第9話 一条が遺品になる日
机の端に置いた手袋が、内側から濡れたみたいに黒く見えた。濡れてはいない。煤が移っているだけだ。移る煤は、乾いたもののはずなのに、指先の痺れを連れてくる。
町家の一室は、冬の朝でも冷える。冷えるはずなのに、今日はそれが助かった。冷たい空気は、余計な匂いを薄くする。薄くなると、作業が戻る。
一条は畳の上で胡坐をかいたまま、湯呑みを眺めている。湯気は立っている。立っているのに、湯気が途中で崩れる。崩れるのは、彼の前だけだ。空気の流れが乱れている。
「おい」
一条が言った。声が少し遠い。遠い声は距離ではなく、厚みの問題だ。音が薄い。薄い音は、居るのに居ない音に近い。
「聞こえてる」
私は記録帳を開き、昨日の案件の報告書の下書きを眺める。眺めても文字が頭に入らない。入らないのは珍しい。珍しいことが続くと、事故になる。事故は煤になる。
一条が湯呑みを持ち上げた。持ち上げる指の節が、いつもより白い。白いのは血の薄さだ。薄い血は冷える。冷えた血は指先を鈍くする。
「お前、今朝から三回、同じ行を見てる」
「そうか」
「そうか、じゃねえだろ」
一条が笑う。笑いが軽い。軽い笑いが、途中で途切れた。途切れた瞬間、咳が出る。咳は乾いている。乾いた咳は、喉が削れている。
私は湯呑みを取り替えた。新しい湯を注ぐ。注ぐ湯の音は、彼の前で小さく歪む。歪むのは、音が遅れて戻るからだ。遅れがある場所に、煤は溜まる。
「無理はするな」
私は言った。慰めではない。業務上の確認だ。
一条は肩をすくめた。肩の動きが遅い。遅い動きは疲労だ。
「無理してんのはお前だろ。昨日の婆さんの家から戻って、ずっと手袋見てる」
私は手袋から目を逸らした。逸らすと、畳の縁が目に入る。畳の縁は真っ直ぐだ。真っ直ぐなものを見ると、息が戻る。
「煤が変わってる」
「うん。薄汚れが進化してる」
言い方が軽い。軽いのに、彼の視線が机の端の封印箱に向く。封印箱は、黒い紐で括ってある。括る紐の結び目が、今日は緩く見えた。緩いのは錯覚だ。錯覚が出るとき、私は疲れている。
戸の外から足音がした。畳ではなく石の上の足音だ。石畳の硬い響き。町家の前に止まると、呼び鈴の代わりに戸を叩く音がする。叩き方が丁寧で、回数が決まっている。役所の叩き方だ。
一条が目を細めた。細めた目は、眠さではなく警戒だ。
私は立ち上がって戸を開けた。冷気が流れ込む。流れ込む冷気の中に、紙の匂いが混じる。新品の書類の匂い。
スーツの男が立っていた。第六話の男だ。名刺を出すのが早い。名刺の角が揃っている。揃っている角は、手入れされた角だ。手入れされた角は、感情が出ない角だ。
「突然、失礼します」
男は頭を下げた。下げ方が浅い。浅いのに、丁寧に見える角度。計算の角度。
「用件を」
私が言うと、男は頷いた。
「一条さんの件です」
男の目が室内に向く。向いた瞬間、一条が座っているはずの場所に視線が合わなかった。合わないのは、見えていないからではない。焦点がずれる。ずれは、そこにあるものが薄いからだ。
一条が「よう」と言った。手を上げる。上げた手の影が、畳に落ちない。落ちたとしても薄い。薄い影は見落とされる。
男が小さく息を飲んだ。飲み込んだ息は声にならない。声にならないのは、理解してしまったからだ。
「保護します」
男が言った。
「こちらで。安全な施設に」
一条が笑った。笑うと咳がまた出る。咳で肩が揺れる。揺れても影が揺れない。
「施設って、何だよ。神の犬小屋か」
「揶揄は結構です。現状、あなたは不安定です」
男の言葉は事実だけで構成されている。事実だけで構成される言葉は、人の顔を削る。削られた言葉は、相手を物にする。
「不安定なのは、誰のせいだ」
一条の声が低くなった。低い声は喉の奥で鳴る。喉の奥で鳴る声は、本音だ。
男は視線を私に向けた。
「あなたも同席の上で。朔さん。あなたの仕事を、こちらは否定しません。ただ、管理が必要です」
「管理」
私は言葉を繰り返した。繰り返すと輪郭が出る。輪郭が出ると拒否ができる。
「名前のない神は管理しやすい」
男は言い切らなかった。言い切らないのに、言葉は部屋に落ちた。落ちた言葉は、畳に染みる。染みた言葉は取れない。
一条が舌打ちした。舌打ちの音がいつもより大きい。大きい音は、薄い空気の中で反響する。反響は歪みを呼ぶ。
私は男を見た。
「管理は、歪ませる」
男の眉が動いた。動いたのは一瞬だけだ。彼の顔は、それ以上動かない。
「歪ませないためです。あなた方だけでは対処できない現象が増えている。昨日の私祠の件も、周辺の住民への影響が」
「現象だけの報告書は出します」
「記録は出さない」
「そこは結構です。ただ、対象は保護します」
男の言葉は進む。進む言葉は止まらない。止まらない言葉は、相手の同意を必要としない。制度の言葉だ。
一条が立ち上がろうとした。立ち上がる途中で膝が落ちた。落ちた膝は畳に当たる。音はするのに、影が動かない。
私は一条の方へ歩きかけて、足が止まった。止まるのは、距離の取り方が分からないからだ。分からないとき、私は手順に逃げる。
「現場に行きます」
私は男に言った。
「何の現場です」
男が問う。
「一条のゆかりの祠」
一条が私を見た。見た目が、少しだけ鋭い。鋭いのは、痛みがあるからだ。
「お前」
「確認が必要です。今、何が起きているか」
男が頷いた。頷きは了承ではない。ついてくる、の合図だ。
「同行します。保護の必要性を判断するために」
「勝手に」
一条が言い捨てた。言い捨てる声が、途中で掠れた。掠れは、終わりに近い掠れだ。
私は道具袋を肩にかけた。重みが肩に食い込む。食い込む重みは現実だ。現実に戻ると、私は歩ける。
寺の奥は、昼でも薄暗い。石段が湿っている。苔の匂いが濃い。濃い苔の匂いは、線香の匂いと混じると甘くなる。甘くなると、死が近くなる。
例の祠は、さらに奥だった。木が古い。古い木は黒い。黒い木の黒さは、煤の黒さとは違う。煤の黒さは、光を吸って戻さない黒さだ。古木の黒さは、光を薄く返す黒さだ。
祠の前に立つと、札が見えた。空白の札。第五話の空白が、そのまま残っている。残っているのは、誰も触れないからだ。触れないものは終わらない。終わらないものは歪む。
一条が一歩進み、そこで止まった。止まった瞬間、足元の影が消えた。消えたのは、光の角度のせいではない。角度は変わっていない。
「ほらな」
一条が笑おうとした。笑いが作れない。口角だけが上がる。上がった口角が震える。
男が距離を取った。距離の取り方が正しい。正しいのは、怖いからだ。怖さを認めると距離を取れる。私は距離が取れない。取れないのは、仕事だからだ。
「結界確認」
私は言って、札を取り出した。四隅に置く。置く札が、今日は畳ではなく土に触れる。土が湿っている。湿りが札に移ると、紙が重くなる。重い札は良い。良いのに、今日は紙がすぐ黒ずむ。黒ずみが早い。早いのは、煤が濃いからだ。
一条が祠の前で膝をついた。膝をつく動作が遅い。遅い動作は意識が薄い。薄い意識は危険だ。
「一条」
私は呼んだ。呼ぶと、喉が乾く。乾いた喉で名前を呼ぶと、喉の奥が痛む。
一条が振り返った。振り返る顔が少しぼやける。ぼやけるのは視力の問題ではない。輪郭が薄い。
「大丈夫だ」
大丈夫の言い方が雑だ。雑なのに、目が笑っていない。
男が携帯を取り出した。連絡の準備だ。準備が早い。早い準備は、想定していた準備だ。
祠の中から、紙が覗いている。札の一部。墨がある。墨があるのに、読めない。読めないのは墨が薄いからだ。薄い墨は、剥がされている途中だ。
剥がされる。名が剥がされる。
私は一条の背中に手を伸ばしかけた。伸ばす手が止まった。止まったのは、触れると見えるからだ。見えるのは最後だけだ。最後を見たら、私は手を戻せない。
一条が倒れた。
倒れる音が、土に吸われた。吸われた音の代わりに、黒い粉が舞った。舞った粉は煤だ。煤が風の形で巻き上がる。巻き上がる煤は、祠の中から出てきた。
「下がってください」
私は男に言った。男は言われなくても下がっている。下がり方が速い。
一条の身体を支えようとした。支えようとして、私の膝が土に滑った。滑る土は湿っている。湿った土は足を取る。足を取られると、体勢が崩れる。
崩れた体勢のまま、私は一条の腕に触れた。
手袋越しではない。咄嗟で、手袋をしていない。裸の指が、彼の袖の布越しに熱を拾う。熱が薄い。薄い熱は、生きている熱ではない。
最後の記憶が走った。
全部は来ない。断片だけが刺さる。刺さるのは、私が望んでいないからだ。それでも来る。
祠が割れる音。割れる前に、木がきしむ。きしむ木の音が遅れて耳に届く。遅れた音の中で、墨が剥がれる。剥がれた墨は、紙の繊維ごと持っていかれる。
名前が剥がれる。
剥がれる瞬間に、黒い煤が笑うみたいに流れる。笑うのは音ではない。流れ方が笑いの流れ方だ。波が口角みたいに歪む。歪みが生き物の表情に見える。
その煤の向こうに、手がある。手の形がある。人の手だ。皮膚の色が白い。白いのに、血が見えない。見えないのは、手が紙みたいに薄いからだ。薄い手が、札を撫でる。撫でると墨が落ちる。
誰かが、名を剥いでいる。
断片の最後に、一条の声が重なる。
終わらせろ。
私は触れていた手を離した。離した指先が痺れる。痺れが腕を上って、喉に来る。喉が締まる。締まる喉で息を吸うと、土の匂いが肺の奥まで入る。土の匂いが苦い。苦い土は、古い死の匂いだ。
「朔」
一条の声がする。声は遠い。遠い声が、耳のすぐ横で鳴る。距離が壊れている。
私は一条を抱えようとした。抱える体勢が分からない。分からないまま腕を回す。回した腕が空を掴む。掴むはずの肩が、薄い。
一条の身体が軽い。軽いのは体重が減ったからではない。存在の重さが減っている。
「立てますか」
私は言った。問いは事実の問いだ。事実の問いなら、私は声にできる。
一条が笑った。
「今、俺に敬語かよ」
笑いは出た。出た笑いが咳に変わる。咳で身体が揺れる。揺れても影が揺れない。
男が遠くから言った。
「危険です。すぐ保護を」
「黙れ」
一条が言った。声は低いのに、男に届いた。届く声がある。あるうちはまだ終わっていない。
一条が私の袖を掴んだ。掴む力が弱い。弱いのに、爪が布に引っかかる。引っかかる爪は、まだ生きている爪だ。
「見たな」
私は答えなかった。答えると、断片が言葉になって固定される。固定されると、私の中で煤になる。
一条が息を吐いた。吐いた息が白い。白い息が途中で途切れる。途切れたところに、薄い黒が混じる。混じる黒は煤だ。煤が彼の息に混ざっている。
「俺は、片づけられたい」
一条が言った。言い方が軽くない。軽くない言い方は、本気の言い方だ。
「歪む前に」
歪む。第八話の家の神の歪み。終わりが押し戻されて、同じ最後だけが繰り返される。繰り返される最後は、苦しい。苦しいという言葉は使わない。代わりに、一条の喉が鳴る。鳴る喉は、痛みを堪えている喉だ。
私は喉の奥が乾いた。乾いた喉で言葉を探す。探しても、慰めの言葉しか出てこない。慰めは禁句寄りだ。禁句寄りの言葉を言うと、私は仕事を壊す。
沈黙が落ちた。
寺の奥の沈黙は、遠くの観光客の声すら薄くする。薄くなると、祠の前だけが世界になる。
一条が続けた。
「俺、遺品になれないって言ったろ」
第五話の言葉が戻る。戻る言葉は、回収だ。回収の言葉は重い。
「終わってないから苦しい。終わってないのに、終わらされるのはもっと苦しい」
終わらされる。名を剥がされる。名を剥がされるのは終わりではない。消されることだ。消されるのは、歪ませることだ。
私の指先が痺れたまま、熱を持つ。熱は怒りの熱に近い。怒りという言葉は使わない。代わりに、視線が逸れない。逸れない視線は、止まらない視線だ。
「あなたが遺品になるなら」
私は言った。言葉が乾いている。乾いた言葉は刃物みたいだ。
「私が片づける」
一条が一瞬、目を閉じた。閉じた瞼が震えた。震えは笑いではない。震えは、痛みと安堵が混ざった震えだ。
「仕事の言葉で言うなよ」
「仕事です」
「便利だな、それ」
一条が笑った。笑って、咳き込んだ。咳き込んだ瞬間、祠の札がひとりでに震えた。震えは風の震えではない。紙の繊維が逆立つ震えだ。
墨が、滲んだ。
滲み方が、消える滲み方だ。濃くなるのではなく、薄くなる滲み。薄くなる滲みは、剥がされている。
男が叫んだ。
「今です。保護します。動かないで」
男が近づこうとして、足が止まった。足が止まるのは、土の上に黒い線が走ったからだ。黒い線は煤だ。煤が風の形で地面を這う。這う煤は、生き物のように避ける。避ける煤は、目的がある煤だ。
「制御できていないのか」
私は男に言った。言い方は淡々としていた。淡々としていないと、声が上ずる。上ずる声は現場を揺らす。
男の顔色が変わった。変わる色が薄い。薄い変化は、彼も分かっていないということだ。
「違う。想定外です」
想定外。制度の言葉が弱くなる。弱くなると、現場の方が強い。
祠の札が、ぺり、と音を立てた。
剥がれる音。紙が木から離れる音。離れると、そこに空白が残る。空白は、終わりの空白ではない。存在の空白だ。
一条の影がさらに薄くなった。薄くなる速度が早い。早いのは、剥がれが進んだからだ。
私の手袋の内側が熱くなった。熱くなる手袋の中で、煤が動く。動く煤が、一条の方へ流れようとする。流れるのは、引かれているからだ。引いているのは、名を剥ぐ力だ。
私は自分の手を強く握った。握ると爪が掌に食い込む。食い込む痛みが、痺れを割る。割れた痺れの隙間で、煤の流れが少し止まる。止まるのは、私の身体が現実に戻ったからだ。
一条が私の手を見た。
「馬鹿」
馬鹿の言い方が弱い。弱い馬鹿は、止める馬鹿だ。
「止めない」
私は言った。止めないのは手順だ。手順を守ることで、歪みを減らす。
札がもう一枚、剥がれた。
剥がれた札が、空中でひとりでに折れた。折れた紙が黒く染まる。染まる黒は煤の黒だ。煤が紙を食っている。
「下がれ」
一条が男に言った。男は動けない。動けないのは恐れではない。現象が足を止めている。止めているのは煤だ。煤が足元に絡む。絡む煤は、風ではない。糸だ。
私は祠に近づいた。近づくと、空気が冷える。冷えるのは火が消えた冷えではない。存在が薄くなる冷えだ。薄くなると熱が奪われる。奪われる熱が、指先の感覚を鈍らせる。
祠の中に、欠けた鈴があった。第五話で触れた鈴と同じ系統の欠け方。欠け方は似る。似る欠け方は同じ死に方だ。
鈴に触れれば、さらに断片が来る。断片が来れば、私は臨界に近づく。近づけば、私は崩れる。崩れれば、一条を片づける前に、私が歪む。
それでも触れないと、手順が立たない。
私は手袋を外さなかった。代わりに、封印用の布を出した。布は白い。白い布は、汚れが見える。見える汚れは管理しやすい。
布を鈴にかぶせ、布ごと持ち上げた。持ち上げると、布の上に黒い点が滲んだ。点が滲む速度が早い。早い点は、煤が強い。
一条が息を吸った。吸う息が浅い。浅い息は、ここが限界だという合図だ。
「朔」
一条が私を呼んだ。呼ぶ声が薄い。薄い声は急いでいる声だ。
「終わらせろ」
終わらせろ。命令の形をしている。命令の形にしないと、彼は言えないのだ。頼む、という形にすると、私が揺れる。揺れると手順が崩れる。
私は頷いた。頷きは小さく。小さい頷きは確定だ。
その瞬間、祠の札の墨が、じわ、と落ちた。落ちた墨が土に染みる。染みた墨が、黒い線になる。黒い線が、笑うように曲がる。曲がる線は、断片で見た流れ方と同じだ。
私の喉が乾いた。乾きが、声を作る前に止める。
男が言った。
「最後の案件です」
声が震えている。震えは恐れではない。責任の震えだ。
「神じゃない。人間の遺品です」
私は硬直した。硬直は足から来る。足の裏が冷える。冷えが背中を上る。上った冷えが、喉を締める。締まった喉で息を吸うと、土の匂いが刺さる。
一条が薄く笑った。笑いが、今度は途切れない。途切れない笑いは覚悟の笑いだ。
「お前、そっちが一番苦手だろ」
私は答えなかった。答えられる言葉がない。ない言葉の代わりに、私は布で包んだ鈴を封印箱に入れた。入れる手順は正しい。正しい手順は、私を支える。
男が続けた。
「場所は病院です」
病院。第七話の匂い。消毒の匂い。温い空気。子どもの声。折り紙。明日が来ない明日。
私は息を吐いた。吐く息が白い。白い息が、今日は途切れない。途切れないのは、ここが外だからだ。外の風が息を運ぶ。運ぶ風があるうちは、まだ終わりは押し戻されない。
「行きます」
私は言った。言い方は淡々と。淡々としないと、声が割れる。割れた声は煤になる。
一条が頷いた。頷きが小さい。小さい頷きが、薄い。
帰り道、寺の石段を下りるとき、一条の足音が半拍遅れた。遅れた足音は、影の遅れと同じだ。影がついてこない。ついてこない影は、名が剥がれている影だ。
私は手袋を嵌め直した。嵌める手が震えている。震えは寒さの震えではない。痛みを止める震えだ。
町家に戻ると、机の上の封筒が増えていた。依頼が増える。増える依頼は煤を増やす。増える煤は、私の指先を荒らす。
一条は畳に座る前に、壁に寄りかかった。寄りかかり方が雑だ。雑な寄りかかりは、力が残っていない寄りかかりだ。
「寝ますか」
私は聞いた。
「寝たら消えそうだ」
一条が言った。言い方が軽い。軽いのに、目が笑っていない。
私は封印箱を抱えた。箱の重みが腕に残る。残る重みが現実だ。現実を抱えていないと、私は断片に引きずられる。
「明日」
私は言った。明日という言葉が口から出た。出た瞬間、喉が痛んだ。痛みは、第七話の折り紙の痛みと似ている。
「明日、病院に行きます」
一条が目を閉じた。閉じた目の睫毛が、薄い影を落とした。影は、まだある。あるうちは終わっていない。
「病院、嫌いだよな」
「仕事です」
「それも便利だな」
私は道具棚を見た。記録帳が並ぶ。封印布が畳まれている。分類札が束になっている。手順が、そこにある。手順があるうちは、私は壊れない。
夜が来た。
町家の外の路地は静かだ。静かさの中に、遠くの寺鐘が一つ鳴った。鳴り方が遅い。遅い鳴りは、冬の音だ。冬の音は、空気が薄い音だ。
一条が突然、声を上げた。
「おい」
声が掠れている。掠れが急だ。急な掠れは危険だ。
私は畳を蹴って立ち上がった。蹴った畳の音が、いつもより鈍い。鈍い音は、私の耳が疲れている証拠だ。
一条の影が、床から浮いた。浮いたのではない。床に落ちるべき影が、壁に逃げた。逃げた影は薄い。薄い影が、裂け目みたいに揺れる。
「来た」
一条が言った。喉が鳴る。鳴る喉は、痛みを堪えている。
机の端の手袋が、ひとりでに動いた。動くはずがない。動くのは、煤が流れているからだ。煤が手袋の縫い目を伝って、床に落ちる。落ちた煤が、線になる。線が、寺で見た曲がり方をする。
笑うように。
私は封印箱を開けた。開けると、白い布が見える。白い布を掴む。掴む指先が痺れる。痺れを無視して、布を一条の影に投げた。
布が影に触れた瞬間、布の端が黒く染まった。染まりが早い。早い染まりは、時間がない。
一条が笑った。笑いが薄い。薄い笑いの奥で、唇が震えている。
「お前、俺を包むの上手いじゃん」
「黙って」
私は言った。言った声が低い。低い声は、怒りに近い声だ。怒りという言葉は使わない。代わりに、声が低くなる。
布を二重に巻いた。巻く手順は、遺品の封印と同じだ。遺品の封印と同じ手順で、相棒を包む。包む行為は、片づけの前段だ。前段のうちに、私は揺れる。
一条が私の手首を掴んだ。掴む力が弱い。弱い力で、彼は言った。
「朔」
私の名を呼ぶ声は、初めて聞いた気がした。聞いたことがあるのか、ないのか、分からない。分からないのは、私が今まで聞かないようにしていたからだ。
「片づけるなよ」
第四話の言葉が戻る。戻る言葉は、刺さる。
私は手を止めなかった。止めたら歪む。歪ませないために手順を続ける。手順を続けるために、私は言った。
「片づけません。歪ませません」
言葉が増えた。増えた言葉は危険だ。危険なのに、必要だった。
床の煤の線が、壁へ伸びた。伸びた線が、神棚の方へ向かう。町家の小さな神棚。そこに、何かが引っかかる。
紙が一枚、落ちた。
記録帳の栞の紙だ。紙に書いた墨が、薄くなる。薄くなる墨は、名を剥がす薄さだ。
私は歯を食いしばった。食いしばると顎が痛む。痛みで現実に戻す。戻すと、手が動く。
一条の影の上に、封印札を置いた。置く札が震える。震える札に、私は指で押さえつける。押さえつける指が熱い。熱いのは煤の熱だ。
一条が息を吸った。吸う息が浅い。浅い息が、途切れた。途切れた瞬間、彼の輪郭が一段薄くなった。
私は布の結び目を強く締めた。締める結び目は、縄の結び目だ。縄は縛りだ。縛りは救いにも歪みにもなる。歪みにしないために、私は結び目を手順通りに作る。手順通りの結び目は、終わりを歪ませない結び目だ。
床の煤が、止まった。
止まった煤の上に、黒い点が残った。点は、生き物の目みたいに見える。見えるのは錯覚だ。錯覚でも、見えるものは記録する。
私は記録帳を取りに行き、震える手で点の位置を描いた。描くと現実になる。現実になれば、対処ができる。
一条が畳に座り直した。座り直す動作が遅い。遅いのに、今は倒れない。
「今の、何だ」
男がいない。男は同行していない。ここは私たちの現場だ。現場は私が答える。
「名を剥ぐ術」
私は言った。断定はしない。断定すると固定される。固定は歪みになる。
「術じゃなくて、現象かもしれない」
一条が言った。言い方が苦い。苦い言い方は、覚悟の言い方だ。
「どっちでもいい。来るなら、対処する」
私は言った。言葉が硬い。硬い言葉は、私の逃げだ。逃げでも、必要だ。
一条が私の手を見た。掌に爪の跡が残っている。赤い。赤い跡は、血がまだある証拠だ。私の血はまだ濃い。濃い血があるうちは、私は踏ん張れる。
「お前さ」
一条が言った。声が少し戻っている。戻っている声は、危機が一旦去った証拠だ。
「明日、病院で人間の遺品って、何だよ」
「分からない」
「分からないのが一番嫌いだろ」
私は答えなかった。嫌いかどうかを言うと感情になる。感情語は禁句寄りだ。代わりに、私は道具を並べた。分類札、封印布、記録帳、手袋の予備。並べると、明日が手順になる。手順になれば、明日は来る。
一条が小さく笑った。
「来いよ。明日」
命令みたいに言った。命令みたいに言うのは、頼みたくないからだ。頼む形にすると、終わりが近づく。
「行きます」
私は言った。言い切ると喉が痛い。痛い喉で、私はそれでも言い切った。
夜の底で、京都の寺鐘がもう一つ鳴った。鳴り方が遠い。遠い音は、世界が広い音だ。世界が広いなら、終わりはまだ固定されない。
机の端の手袋の黒さが、ほんの少し薄く見えた。薄く見えたのは錯覚かもしれない。錯覚でも、薄い変化は記録する。
私は記録帳に、今日の日付と、祠で見た断片の内容を、断片のまま書いた。名前は書かない。名を固定すると剥がされる。剥がされるなら、こちらが先に固定しない。
最後に、私は短く書いた。
次の案件。人間。
文字が乾くまで、私は手を動かさずに待った。待つ間、喉の乾きが少し戻った。戻った乾きは、眠りの乾きだ。眠りに入る乾きは、まだ生きている乾きだ。
一条が畳に横になった。横になる影は薄い。それでも、影はまだある。
私は灯りを落とした。暗くなると、影はさらに薄く見える。見える薄さに目を奪われないように、私は目を閉じた。
明日が来る。来るなら、片づける準備をする。歪ませない準備をする。
それが私の仕事だ。
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