半歩前のメルミと、ゆりえのがま口

リリフィラ

第0話:愚者 ― 灰色の崖を落ちるための旋律 ―

世界から、色が剥げ落ちていた。




空は重い鉛色で、足元に広がる断崖もまた、硬いコンクリートのような灰色に塗り潰されている。風の音さえ聞こえない。ただ、自分の肺が薄い空気を吸い込み、吐き出す、その不快な摩擦音だけが頭蓋骨の中で反響していた。




ゆりえは、崖の縁に立っていた。


一歩。あと一歩踏み出せば、この退屈で残酷な静寂からおさらばできる。


肩には、使い古された革のがま口バッグがぶら下がっている。


中身は空っぽだ。


かつてそこにあったはずの、大切な何か。それを失ったという事実だけが、心臓を冷たく、重く縛り付けている。




(……もう、いいかな)




考えるのも疲れた。


「私が悪かったんだ」という呪文を繰り返すのにも飽きた。


ゆりえが目を閉じ、深い霧の中へと身を投げ出そうとした、その時だ。




「――守りたいなら、来なさい」




どこからか、声が聞こえた。


それは上からでも下からでもなく、遠い未来から届いた「残響」のように、ゆりえの脊椎を震わせた。




「守る?……私が?」




自嘲気味に呟いた瞬間。


霧の向こうから、聞き覚えのある、けれど今の自分には「あってはならないはず」の音が響いた。




「フガッ、フガフガッ!」




ゆりえの身体が、氷水を浴びせられたように硬直する。


その音を知っている。


湿った鼻鳴らし。少し短気で、けれど最高に愛おしい、あの生命の音。




霧を裂いて現れたのは、一匹のフレンチブルドッグだった。


ピンと立った耳、低い鼻、そして、ゆりえを見つめる、すべてを悟りきったような真っ直ぐな瞳。




「……メルミ?」




名前が、勝手に唇から溢れ出した。


なぜ名前を知っているのか。この犬が何者なのか。


脳の奥で、何かが激しく警報を鳴らしている。


『思い出して。あなたは昨日、この子を――』


その警報が真実に触れようとした瞬間、ゆりえは、自分でも無意識のうちに脳のブレーカーを叩き落とした。




「……まあ、いっか」




ゆりえは笑った。


理由なんて、どうでもいい。


つじつまが合わなくたって、構わない。


目の前で、メルミが「置いていくわよ」とでも言うように、不敵な笑みを浮かべて崖の先へ歩き出した。そのお尻の動きも、歩き方も、魂が覚えている。




「待って! 置いてかないで、メルミ!」




メルミが崖から飛び降りた。


躊躇ためらいも、迷いもない、鮮やかなダイブ。




ゆりえもまた、その後を追った。


重力に身を任せ、暗闇の中へと墜ちていく。


その落下中、ゆりえの唇から、小さな、けれど透き通った音が漏れ出した。




『……la……lula……』




それは、自分でも聴いたことがないはずのメロディ。


けれど、その音を口ずさむ時だけ、ゆりえの周りには甘いバラの香りが漂い、冷たい落下を優しく包み込んだ。




「……la……lula……」




灰色の世界が、反転していく。


落下した先。そこは、白と黒だけで描かれた、不気味で美しいモノクロームの森だった。




「ったく、トロいのよ。これだから"ゆり"は」




着地したゆりえの半歩前で、メルミがお尻の砂を払って立ち上がる。


ゆりえは、空っぽだったはずのがま口を強く握りしめた。


理由はわからない。けれど、この子がここにいる。


なら、この悪夢こそが、私の「正解」だ。




「行くわよ、メルミ。……もう、離さないから」




愚者は、一歩を踏み出した。


それは、自ら選んだ、世界に向かうための巡礼の始まりだった。










【エピローグ:境界の入り口にて】




モノクロームの森は、どこまでも深く、しんと静まり返っていた。


風が吹いているはずなのに、草木が揺れる音もしない。


ゆりえは、自分の歩く音だけが世界に響く違和感に、ふと足を止めた。




「……ねえ。ここ、風が吹いてるのに、なんの匂いもしないんだね」




メルミは振り返りもせず、短い尻尾をひと振りした。




「そう? あんたの鼻が詰まってるだけじゃないの。……フンッ、カビ臭いよりはマシよ」




「……そうかな。さっき、崖を落ちてる時……一瞬だけ、すごく甘い匂いがした気がしたんだけど。バラ、みたいな」




その言葉に、メルミの耳がぴくりと動いた。


けれど彼女は、いつものように不遜な声でそれを切り捨てた。




「気のせいよ。あんたは、そうやってすぐ『無いもの』を見ようとするんだから。……それより、そのがま口。ちゃんと持ってるんでしょうね?」




ゆりえは肩にかけた革の感触を確かめた。


「持ってるよ。空っぽだけど。……これ、何を入れるためのものだっけ」




「さあね。拾った時に考えればいいんじゃないの。……ほら、行くわよ。半歩後ろ、離れないでついてきなさい」




「……うん。……ねえ、メルミ?」




「なによ」




「……なんでもない。……行こう」




ゆりえは、答えのない問いを飲み込んだ。


なぜ自分がこの犬を知っているのか。


なぜこの空っぽのバッグが、ときどき銀河のような質量を帯びるのか。


いまはまだ、それを知る必要はない。




ただ、目の前を歩く、短い足の確かなリズムだけを信じて。


二人の影は、インクのように黒い森の奥へと溶けていった。

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