第10話(最終話) 神ではない遺品整理

 蛍光灯の光は平たい。平たい光は影を薄くする。薄くなった影は、床に貼りついた汚れと区別がつかなくなる。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、紙の匂いがその上に重なる。施設の中は暖房が効いているはずなのに、指先だけが冷える。


 河原が近い。窓の外に水の気配がある。見えない水の気配は、湿りとして入ってくる。廊下の角で、誰かがビニール袋を擦る音がした。擦れる音が遅れて耳に届く。遅れは、ここにもある。


 受付で名前を書かされ、名札を渡された。名札のクリップが安い金属で、指に小さく引っかかる。引っかかりは現実だ。現実に戻すには便利だと、私は思った。


「こちらです」


 職員が案内した。声は丁寧で、抑揚が少ない。毎日同じ説明をしている声だ。声の裏に疲労がある。疲労は、目の縁の赤さで分かる。


 部屋は小さかった。机がひとつ、椅子がふたつ。壁際に棚があり、薄いファイルが並んでいる。ファイルの背に印字された文字は、規則的で、冷たい。


「行旅死亡人の遺留品です。身元不明で、引き取り手がありません」


 職員が言った。言い方は事実だけだ。事実だけの言葉は、ここでは正しい。


 机の上に、小さな袋が置かれた。透明なビニールではなく、厚手の紙袋。封がされ、番号が書いてある。数字だけの存在。数字だけの存在は、神の帳簿と似ている。似ているのに、匂いが違う。線香でも漬物でもなく、衣類の埃と皮脂の匂いがする。生活の匂いだ。


 私は手袋を外せないまま、袋を見た。見ているだけで喉が乾く。乾きは、病院の消毒の匂いと繋がっている。第七話の廊下の暖かさが、いきなり背中に貼りついた。


 一条は部屋の隅に立っていた。立っているのに、壁紙の模様と重なる。模様と重なる輪郭は薄い。薄い輪郭が、蛍光灯の下でさらに薄くなる。


「嫌なとこだな」


 一条が言った。声はいつもより小さい。小さい声は、ここに響かないからだ。響かない場所では、言葉が無駄に消える。


「仕事です」


 私は言った。言うと、喉の乾きが少し戻る。戻る乾きは、言葉の摩擦だ。


 扉が開いた。


 スーツの男が入ってきた。あの男だ。文化財と観光の名刺を出した男。今日は別の名刺を出さなかった。出さないのは、ここが彼の領分だからだ。施設の空気に、彼の靴底の乾いた土が混ざる。混ざると匂いが変わる。変わる匂いは、場の主が入れ替わった合図だ。


「朔さん」


 男は私の名を呼んだ。呼び方が正確で、距離が近い。近い距離の呼び方は、使う側の呼び方だ。


「記録を提出していただきます。今回も。こちらは公的な案件です」


 男の視線が紙袋に落ちる。落ちる視線は値踏みだ。値踏みの視線は、物を数える。


 私は紙袋から目を離さずに言った。


「記録は出しません」


「拒否できる立場ではありません。あなたは外部委託です」


 男の言葉は制度の言葉だ。制度の言葉は、相手の体温を無視する。


 一条が鼻で笑った。笑いが途中で咳に変わる。咳が乾いている。乾いた咳は、薄い肺の音だ。


「外部委託だってよ。言い方がひどいな」


 男は一条を見なかった。見ないのは、見えないからではない。見ない方が処理しやすいからだ。見ないと存在は薄くなる。薄くなると、名が剥がれる。


 私は椅子に座り、紙袋の番号を確認した。番号の下に、細い文字で日付が書いてある。昨日の日付。昨日の終わりが、ここに運ばれてきた。


「提出できるのは、現象の報告書だけです」


 私は言った。


「この人の終わりを、歪ませない。あなたは邪魔をしない」


 男の眉が動いた。動きは小さい。小さい動きでも、違和感が出た。制度の顔が揺れた。


「歪ませないとは何ですか。あなたの宗教的信条に配慮する余地は」


「信条ではありません。業務です」


 言い切ると、喉が痛む。痛みは乾きと同じ場所で起きる。乾きの奥に、硬いものが残る。


 男は息を吐いた。吐いた息が白くならない。室内は暖かい。暖かいのに、私の指先は冷えていく。


「分かりました。現象報告書で構いません。ただし、あなたが遺留品に触れた記録、時間、作業のプロセスは提出してください。内容の詳細ではなく、手順の証明です」


 彼は譲ったように見せた。見せ方が上手い。上手い譲り方は、こちらの首を締める。


 私は頷いた。


「手順は書きます」


 一条が小さく舌打ちした。舌打ちの音がこの部屋では響かない。響かない音は、怒りを薄くする。薄くなる怒りは、煤になりやすい。


 職員が、机の端に用紙を置いた。作業記録用。印字された枠がきっちり並んでいる。枠は人の手を誘導する。誘導されると、考えなくて済む。考えなくて済む枠は、ここでは優しい。


 私は手袋のまま、ペンを握った。ペン先が紙を擦る音がする。音が少し遅れて戻ってくる。遅れが、私の肩に乗る。


 紙袋に触れなければならない。


 触れれば、最後が来る。


 神の最後ではない。信仰の最後ではない。誰にも祈られない終わり。誰にも記号化されない終わり。そういう終わりの方が、私の身体に重く入る。


 私は手袋を見た。黒い煤が縫い目に残っている。煤は薄くなったように見える。見えるだけで、消えてはいない。消えないものは蓄積する。


 一条が壁にもたれたまま、私を見た。見えるはずの目の位置が曖昧だ。曖昧でも、視線だけは刺さる。


「やるんだろ」


 一条が言った。命令の形をしている。命令にすると、自分が揺れない。


 私は頷いた。


 手袋の片方を外す。指先に空気が触れた。触れた空気が冷たい。冷たい空気は、蛍光灯の下で金属みたいだ。金属みたいな冷たさが、爪の根元に入り、爪が少し浮くような感覚がする。指の腹が乾いている。乾いた指は紙袋の表面を拾いやすい。拾いやすいと、触れた瞬間がはっきりする。


 息を吸う。吸った息が途中で止まる。止まるのは、身体が勝手に止めたからだ。止めると、耳の中の音が消える。消えた音の代わりに、血の音がする。血が耳の奥で鳴る。


 私は紙袋に指先を置いた。


 紙のざらつき。ざらつきの下に、薄い湿り。湿りは中身の気配だ。気配に触れた瞬間、視界の端が白くなる。白さは光ではない。白さは情報の欠落だ。


 最後の記憶が走った。


 河原の石が冷たい。冷たい石の上に、靴が一足揃えて置かれている。揃え方が不自然に整っている。整っているのは、誰かに見つけてもらいたいからだ。見つけてもらうための整い方は、祈りに似ている。


 手が震えている。震える手がポケットの中の鍵を握っている。鍵の角が掌に食い込む。食い込みで現実に戻そうとしている。戻せない。戻せないまま、水の音が近づく。近づく水の音が、途中で途切れる。途切れは耳の問題ではない。意識が途切れている。


 息が白い。白い息が夜の空気に消える。消える速度が早い。早い消え方は、温度差が大きい証拠だ。寒い。寒いという言葉は記憶の中に出てこない。代わりに、指が動かない。動かない指が、鍵を落とす。鍵が石に当たる音が、遅れて耳に来る。


 遅れ。


 遅れの向こうで、紙が擦れる音がする。紙袋の音ではない。折り紙の音だ。第七話の折り紙の音が混ざる。混ざると、河原の風が病院の廊下の暖かさに変わる。変わると、視界が二重になる。


 弟の声がする。声は笑っている。笑い声が遠い。遠い笑い声の手前で、誰かが咳をした。咳の乾きが一条の咳と重なる。重なると、記憶の端に祠が見える。祠の札が空白だ。空白の札に、黒い線が走っている。黒い線が笑うように曲がる。


 煤。


 煤が、河原の水面に浮かんでいる。浮かぶ煤は水に沈まない。沈まない煤は、終わりの欠片だ。欠片が集まって、縫い目みたいに並ぶ。縫い目は境界だ。境界が裂けている。裂け目から、終わりが漏れている。


 漏れた終わりが、私の指先に溜まる。溜まった終わりが、手袋の内側に煤として残る。残った煤が、次の終わりを引き寄せる。引き寄せると、遅れが増える。遅れが増えると、影が薄くなる。薄くなると、名が剥がれる。


 私は息を吐いた。吐いた息が、現実の部屋の空気に戻る。戻った瞬間、喉が焼けるように乾いた。乾きが痛みを連れてくる。痛みが舌の根元に残る。


 指先が痺れている。痺れは冷えではない。情報が走りすぎた痺れだ。私は紙袋から手を離した。離した瞬間、手が震えた。震えが止まらない。止まらない震えは危険だ。危険なのに、私は震えを止める方法を知らない。


 一条が一歩近づいた。近づいた輪郭がさらに薄い。薄いのに、彼の存在が部屋の空気を少し暖めた気がした。気がするだけだ。暖める力はもう薄い。


「見たか」


 一条が言った。声が掠れている。掠れの奥に、焦りがある。焦りという言葉は出さない。代わりに、声の硬さが増える。


「見ました」


 私は言った。言うと、胃が少し沈む。沈みは吐き気に近い。近いのに、吐き気にはならない。ならないうちは作業が続けられる。


 男が机の向こうでペンを止めた。止めたのは聞き耳を立てたからだ。聞き耳を立てるのは管理だ。管理は歪ませる。歪ませないために、私は言葉を削る。


「現象は」


 私は職員に向けて言った。職員は目を見開いた。見開きが小さい。小さい驚きは慣れだ。慣れは残酷だが、ここでは必要だ。


「遺留品袋に接触した際、短時間の意識変容。身体症状は指先の痺れと乾き。以上」


 男がメモを取る。取る手が速い。速い手は仕事だ。仕事の速さは、終わりの速さを無視する。


 私は自分の手袋を外した手を見た。爪の根元が白い。白いのは血が引いたからだ。引いた血は戻る。戻るのに時間がかかる。時間がかかる間、私は別の手順で立っているしかない。


 視界の端で、一条の影が揺れた。揺れ方が、風ではなく裂け目の揺れ方だ。裂け目が広がっている。


 一条が笑った。笑いが薄い。薄い笑いの中で、唇が乾いて割れている。


「お前の中に溜まるな」


 一条が言った。


「俺が持ってく」


 私は首を振った。振る動作が遅い。遅いのは、身体がその言葉を拒否するための時間を稼いでいるからだ。


「無理です」


「無理じゃない。俺は元々、境界側だ」


 一条の声が少し強くなる。強くなると咳が出る。咳が出ると輪郭が揺れる。揺れる輪郭は消えかける。


「名を渡せば、持てる」


 一条が言った。名を渡す。名が剥がされるのではなく、自分で差し出す。差し出すのは選択だ。選択は歪みではない。歪みではないが、終わりに近い。


 私は言葉を探した。慰めの言葉を探した。探しても出てこない。出てこないのは、私がそれを使ってこなかったからだ。使ってこなかった言葉は、いざというときに形にならない。


 代わりに、私は一条の手を見た。手が薄い。薄い手の指の節が白い。白い節が、私の指先の白さと似ている。似ている白さは、同じ冷えだ。


 私は立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。擦る音がこの部屋では大きい。大きい音は注目を集める。注目は危険だが、今は関係ない。


 男が顔を上げた。


「何を」


 私は男を見た。


「邪魔をしないでください」


 言葉が硬い。硬い言葉は刃物みたいだ。刃物みたいな言葉は、人の顔を切る。切ってもいい。今は歪みを止める方が優先だ。


 男が何か言いかけた。言いかけた口が止まる。止まったのは、彼の足元の影が薄くなったからだ。薄くなる影は、この部屋にも遅れが増えた証拠だ。遅れが増えると、制度の言葉も弱くなる。弱くなった瞬間だけ、現場が勝つ。


 私は手袋を外し、両手を裸にした。裸の指が空気に触れ、指の腹がすぐ乾いた。乾きが痛い。痛い乾きは、現実の痛みだ。現実の痛みなら耐えられる。


 一条の手に触れた。


 触れた瞬間、最後が来る可能性がある。私はその可能性を知っている。知っているのに触れた。触れたのは、止め方が他にないからだ。


 一条の皮膚は冷たい。冷たさの奥に、微かな熱がある。熱が薄い。薄い熱は消える前の熱だ。


「朔」


 一条が私の名を呼んだ。呼び方が軽くない。軽くない呼び方は、ここが境目だという合図だ。


 私は握った。握ると、指の骨の感覚が伝わる。骨は硬い。硬い骨があるうちは、まだ形がある。形があるなら、名を書ける。


 私は自分の能力を意図的に向けた。向けるという言い方は正確ではない。触れたまま、逃げない。逃げないで、来るものを受ける。受けると、向きができる。


 煤が動いた。


 私の掌の奥で、黒い粉が流れる。流れは風ではない。縫い糸みたいな流れだ。糸が、一条の方へ引かれていく。引かれるのは、一条が境界側だからだ。境界側のものは、漏れを塞ぐ力を持つ。持つ力が今は薄い。薄いのに、最後の仕事だけはできる。


 一条が息を吐いた。吐いた息が白くない。室内だからだ。白くない息でも、私はその息の温度差で、彼が持っていくものの重さを感じた。


「お前の中、汚いな」


 一条が言った。言い方が軽い。軽い言い方は、重いものを軽くするための言い方だ。


 私は答えなかった。喉が乾きすぎて声が出ない。出ない声の代わりに、握る力を少し強くした。強くすると、相手の骨が痛む。痛みは現実だ。現実に戻ると、煤の流れが一瞬止まる。止まると、私が主導できる。


「名を」


 私は言った。声は低い。低い声は自分に言い聞かせる声だ。


「残します」


 一条が笑った。笑いが薄い。薄い笑いの中で、目だけが少し強い。


「やっと言葉が出た」


 男が机を叩いた。叩いた音が乾いている。乾いた音は制度の音だ。


「違法です。身元不明者の遺留品に、勝手に名前を」


 私は男を見た。男の言葉は途中で止まった。止まったのは、一条の影が一瞬だけ床に戻ったからだ。戻った影は薄いが、ある。ある影は説得より強い。制度より強い現象があるとき、制度は黙る。


「違法でも」


 私は言った。


「歪ませない」


 男の顔が硬くなった。硬い顔は譲らない顔だ。譲らない顔でも、今は譲らせる。譲らせるのは言葉ではなく、手順だ。


 私は記録帳を取り出した。いつもの帳ではない。施設の机に置かれた用紙ではなく、私の手の中にある記録帳。表紙は擦れている。擦れは積み重ねだ。


 開く。開くと紙の匂いが立つ。紙の匂いが消毒の匂いに負けない。負けない匂いは、私の仕事の匂いだ。


 私はペンを握った。ペン先が震える。震えは手の震えではない。煤が流れた後の空洞が震える。空洞に空気が入ると、身体が揺れる。


「一条」


 私は書いた。


 字はいつもより歪んだ。歪みは感情ではなく痺れのせいだ。痺れでも、形は残る。残る形が名だ。


 次に、寺の祠の空白の札のことを思い出した。空白は、剥がされるための空白だ。空白に何かを書けば、剥がされにくくなる。剥がされるなら、記録として残す。


 私は札を取り出した。白い札。白い札は汚れを拾う。拾ってもいい。拾うのは仕事だ。


 男が手を伸ばしかけた。伸ばした手が止まる。止まったのは、床の影がまた薄くなったからだ。薄い影は危険の合図だ。合図の前では、彼も動けない。


 私は札に書いた。


 一条。


 短い二文字が、墨で濃く残る。残る濃さは証明だ。信仰ではない。記録の濃さだ。


 一条の影が、少しだけ戻った。戻った影は完全ではない。完全ではない戻り方が、終わる準備の戻り方だ。終わりに向けて整う戻り方。


 一条が息を吸った。吸う息が深い。深い息は、少しだけ楽になった息だ。楽という言葉は使わない。代わりに、肩が落ちる。落ちた肩が、形を取り戻す。


「なるほどな」


 一条が言った。


「名って、こういう使い方もあるんだな」


「信仰ではありません」


 私は言った。


「存在証明です」


 男が唇を結んだ。結んだ唇が白い。白い唇は乾いている。乾いた唇は言葉を飲み込む。


 私は紙袋に戻った。戻ると、指先がまだ冷たい。冷たい指先が、袋の縁を拾う。拾うと、紙が擦れる。擦れる音が遅れて戻る。遅れはまだある。あるなら、作業は急ぐ。


 私は袋の中身を出した。


 鍵。鍵は小さく、古い。磨かれていない。磨かれていない鍵は、誰にも見せるための鍵ではない。自分のための鍵だ。


 切符。紙の切符。折り目がある。折り目の角が丸い。丸くなる角は、何度も触れられた角だ。


 メモ。小さな紙片。文字が薄い。薄い文字は鉛筆だ。鉛筆の文字は、書いた人の指の圧が見える。圧が強い。強い圧は、手が震えていた証拠だ。


 私は分類した。鍵は金属。切符は紙。メモは紙だが、情報として扱う。布片が一つ。布は匂いを含んでいる。匂いは生活の匂いだ。洗剤と汗と、どこかの油の匂い。どこかの油は、職場の油かもしれない。かもしれないで止める。推測は書かない。


 燃やさない。誰かに渡さない。渡せる誰かがいない。いないなら、いないままにする。いないことを失敗にしない。


 私は記録帳に書いた。鍵の形、傷の位置。切符の券面、折り目の向き。メモの筆圧、字の癖。癖は本人のものだ。本人がいなくても、癖は残る。残る癖が名の代わりになる。


 一条が静かに見ていた。見ている姿が、さっきより薄くない。薄くないのに、まだ透明に近い。透明は終わりに向かう透明だ。


 男が言った。


「それを、誰が見るんです」


 私はペンを止めずに言った。


「誰でもいい」


 誰でもいい、は投げやりではない。所有を手放す言い方だ。所有を手放すと、歪みが減る。


「終わりは、誰かの所有物じゃない」


 言った瞬間、喉がまた乾いた。乾きが痛みに変わる前に、私は息を吐いた。吐いた息が紙の上で揺れる。揺れは小さい。小さい揺れは、私の身体がまだここにいる証拠だ。


 一条が小さく笑った。笑いが途切れない。途切れない笑いは、まだ終われる笑いだ。


「それ、いいな」


 私は答えなかった。答えると、言葉が私のものになる。私のものにすると所有になる。所有は歪みを生む。


 記録を書き終えると、私は遺留品を元の袋に戻した。戻す手が丁寧になる。丁寧になるのは癖だ。癖は仕事だ。


 最後に、札を一枚入れた。札には番号ではなく、日付を書いた。終わった日付。日付は所有ではない。時刻だ。時刻は誰のものでもない。


 男が椅子から立った。立つ動作が遅い。遅いのは迷っているからだ。


「提出物は」


「現象報告書。手順。記録の存在だけ」


 私は言った。


「内容は渡しません」


 男は口を開けて、閉じた。閉じた唇がまた白い。白い唇は乾いている。乾いた唇は言葉を殺す。


「あなたは危険です」


 男が言った。言い方が制度の言い方ではない。個人の言い方になっていた。個人の言葉は、制度よりはましだ。まし、という言葉は使わない。代わりに、視線を逸らさない。


「危険でも」


 私は言った。


「歪ませない」


 一条が咳をした。咳は薄い。薄い咳でも、ここでは生きている音だ。


 施設を出ると、夕方の河原の風が頬に当たった。風が冷たい。冷たい風は、蛍光灯の冷たさとは違う。自然の冷たさは、息を白くする。白い息は、生きている息だ。


 京都の路地に戻ると、石畳が湿っていた。湿りが靴底に吸い付く。吸い付く感覚が、現実を足元に引き戻す。遠くで寺鐘が鳴った。鳴り方が遅い。遅い音は冬の音だ。冬の音が、今日の終わりに蓋をする。


 町家の戸を開けると、線香の匂いが少しだけ残っていた。隣家の匂いが風に乗って入ってきたらしい。線香の匂いがあると、私は仕事の始まりに戻れる。


 一条は畳の上に立って、外を見た。見ている背中が薄い。薄いのに、今は消えそうではない。消えそうではない薄さだ。


「どうなる」


 一条が言った。言い方は軽い。軽いのに、指が畳の縁を掴んでいる。掴む指が白い。白い指は力が入っている。


「時々しか現れない」


 私は言った。断定はしない。断定すると固定される。固定は歪みになる。


「でも」


 私は札を封印箱に入れた。入れるとき、札の墨がまだ少し湿っている。湿りが指先に移る。移る湿りは、書いた証拠だ。


「名は残った」


 一条が笑った。笑いが薄い。薄い笑いの中で、目だけが強い。


「お前、結局、俺を片づけたな」


「片づけてません」


 私は言った。言い方がいつもより早い。早い言い方は、私が揺れた証拠だ。


 一条が肩をすくめた。肩の動きが遅い。遅い動きは、もう無理が利かないということだ。


「まあ、いいや。歪むよりマシだ」


 マシ、という言葉は雑だ。雑な言葉は、逃げの言葉だ。逃げてもいい。今は終わりを歪ませない方が優先だ。


 私は手袋を見た。内側の煤が薄い。薄いのは本当だ。指を入れると、痺れが少ない。少ない痺れは、空洞が少し埋まった証拠だ。埋まっても、消えない。消えない煤は、まだどこかにある。


 夜になり、路地の音が減った。減ると、町家の中の紙の擦れる音が大きくなる。私は記録帳を棚に戻した。戻すと、背表紙が揃う。揃う背表紙は、終わりが整理された証拠だ。


 戸の外で、足音が止まった。止まった足音が短い。短い足音は躊躇だ。躊躇している足音。


 私は戸を開けた。


 依頼人は知らない男だった。帽子を深く被り、手に小さな包みを持っている。包みの角が濡れている。濡れているのに、雨は降っていない。濡れは汗ではない。煤の湿りに似た濡れだ。


「これを」


 男が言った。声が小さい。小さい声は、見つからないようにする声だ。


 私は包みを受け取らなかった。受け取る前に匂いを確認する。匂いは紙と、墨と、鉄の匂い。鉄の匂いの奥に、甘い匂いがある。甘い匂いは線香ではない。甘いカビの匂いだ。古い帳簿の匂いに似ている。


「何ですか」


 私は聞いた。


 男は言った。


「名前を増やす遺品が出た」


 増やす。第三話の帳簿の増え方。増える名前。増える名は、剥がされる名の逆だ。逆は、別の歪みだ。


 一条が背後で小さく息を吸った。吸った息が薄い。薄い息は、まだ終わりが続く合図だ。


 私は手袋をはめ直した。革の感触が指を包む。包まれると、指先が少し安心する。安心という言葉は使わない。代わりに、動きが滑らかになる。


「預かります」


 私は言った。


 男は包みを置いて、すぐに去った。去る足音が速い。速い足音は、関わりたくない足音だ。


 私は戸を閉め、包みを机の上に置いた。置いた瞬間、包みの角から黒い粉が落ちた。落ちた粉が、床に薄い線を作る。線が笑うように曲がりかけて、止まった。


 止まった線を、私は記録した。記録すると現実になる。現実になれば、手順が立つ。


 一条が窓際に立った。立つ姿は薄い。薄いのに、今は風に持っていかれない。


「続くな」


 一条が言った。


「続きます」


 私は答えた。答えた声は低い。低い声は、自分の足元を固める声だ。


 京都の夜は冷える。冷える夜の中で、遠くの寺鐘が鳴った。鳴り終わるまで、私は包みを開けなかった。鳴り終わると、私は手順を始めた。


 終わったのに、続けられる。続けられるのは、煤が消えていないからではない。消えていない煤を、歪ませずに扱う方法が、今は手の中にあるからだ。


おしまい

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京都あやかし遺品整理屋――神様の「死に方」、片づけます 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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