を貫いた。




「フガッ!!」




落下するゆりえを受け止めたのは、空中を蹴って膨らんだメルミだった。


あり得ないほどの密度を持ったその小さな背中が、落下のエネルギーを熱へと変え、二人を一番高い文字盤の上へと押し上げる。




そのまま二人は、崩落する工房を背に、闇の向こう側へと駆け出した。


走って、走って、心臓の音が破裂しそうになるまで、モノクロームの闇を切り裂いて。








【エピローグ:意味のない針】




霧の晴れた道。


ゆりえは膝を突き、激しく肩を揺らしていた。


指先には、まだあの錆びた銀の針が握られている。




「……はぁ、はぁ……。なによ、今の……。死ぬかと思った……」




「バカね。……ゆりが、勝手に飛んだのよ。私まで道連れにされるところだったわ」




メルミはいつも通り、マヌケな顔でお尻の砂を払っている。


ゆりえは、手の中の針をじっと見つめ、それをそっとがま口バッグへ入れた。




トン。




確かな、けれど重い手応え。


ただの針一本のはずなのに、それはゆりえの肩に、新しい「責任」の重さを刻みつけた。




「……ねえ、メルミ。この針、何に使うかわかった気がする」




「ほう。言ってごらんなさい」




「……メルミがもし、またどっか破けたりしたら。私がこれで縫ってあげる」




「……。へっ、余計なお世話よ」




メルミはプイと横を向いたが、その短い尻尾が一度だけ、小さく揺れた。




「ほら、行くわよ。次は……少し霧が深いみたいだから、離れないでついてきなさい」




「……うん」




ゆりえは立ち上がり、僅かに重くなったバッグを揺らしながら、再び歩き出した。


まだ、ハミングは聞こえない。


けれど彼女の胸には、魔術師の黄金よりも鋭い、銀の決意が宿っていた。

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