第12話「神殺し――真実を抱える方法」

 朝が来ても、店のシャッターが上がらなかった。


 商店街の端から端まで、金属の鎧みたいなシャッターが並んでいる。いつもなら誰かが一枚だけでも上げる音がする。今日はしない。代わりに、救急車の音だけが遠くで繰り返された。近づいて、遠ざかって、また近づく。音が往復するたびに、空気が同じ場所を踏み直す。


 人は倒れていた。


 派手な倒れ方じゃない。走り出して転ぶとか、叫んで崩れるとか、そういうのじゃない。椅子に座ったまま、首が少し落ちる。玄関のたたきで靴を揃えたまま、手が止まる。横断歩道の手前で、信号を待つ姿勢のまま膝が抜ける。眠るように倒れて、起きない。


 顔を覗き込むと、目は開いていることが多い。開いているのに、見ていない。夢の中だけが濃くて、現実の輪郭が薄くなっている目だった。


 私は交番に走った。第七話の朝と同じ道を、今はもっと速く。息が切れる。息が切れるのは走ったからだけじゃない。喉が狭い。言葉が通り道で引っかかる。社の前で感じたあの圧が、街全体に広がっている。


 巡査は机に手をついたまま、動かなかった。目が焦点を結ばない。書類は出ている。ペンもある。仕事の形だけが残っている。


「大丈夫ですか」


 私の声が自分の耳に遠い。巡査は少しだけ頷いた。頷いたのに、何も答えない。答えないのは拒絶じゃない。答えるための言葉が、喉で止まっている。


 外に出ると、子どもの泣き声が聞こえた。泣き声が聞こえたことに安心した。安心した瞬間、泣き声がふっと消えた。泣き止んだんじゃない。泣くための息が途切れたみたいに、音だけが切れた。


 私は立ち止まった。立ち止まると、救急車の音が近くで曲がる。角を曲がった車体が見える。車体の白が目に刺さる。刺さるのに、目が乾いている。


 封印が緩んだ。


 そう思った。


 昨日、神の昔話を聞いた。最大の真実に触れかけて、止まった。止まったのに、街は鳴った。鈴は余韻を残した。余韻が残るということは、まだどこかで引っかかっているということだ。


 引っかかりが、今朝、抜けた。


 言葉にならないままの真実が漏れている。漏れたものは、誰の耳にも入っていない。SNSに拡散されてもいない。なのに、街が同じ夢を見ている。夢が同じということは、恐れが同調しているということだ。


 人は言葉より先に、空気でうつる。


 私は喫茶店へ向かった。店主がいるはずだと思った。あの人は倒れない。倒れないというより、倒れる前に手順を作る人だ。


 喫茶店は閉まっていた。看板灯は消えている。ガラス戸の向こうに椅子が逆さに上がっているのが見える。昨夜のまま。生活が途中で止まっている形。


 戸に触れると、冷たい。冷たいのに、指先が熱い。熱いのは、焦りだ。焦りは語る側の興奮に似ている。私は息を吐いて、扉の前で立ち尽くした。


 鈴の音がした。


 振り向くと、神がいた。商店街の真ん中、誰もいない道の真ん中に、いつもの軽さで立っている。軽さが今日だけは不気味だった。軽さはこの街の制度だ。軽い言葉に変えて、生きるために軽くする。なのに今、軽さが追いついていない。


「始まったね」


 神が言った。


 私は言い返したかった。始まったじゃない。あなたが始めた。あなたが止めてきた。あなたが隠してきた。言い返す言葉はたくさんあった。どれも刃だ。刃は、今、街に落とすべきじゃない。


「封印が緩んだの」


 私は短く聞いた。問いは刃になる。だから確認だけにする。


 神は頷いた。


「緩んだ。君が止めても、君が止まっても、もう緩むところまで来てた」


「どうして」


 言葉が喉に引っかかる。喉が乾く。私は唾を飲んだ。飲んだ唾が痛い。


 神が言う。


「真実は溜まる。溜まると、圧になる。圧は、どこかから漏れる」


 私は目を閉じた。閉じると夢のほうが濃くなる。だから開けたまま、神を見る。神は私を見る。乾いた目が揺れる。


「救急車が走ってる」


 私は言った。事実だけを置く。責めない。責めると、私は語る側に戻る。


 神は一瞬だけ眉を寄せた。


「死なせたくない」


 神が言った。


 その言葉はずるい。ずるいのに、私は反論できない。死なせたくない、は私も同じだ。


「じゃあ、止めて」


 私は言った。


 神は首を振った。


「止められない。俺は薬だ。用法を間違えたまま、飲み続けた薬だ。副作用が来た」


 私は息を吸って、吐いた。吐いた息が少し震える。震える息で、言葉を揃える。


「場を作る」


 私は言った。


「共同で受け取る場所を、今日、作る」


 神が目を細めた。怯えと苛立ちが混じる顔。


「今から?」


「今から」


 私は答えた。今から、は乱暴だ。乱暴だけど、救急車の音が乱暴に時間を削っている。


「どこで」


 神が言う。


 私は商店街の空き店舗を思い出した。閉店した服屋。シャッターの鍵は、町内会が持っているはずだ。町内会が持っているなら、奪うことになる。奪うと私刑に見える。私刑は肯定しない。肯定した瞬間に、作品は落ちる。私は自分の考え方を口に出さずに、足を動かした。


 町内会の集会所へ向かった。歩きながら、倒れている人を見た。倒れている人の靴が揃っている。揃っている靴が痛い。生活の手順の途中で落ちた人の靴。


 集会所の扉は開いていた。中に入ると、若い町内会の男が床に座っていた。第九話で私を押し倒した若手だ。今日は暴力の顔じゃない。恐怖の顔だった。手が震えている。膝を抱えて、呼吸が浅い。浅い呼吸で、言葉が出ない。


 幹部が奥にいた。机の上に名簿と鍵束が置かれている。鍵束の金属が、蛍光灯の下で冷たく光る。


「真琴さん」


 幹部が言った。声は低い。低いのに、叫ばない。叫ばないから怖い。叫ぶより、運用の声だ。


「今朝は」


 幹部は言葉を探すみたいに少し止まった。


「今朝は、想定より早い」


 想定。運用。危機管理。陰謀じゃない。恐怖の経験則だ。


「封印が」


 幹部が言いかけた。喉が詰まる。言葉が変換される前に、口を閉じた。


 私は言った。


「鍵を貸して」


 幹部の目が動いた。鍵束に視線が落ちる。


「何をするつもりです」


「場を作る」


「場」


 幹部が繰り返した。繰り返すのは、理解しようとしているからだ。理解しようとする人は、敵じゃない。運用者だ。


「集会ですか」


「集会じゃない」


 私は首を振った。


「受け取る場。犯人探しをしない。断罪をしない。拡散をしない。今夜決めるのは明日生きる手順だけ」


 幹部の眉がわずかに動いた。私はその小さな動きを見逃さない。小さな動きは、制度が変わる前兆だ。


「あなたは」


 幹部が言った。


「そういうことを言う人だと分かっていました」


 私は言い返さなかった。分かっている、と言われると、役を与えられた気がする。役は燃料になる。私は役にならない。


「鍵を」


 私はもう一度言った。


 幹部は鍵束を見た。見てから、私を見た。


「鍵を渡したら」


 幹部が言う。


「あなたが壊した責任は、誰が取ります」


 責任。第八話で神が刺した言葉。責任は人を殺す。責任を取ると言った瞬間に、自分を正義にする。正義は暴走する。私は息を吐いて、言葉を選んだ。


「責任を一人にしない」


 私は言った。


「私が全部背負わない。あなたに全部背負わせない。町内会に全部背負わせない。受け取った人が一人にならないようにする」


 幹部の目が少し細くなった。笑いではない。計算の目だ。運用者の目。


「それでも」


 幹部が言った。


「共同は、共同責任になる」


 私は頷いた。否定しない。否定すると説教になる。


「なる」


 私は言った。


「だから、断罪を禁止する」


 幹部は黙った。黙りは拒否じゃない。重さを測っている。


 そのとき、床に座っていた若手が小さく声を出した。


「また、あの年みたいになる」


 あの年。最大の真実の中心。喉が乾く。私は若手を見た。若手の目は赤い。泣いていないのに赤い。眠っていない赤。


「ならないようにする」


 私は言った。言い切ると嘘になる。嘘は薬だ。用法がいる。


「ならないように、今夜は手順だけにする」


 幹部が鍵束を持ち上げた。金属が鳴る。小さな音が、妙に大きい。


「空き店舗は」


 幹部が言う。


「服屋でいいですか」


 私は頷いた。


「椅子が必要」


「椅子なら、集会所にあります」


 幹部が言った。運用が動いた。私はその事実に息が少し入るのを感じた。


 空き店舗のシャッターを上げる音は、今日、街で最初の生活の音だった。金属が軋む。埃が落ちる。埃の匂いが鼻に入る。店の中は空っぽじゃない。壁に色褪せたポスターが残っている。床に薄い埃。ここにも生活があった。生活がなくなった場所に、今夜、生活を戻す。


 私は椅子を並べた。並べながら、手が震えるのを感じた。震える手で椅子を持つと、金属の冷たさが掌に刺さる。刺さる冷たさは、現実だ。現実は逃げ道じゃない。


 店主が来た。喫茶店の鍵を持ったまま、息を切らしている。店主の髪が少し乱れている。乱れているのが珍しい。あの人も今朝は手順が追いついていない。


「真琴さん」


 店主が言う。


「やるんですね」


「やる」


 私は短く答えた。短く答えると迷いが少し減る。迷いは必要だ。でも今は足を止める迷いじゃなく、刃をしまう迷いが必要だ。


 入口に紙を貼った。太いマジックで書く。字が震える。震える字は弱い。でも弱い字がいい。強い字は説教になる。


 私は書いた。


 今夜は犯人探しをしない

 今夜決めるのは明日生きる手順だけ

 持ち出さない 拡散しない

 一人にならない ペアを組む


 紙を貼ると、場ができた気がした。気がしただけで、まだ空っぽだ。空っぽの場は、これから埋まる。埋まるときが怖い。埋まるときに、閾値を超える。


 神が入口に立った。鈴は持っていない。持っていないのに、鈴の気配がする。契約が喉を見ている気配。


「人を集めたら」


 神が言った。


「人は共同責任に耐えられない」


 私は椅子を置きながら答えた。


「耐えられないのは分かってる」


「分かってるのに、やる」


「やる」


 神の言葉は刃になる。私も刃で返したくなる。返したら負ける。私は椅子の脚を床に揃える音に集中した。音は一定だ。一定の音は落ち着く。


「共同は」


 神が言う。


「正しさの押し付け合いになる。誰が悪いか、誰が黙っていたか、誰が逃げたか。そういう話になる」


「そうなる」


 私は頷いた。


「だから、今夜はその話をしない」


 神が眉を上げた。意外そうな顔。


「人は」


 神が言う。


「話したくなる」


「話させない」


 私は言い切れなかった。言い切ると支配になる。私は言い直した。


「話がそこに行ったら、戻す。明日の買い物、子どもの送り迎え、仕事、病院。生活の手順に戻す」


 神が黙った。黙りの中に、少しだけ揺れがある。揺れは怯えだ。私が制度を作り始めていることへの怯え。


 最初に来たのは、倒れかけた若い母親だった。子どもを抱いている。子どもは泣かない。泣かないのに、目が乾いている。乾いた目で母親の顔を見ている。母親の頬に手を当てて、何かを確かめるように触れている。子どもは何かを知っている。でも言葉にならない。


 母親は椅子に座る前に、入口の紙を読んだ。読んで、少し肩が落ちた。落ちた肩が、安心か、諦めか分からない。


「今夜は」


 私は母親に言った。


「明日生きる手順だけを決める」


 母親は小さく頷いた。頷いた瞬間、目が少し潤んだ。潤みは涙じゃない。呼吸が戻る前兆だ。


 次に来たのは、町内会の若手だった。今朝、集会所で床に座っていた男。幹部に背中を押されるように入ってきた。男は椅子に座ると、膝の上で手を握りしめた。指が白い。


「今夜は犯人探しをしない」


 店主が紙を指で叩いた。


「守れるか」


 若手は頷いた。頷きが大きい。大きい頷きは危うい。私は視線だけで店主に合図した。店主は黙って、若手の隣に椅子を置いた。ペアを組む。背負いを一人にしない。


 人が少しずつ増えた。倒れない人もいる。倒れそうな人もいる。目が開いているのに夢を見ている人もいる。救急車の音はまだ遠くで続いている。


 私は椅子の真ん中に立った。立つと、視線が集まる。視線が集まると、私は語る側に戻りやすい。戻らない。戻らないために、ルールを先に置く。


「今夜は」


 私は言った。声が掠れた。掠れた声は弱い。弱いのは今夜の場に合っている。


「犯人探しをしません。誰が悪いかを決めません。今夜決めるのは、明日生きる手順だけです」


 誰かが小さく笑った。笑いは軽口じゃない。緊張が少し緩んだ笑いだ。緩むと危険もある。緩んだ隙に真実が漏れる。私は続けた。


「語られたことは持ち出しません。ここで聞いた話を、外で武器にしません。誰も一人になりません。隣の人と、帰り道まで一緒にいます」


 人が頷いた。頷きがゆっくりだ。ゆっくりな頷きは、受け取る側の頷きだ。


 神が後ろの壁にもたれている。もたれているのに、影が薄い。光のせいじゃない。輪郭が薄い。


「それでも」


 神が言った。私に向けてじゃない。場全体に向けて言った。


「真実は重い」


 喉が乾く。私は唾を飲んだ。飲んだ唾が痛い。


「重い真実は、喉を裂く」


 誰かが肩を震わせた。涙かもしれない。恐怖かもしれない。私は神の言葉に反論しない。神はルールを言語化した人だ。否定すると、説教になる。


 私は言った。


「重い真実は、分けます」


 分ける。分けるという言葉は優しく見える。残酷でもある。分けられない痛みがある。でも今夜は分ける以外に、倒れない方法がない。


「ひとつずつ」


 私は言った。


「断片で、止めながら。息が浅くなったら止めます。誰かが倒れそうになったら止めます」


 神が目を細めた。反論が来ると思った。来なかった。神は小さく言った。


「試すんだ」


 私は頷いた。試す。中毒性のある言葉。攻略法が見える回。第六話の目的。今は最終話だ。攻略法が見えるということは、次に繋がるということでもある。


 私は封印の場所へ行く必要があった。封印は社の奥にある。社の奥は息が浅くなる。だが、今、封印は街全体に漏れている。奥に行かなくても漏れは止まらない。なら、奥に行く理由はひとつだ。漏れている真実を、場に合わせて分割するため。


 私は店主と幹部に視線を送った。二人は頷いた。若手が立ち上がりかけた。立ち上がりかけたのを、幹部が手で制した。幹部が若手の肩に手を置く。置く手が重い。重い手は、抱える手だ。


 私は神を見た。


「来る?」


 神が笑った。笑いが乾いている。


「君に頼まれる日が来るとは」


「頼んでない」


 私は言った。言い方が尖った。尖ると刃になる。私は言い直した。


「あなたの制度の話だから」


 神は少しだけ頷いた。


「一緒に行く」


 社へ向かう道は、昼でも薄暗かった。今日はさらに暗い。空が曇っているわけじゃない。空気が濃い。息が入らない。喉が狭い。唾が出ない。皮膚が粟立つ。歩くたびに足が重い。足が重いのに、背中が浮く。倒れる前の体の感じ。


 封印の前に立つと、石の表面が湿っていた。苔が濃い。苔の匂いが鼻に入る。匂いが入ると、少しだけ現実に戻る。現実に戻ると、石に刻まれた文字が読める。


 私は全部を読まなかった。読んだら喉が裂ける。要点だけを拾う。断片で。息が浅くなったら止める。


「真実は血を呼ぶ」


 文字の一部が目に入っただけで、胸が詰まる。血という単語は生活の匂いを持たない。生活の匂いを持たない単語は危険だ。私は目を逸らして、石の冷たさに手のひらを当てた。冷たさで現実に留まる。


 封印の隙間から、声が聞こえた。


「真琴さん」


 写真家の声だ。生きている声。生きている声は、息の証拠だ。


「ここにいる」


 私は喉が詰まって答えられなかった。答えたら、その一言で真実が漏れる気がした。私は手のひらを石から離して、息を吐いた。


 神が封印に近づいた。鈴は持っていない。持っていないのに、石の表面が少し震えた。契約が神を認識している。


「喋るな」


 神が封印に向かって言った。中の写真家に言ったのか、石に言ったのか分からない。


「喋ったら、街が倒れる」


「喋らない」


 写真家の声が返った。短い。短い返事が、受け取る側の返事だった。


 私は神に聞いた。短く。


「最大の真実って、何」


 神は私を見た。目が乾いたまま、少し柔らかい。


「君の名前だよ」


 神が言った。


 胸が落ちた。落ちた胸の底に、冷たい水が溜まる感じ。名前。名簿の端にあった私の姓。封印の中に刻まれた私の名前。私がここに来たのは偶然じゃない。偶然じゃないと分かった瞬間に、私は語る側の興奮に戻りやすい。戻らない。戻らないために、生活に戻す。


「今夜は」


 私は自分に言い聞かせるみたいに言った。


「明日生きる手順だけ」


 神が頷いた。頷きが小さい。小さい頷きが、今日の神の疲れだ。


 私たちは戻った。空き店舗の場へ。戻る途中、倒れていた人が少し起き上がっているのを見た。起き上がって、空を見ている。空を見ても意味はないのに、空を見る。空を見るのは、呼吸を確かめる行為だ。呼吸が戻ってきている。


 場に戻ると、人が増えていた。椅子が足りない。床に座っている人もいる。床に座っている人は、目が怖い。怖い目は刃を探す目だ。私は刃を渡さない。


 店主が私の顔を見た。言葉を待っている。私は頷いた。始める。


「分けます」


 私は言った。


「ひとつめの断片」


 断片と言った瞬間、胸が少し軽くなった。全貌を言わない。全貌を言わないことで、喉を守る。喉を守ることで、場が続く。


「昔」


 私は言った。昔という言葉は曖昧だ。曖昧は余白だ。余白は説教を避ける。


「この街で、大きなことが起きた」


 誰かが息を飲んだ。息を飲む音が小さく聞こえた。私は止めない。まだ閾値を超えていない。


「誰かが悪かったんじゃない」


 私は続けた。ここで善悪にすると、断罪になる。断罪は禁じた。


「全員が、怖かった」


 怖かった、という感情語を使った。節約して使う。ここは必要だ。怖さが制度を生む。


 場の空気が少し動いた。肩が落ちる人がいる。目を閉じる人がいる。閉じた目が夢に落ちないように、私は生活に戻す。


「怖くて」


 私は言った。


「逃げた」


 逃げたと言うと責めに聞こえる。私は言い直した。


「守る手順を探した」


 守る手順。制度の言葉。私は続ける。


「その手順は」


 私は一度息を吸った。息が浅い。浅い息を深くするために、床を見た。埃。椅子の脚。靴の先。生活のもの。


「弱い人に、重さを置いた」


 二つめの断片に入る。場の空気が少し重くなる。誰かが泣き声を出しそうになる。泣き声は悪くない。泣き声は息だ。でも泣き声が叫びに変わると刃になる。私は言葉を短く切った。


「責任」


 私は言った。


「沈黙」


「見ないふり」


 単語だけを置く。単語は刃にもなる。だから次に生活を置く。


「店を続けるために」


 私は言った。


「子どもを学校に行かせるために」


「借金を返すために」


「病院に通うために」


 生活の具体が出ると、場が少し落ち着く。人は理念より、明日の買い物に呼吸を戻す。


「そうして」


 私は言った。


「街は、一度壊れた」


 三つめの断片。ここで閾値が近づく。壊れたと言うと、終わったように聞こえる。終わっていない。壊れたあとに、制度が生まれた。私は続けた。


「家族が割れた」


「店が潰れた」


「人が去った」


 誰かが椅子の背を掴んだ。指が白い。白い指は、倒れる前のサインだ。


 店主が立ち上がり、椅子の背を掴んだ人の隣に座った。黙って座る。黙って座ることがペアだ。


 私は言葉を止めた。


 止めることが成長だ。第十一話で私は止めた。今日は場全体で止める。


「今」


 私は言った。声を少し落とす。落とした声は、人を前のめりにさせる。前のめりは危険だ。私は視線を床に落として、あえて間を置いた。


「今夜決めるのは」


 私は言った。


「明日生きる手順だけ」


 その言葉で、呼吸が戻る音がした気がした。実際の音じゃない。肩が少し動く。胸が少し動く。動きが戻る。


「明日」


 私は続けた。


「誰が、誰を迎えに行く」


 母親が顔を上げた。子どもの目が少し潤む。潤むのは泣きじゃない。現実が戻ってきた潤み。


「明日」


 私は言った。


「店を開けるかどうか」


 商店街の人が小さく頷いた。店を開けるという行為は、街の呼吸だ。


「明日」


 私は言った。


「一人でいないために、誰と会うか」


 若手が唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。白い唇は、言葉が出そうなサインだ。私は若手を見た。若手は視線を逸らした。逸らすのは逃げじゃない。今夜は断罪しないという約束を守るための逸らし方だ。


 神が壁にもたれている。輪郭がさらに薄い。私はそれを見た。見ても言わない。言うと刃になる。


 幹部が立ち上がった。幹部が立つと、場が少し固くなる。運用者が立つと、裁きが始まる気がする。幹部はそれを分かっているのか、声を低くして言った。


「町内会として」


 幹部が言う。


「今夜、責任の話はしない」


 若手が顔を上げた。若手の目が揺れる。揺れは恐怖と安堵の混ざった揺れ。


「代わりに」


 幹部が言った。


「倒れている人の家を回る。水と、毛布と、連絡先を持って」


 生活の手順が出た。場が動く。動くのは、制度の更新だ。


 私は頷いた。


「それでいい」


 私は言った。言うと上からになる。私は言い直した。


「一緒にやる」


 店主が言った。


「ペアを組みましょう」


 店主は紙を指した。


「一人で回らない。倒れている人を見たら、必ず誰かに声をかける。声をかけるのが怖いなら、ここに戻る」


 ここに戻る。戻る場所があることが、嘘の制度に代わる真実の制度だ。


 神が小さく笑った。乾いた笑い。


「人間は」


 神が言う。


「こういうときだけ、賢くなる」


 私は言い返したかった。いつだって賢くなれた。賢くなれなかったのは、制度がなかったからじゃない。私が語る側でいる快楽を捨てなかったからだ。捨てないと、また説教になる。私は神を見て、短く言った。


「今は、賢くなる」


 神が目を細めた。目が少し柔らかい。


 そのとき、場の奥で誰かが声を出した。


「封印の中にいる人は」


 声は震えている。震えた声は、刃にもなる。私は視線だけで止めようとした。止めると支配になる。私は別の方法で止める。


「今夜は」


 私は言った。紙を指した。


「明日生きる手順だけ」


 質問した人は唇を噛んだ。噛んだ唇が白い。白い唇の横で、隣の人が肩に手を置いた。肩に手を置くことが、共同で抱えるということだ。言葉より先に、手が制度になる。


 私は神を見た。神が一歩前に出た。前に出ると、場がざわつく。神はざわつきを抑えるように、声を落として言った。


「封印の中には」


 神が言う。喉が動く。神にも喉がある。


「写真家がいる」


 場が小さく揺れた。写真家。外の人。読者の分身。外部者が中にいるという事実は、街を相対化する。


「生きてる」


 神が言った。


 安堵の息が漏れた。漏れた息が、場を少し軽くした。軽さは悪じゃない。軽さは呼吸だ。


 私は神に向かって言った。


「じゃあ、出す」


「出せない」


 神は短く言った。


「出したら、最大の真実が漏れる」


 最大の真実。私の名前。私の過去。神の起源。街の契約の中心。


 私は息を吸った。吸った息が浅い。浅い息を深くするために、椅子の脚の音を思い出す。一定の音。生活の音。


「分ける」


 私は言った。神に向けて。


「最大の真実も、分ける」


 神が首を振った。


「分けても、閾値を超える」


「超えないように」


 私は言った。言い切ると傲慢だ。私は言い直した。


「超えないように、場で受け取る」


 神が私を見る。乾いた目が揺れる。揺れは恐怖だ。神が恐れているのは、私が正義を語ることじゃない。共同で抱える制度ができてしまうことだ。できたら、嘘の制度が役割を失う。


 私は神に言った。


「あなたを断罪しない」


 神の眉が動く。意外そうな動き。


「あなたは必要だった」


 私は続けた。必要だった、と言うのは免罪じゃない。機能の認識だ。


「でも、ここから先は違う」


 神が笑った。


「じゃあ、殺せ」


 殺せ、は暴力の言葉だ。暴力で終わらせたら、この物語はただの敵討ちになる。私は首を振った。


「殺さない」


 私は言った。


「終わらせる」


 神の目が細くなった。怯えがはっきり見えた。


 私は神に近づいた。近づくと、鈴の気配が濃くなる。契約のトリガー。第十話で確定した仕組み。鈴が鳴るたび、言葉が変換される。鳴らす人がいる限り、嘘の制度は続く。


 神の手元に鈴は見えない。見えないのに、私は鈴の位置が分かった。喉が覚えている。言いかけて止まる舌が覚えている。


「渡して」


 私は言った。命令じゃなく、生活の一手として言う。


 神が笑った。乾いた笑い。


「君が、持つのか」


「持つ」


 私は頷いた。持つということは背負うことに見える。背負うことが目的じゃない。鳴らさないために持つ。


 神が手を差し出した。手のひらが開く。そこに、小さな鈴があった。金属が光る。光が冷たい。冷たい光は、制度の光だ。


 私は鈴を受け取った。受け取ると、掌が重くなる。重いのは金属の重さじゃない。街の重さだ。喉の重さだ。受け取った瞬間、場の空気が一段動いた。誰かが息を飲んだ。息を飲んだのに、倒れない。倒れないのは共同で受け取っているからだ。


 私は鈴を見た。鳴らせば、今すぐ楽になるかもしれない。言葉を軽くできる。現実を軽くできる。薬は魅力的だ。魅力的だから危険だ。


 私は鈴を鳴らさずに、椅子の上に置いた。


 置いた瞬間、音はしなかった。音がしないことが、街の制度にとっては異常だ。異常が起きたのに、誰も倒れない。誰も叫ばない。沈黙がある。沈黙は強制じゃない。受け取る沈黙だ。


 神の輪郭が、薄くなった。


 光学的な薄さじゃない。存在の薄さ。そこにいるのに、そこにいる理由が薄くなる薄さ。


 神が自分の手を見た。手が透けたわけじゃない。でも、握る力が抜けている。役割が抜けたときの手だ。


「鈴が」


 神が言った。声が掠れている。神の声が掠れるのを初めて見た。


「鳴らない」


「鳴らさない」


 私は言った。言い切ると支配だ。私は言い直す。


「鳴らさなくても、呼吸を戻す」


 神が笑った。今度の笑いは、乾いていない。少しだけ湿っている。湿っている笑いは、人間の笑いに近い。


「なるほど」


 神が言った。


「俺の仕事がなくなる」


 私は頷いた。


「なくなる」


 神が私を見た。


「俺を、断罪しないのか」


「しない」


 私は答えた。短く。


「断罪したら、また燃える」


 神が小さく息を吐いた。吐いた息が白い気がした。白い気がしただけだ。白く見えるほど、神の輪郭が薄い。


 封印の方向から、声が聞こえた。


「真琴さん」


 写真家の声が、今度ははっきり聞こえた。はっきり聞こえるのに、誰も倒れない。場が受け取っている。街が受け取っている。分けている。抱えている。


「ここに」


 写真家が言った。


「あなたの名前が刻まれてる」


 場が揺れた。最大の真実の縁。喉が乾く。私は唾を飲む。飲んだ唾が痛い。痛いのに、倒れない。倒れないのは、隣の肩に手があるからだ。手が制度になる。


 私は言った。


「今夜は」


 私は紙を指した。


「犯人探しをしない」


 誰かが頷いた。頷きが小さい。小さい頷きが、受け取る頷きだ。


 私は続けた。


「私の名前が刻まれている理由は、今夜、全部は言わない」


 場の空気が少し緩む。全部を言わない。全部を言わないことが、今夜の安全だ。


「でも」


 私は言った。


「明日、生きる手順を決める」


 私は幹部を見た。幹部が頷く。


「封印の前に行く人は、ペアで」


 幹部が言った。


「一人で行かない。倒れたら、戻す。戻す場所はここ」


 店主が言った。


「コーヒーを淹れます。水も用意します。眠れない人は、ここで目を閉じていい」


 母親が小さく言った。


「子どもを」


 母親は子どもを抱き直す。


「明日、幼稚園に連れていけるようにしたい」


 誰かが言った。


「迎えに行きます」


 その言葉で、場が少しだけ温かくなった。温かさは説教じゃない。生活の手当てだ。


 若手が震える声で言った。


「俺は」


 若手は言葉を探す。言葉が出ない。喉が詰まる。私は待った。待つのは受け取る側の仕事だ。


「俺は、怖い」


 若手が言った。怖いという感情語。節約して、必要なところで出る。


「また、誰かが死ぬのが怖い」


 若手は言った。死という単語が場に落ちる。場が少し固くなる。私は生活に戻す。


「だから」


 私は若手に言った。


「明日、生きる手順を一緒に決める」


 若手の隣の人が肩に手を置いた。若手の肩が少し落ちる。落ちる肩が、呼吸の戻りだ。


 神は壁にもたれたまま、輪郭が薄くなっていく。薄くなるのに、消えない。役割が消えるだけで、存在が消えるわけじゃない。私はその違いを、手のひらの重さで知った。鈴はまだ椅子の上にある。鳴らせば、戻せる。戻せるという誘惑が残っている。誘惑が残っているのが、薬の怖さだ。


 神が言った。声が小さい。


「君は、記者をやめるのか」


 私は答えなかった。答えると宣言になる。宣言は説教になりやすい。私は事実だけを置く。


「今は」


 私は言った。


「聞く」


 神が目を細めた。


「聞く仕事」


 神が繰り返す。繰り返す声が少し柔らかい。


「それは、俺の仕事だった」


「違う」


 私は首を振った。


「あなたは変換した。私は抱える」


 神が小さく笑った。笑いがもう、ほとんど音にならない。


「抱えるのは、疲れるぞ」


「疲れる」


 私は頷いた。


「疲れるから、一人にしない」


 その言葉で、場の誰かが小さく息を吐いた。吐いた息が、今日、何度目かの呼吸の戻りだった。


 夜が明ける前に、救急車の音が少し減った。減ったのは、救われたからじゃない。走る必要が少し減っただけだ。完全には戻らない。完全に戻るという言葉は、嘘になりやすい。私は嘘を薬として使うことはあっても、万能薬にはしない。


 数日後。


 商店街のシャッターが、一本だけ上がった。次の日に、二本。三本。全部は上がらない。上がらない店もある。店の人は戻らないこともある。戻らない人の生活がある。生活は、それぞれの場所で続く。


 喫茶店は再開した。店主は椅子を上げる音を、いつもより丁寧に鳴らした。一定の音は、制度になった。


 町内会は、運用を変えた。標語は剥がされた。通信遮断は緩んだ。代わりに、空き店舗の場が残った。看板はない。看板を出すと、また燃料になる。燃料にならない形で、そこにある。


 神は、いなくなったわけじゃない。


 ただ、鈴を鳴らす役割が消えた。鈴は空き店舗の棚に置かれている。鳴らさない選択が続いている。続く限り、神は薄いままだ。薄いまま、街の端にいる。たまに、喫茶店の窓の外に影が見える。影は近づかない。近づかないのが、今の制度だ。


 私は記者に戻らなかった。


 戻らなかった、という言い方は逃げに聞こえる。私は事実を別の形で置く。私は記事を書かなかった。代わりに、空き店舗の椅子を並べた。並べて、ルールの紙を貼り替えた。紙は何度も貼り替えた。紙が汚れるのは、場が使われている証拠だ。


 ある日、スマホにメッセージが届いた。知らない番号。写真が一枚添付されている。


 海沿いの町の写真だった。空が広い。空の広さが、あの街と違うのに、写真の端が少し歪んでいる。歪みは、世界の継ぎ目の癖だ。私はその癖を知っている。


 短い文が続いた。


 ここでも、真実で人が死ぬ。


 送信者の名前はなかった。だが、添付された写真の片隅に、店の看板が写っている。文字の癖。撮り方の癖。あの写真家の癖だ。


 私は息を吸った。吸う息が、昔より深い。深く吸えるということは、喉が少し広がったということだ。広がった喉は、語る側に戻る危険も増える。私は慎重に息を吐いて、返信画面を開いた。


 指先が止まった。止まるのは迷いだ。迷いは必要だ。刃をしまうための迷い。


 私は文字を打った。


 今度は、最初から受け取る場を作る。


 送信ボタンの上で、指が少し震えた。震えは怖さだ。怖さは消えない。怖さが消えたら、私はまた正しさで人を押し潰す。


 私は送信した。


 スマホが小さく震えた。その震えは、通知の震えであり、私の手の中の生活の震えでもあった。


 窓の外で、商店街の鈴が鳴った気がした。実際には鳴っていない。鳴っていないのに、私は鈴の気配を思い出す。薬の気配。鳴らさない選択の重さ。


 私は空き店舗に向かった。椅子を並べるために。紙を貼り替えるために。誰かが倒れないために。倒れたときに一人にならないために。


 真実は武器にもなる。私はそれを知っている。


 でも真実は、手当てにもなる。手当てにするためには、抱える場所がいる。抱える場所は、誰か一人の正しさじゃなく、明日の買い物と、子どもの送り迎えと、毛布と、水と、隣の肩の手でできる。


 私はその手を、今度は最初から差し出す。


 そして差し出した手が、また誰かを傷つけないように、私は迷い続ける。迷いながら、椅子を並べ続ける。

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真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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