第11話「嘘つきの神の起源――最初の相談者」
夜の商店街は、昼より音が少ない。音が少ないと、余計な音が目立つ。自販機の冷却音。遠い国道のタイヤの擦れる音。どこかの家の風呂が沸く音。
喫茶店の看板灯だけが、湿った路面に白く反射している。店主は早じまいの札を出して、椅子をひとつひとつ机に上げた。椅子の脚が木に触れる乾いた音が、同じ間隔で続く。生活の作業の音だ。ここが安全だと、体が覚えている音。
私はカウンターの端に座った。いつもなら取材メモを開く場所だ。今日は開けない。開けたら、書いてしまう。書いたら、持ち出してしまう。持ち出したら、燃やしてしまう。燃えたら、誰が死ぬか分からない。
カップの縁に指を置くと、陶器の冷たさが手の熱を奪った。コーヒーはまだ注がれていない。注がれていないのに、匂いがする気がする。焦げの匂い。紙の匂い。あの社の苔の匂いが、鼻の奥に残っている。
神は店の入口に立っていた。戸の鈴が鳴らない。鳴らさないように入ってきたのか、鳴らないようにしたのか、区別がつかない。彼の足音も聞こえなかった。聞こえないのに、そこにいる気配だけがある。
店主が言った。
「ここなら、まだ息が入る。社の前は、息が浅くなる」
神が肩をすくめる。
「息が浅くなるのは、契約が喉を見てるからだよ」
私は言葉を飲んだ。喉という単語だけで、舌が少し乾く。
店主はカウンターの下から、紙の束を取り出した。古い名簿のコピー。写真家のSDカードに入っていたものだ。紙は薄い。薄いのに、持つと重い。紙の重さじゃない。名前の重さだ。
「今夜は、ここまで」
店主が束を引っ込める。私の視線が紙に吸い付くのを見て、止めた。
「話を聞くなら、順番を守ってください」
順番。生活の手順。私は頷いた。
神が私に向き直る。目が黒い。黒いのに、どこか乾いている。濡れた黒じゃない。
「条件がある」
神は言った。短い。いつもの軽口がない。
「断罪しない」
私は頷いた。
「拡散しない」
頷いた。
「今夜、君は受け取る側でいる」
私は頷きかけて、止まった。頷くのが簡単すぎて、怖い。簡単に約束をして、簡単に破るのが、私の癖だと分かっているからだ。
店主がカウンターを拭いた。布巾が湿っている。湿り気が木目を濃くする。
「受け取る側のルールは、言葉にしないと守れない」
店主が言う。
「断罪の材料にしない。今夜決めるのは生活の一手だけ。背負いを一人にしない」
私は唇を噛んだ。唇の内側が少し痛む。痛むのは、今夜の話が自分に刺さると分かっているからだ。
「守れる」
私は言った。言い切ると嘘になる気がして、声が少し小さくなった。
「守りたい」
神が目を細めた。笑いそうになって、笑わない。
「守りたい、はいいね。守れる、よりマシだ」
私は返せなかった。返したら、言い訳になる。
店主がコーヒーを淹れた。湯が落ちる音。豆の膨らむ音。香りが立つ。香りが立つと、息が少し深くなる。息が深くなると、言葉が出そうになる。言葉が出ると危ない。私はカップを両手で包んで、指先に熱を集めた。
神が言った。
「最初のころ、俺は嘘をつけなかった」
その言い方が、まるで人間の告白みたいで、背筋がぞわりとした。嘘をつけなかった、というのは、嘘を覚えた、の裏返しだ。
「嘘という発想がなかった」
神は続ける。
「人が知りたいと言えば、知るべきだと思ってた。知らないまま生きるのは不幸だと思ってた」
私は頷いた。そこは私と似ている。似ているのが嫌だ。
「真実は光だって、よく言うだろ」
神が言う。
「光は、影も作る。影のほうが濃くなることもある。俺は、それを知らなかった」
店主が黙って聞いている。店主の黙り方は、裁きじゃない。聞く側の黙り方だ。私はその黙り方を真似した。真似すると、心臓の音が目立つ。胸の中で、早い拍が鳴る。
「最初の相談者は」
神が言って、少し止まる。止まったのは、言葉を選んだからだろう。選ぶほど重い。
「告発された側でも、告発した側でもない」
喉が乾いた。私はコーヒーを一口飲んだ。熱が舌に触れて、少しだけ現実に戻る。
「中間にいた人間だった」
神が言う。
「巻き込まれたって言い方が、いちばん近い。だけど巻き込まれただけで済ませられない立場でもあった」
私は指先をカップの縁に沿わせた。滑らかな陶器。滑らかなものを触ると、手が落ち着く。落ち着くと、余計に言葉が入ってくる。
「君の過去の事件」
神が言った。
私は息を止めた。止めた息が胸の中で痛い。吐きたいのに吐けない。
店主がカウンターの上に、スマホを置いた。画面は伏せられている。そこにあるだけで、私は過去記事の文字列を思い出す。正しいタイトル。正しい文面。正しい刃。
「その事件に関わった人間だった」
神が言う。
「関わった、って言葉が軽いな。燃料になった。そう言ったほうが正しい」
燃料。私は一瞬で、遺族の姉の顔を思い出した。怒鳴らない声。淡々とした目。真実が人を救うなら、救われなかった人の分の責任は誰が持つの。
神が続ける。
「その人は、俺の店に来た」
私は眉をひそめた。
「店」
「ここみたいな場所」
神は喫茶店を見回す。
「人が相談に来る。言えないことを置いていく。言えないことを置いたまま帰ると、少しだけ息が戻る。そういう場所」
私は喉に手を当てた。息が戻る場所。嘘が薬だと言った神の声が、耳の奥で鳴る。
「その人は言った」
神の声が少し低くなる。
「真実を言われた。正しいはずなのに、俺は死にたい」
私は視線を落とした。カップの中のコーヒーが揺れている。自分の手が震えているのが分かった。震えを止めようとすると、余計に震える。
神は淡々と続けた。淡々としているのに、店の空気が少しだけ重くなる。
「当時の俺は、真実を否定できなかった」
神が言う。
「否定したら、嘘になる。嘘は悪だと思ってた」
私は頷きたい気持ちと、首を振りたい気持ちが同時に来た。嘘は悪だ。私は何度もそう書いてきた。そう書くことで、真実の側に立っている気がした。
「俺は言った」
神が言う。
「耐えろ」
その二文字が、店内で嫌な音を立てた気がした。実際に音は立っていない。耳が勝手に痛くなった。
「耐えろ、って言葉は便利だ」
神が言う。
「言った側は、正しくなれる。言われた側は、ひとりになる」
私はコーヒーをもう一口飲んだ。熱が喉を通る。喉が狭いまま、熱だけが通る。
「その人は帰った」
神が言う。
「数日後、死んだ」
店主が息を吐いた。吐く息の音が、布巾の擦れる音より大きく聞こえた。私は目を閉じかけて、開いた。閉じると逃げになる気がした。逃げたいのに逃げない。それが今夜の約束だ。
「死に方は」
私は聞きかけて、止めた。聞き方が刃になる。私は言い直した。
「残された側は」
神は一瞬だけ目を伏せた。
「残された家族が、俺の店に来た」
神が言う。
「母親だった。姉だった。恋人だった。誰が来たかは、ここではどうでもいい。来た、って事実だけが重い」
私は指先を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで現実に留まる。
「彼らは言った」
神が言う。
「真実を返して。あの人を返して」
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。熱いのに、涙は出ない。出たら楽になる気がする。楽になるのが怖い。楽になったら、私はまた語る側に戻る。
「返せない」
神が言う。
「真実は返せない。死も返せない」
神の声は淡々としている。淡々としているから、逃げ道がない。泣き声で誤魔化せない。
「そのとき、俺は初めて嘘を作った」
神が言った。
店主の手が止まった。布巾がカウンターに置かれる。湿った布が木に触れる音。
「嘘を」
私が小さく言うと、神は頷いた。
「あなたのせいじゃない」
神は言った。声が低い。低いのに、柔らかい。
私はその一文を、何度も記事に書いてきた。何度も誰かに言ってきた。便利な慰めの言葉。安い言葉。そう思っていた。
「その嘘で」
神が言う。
「家族は一晩だけ眠れた」
一晩だけ。そこが刺さる。永遠に救われるわけじゃない。眠った翌日も、生活は続く。朝は来る。会社はある。学校はある。洗濯物は溜まる。死は消えない。
「俺は理解した」
神が言う。
「真実は変えられない。でも、人の呼吸は変えられる」
呼吸。私は第九話の包帯の感触を思い出した。神が無言で手当てをした、丁寧すぎる手つき。救うって言葉が嫌いだと言いながら、死なせたくないと言った声。
「嘘は薬だ」
神が言う。
「用法を間違えると死ぬ。でも、痛みをゼロにはできなくても、息を戻すことはできる」
私は机の上の自分の指を見た。指先が少し白い。握っているからだ。握っているのは、逃げないためだ。
「その人は」
私は言った。最初の相談者。名前を聞きたい。名前を聞いたら、私は燃える。
神が先に言った。
「名は言わない」
短い拒否。刃がある。
「今夜の条件だ」
「条件に、そんなのは」
私は言いかけて、止めた。断罪しない。拡散しない。受け取る側でいる。今夜の条件に、確かに名は要らない。名は材料だ。名は燃料だ。
私は頷いた。
「その人は、どうして燃料にされたの」
私は聞いた。質問を制度に寄せる。個人の好奇心に寄せない。
神が答えた。
「真実は、物語になる」
「物語」
「筋が通る。敵ができる。味方ができる。役ができる」
神は言う。
「その人は、役を与えられた。悪役でも、被害者でもない。中途半端な役」
中途半端。私は過去記事を思い出した。中途半端な立場の人間は、どちらからも殴られる。正義の側からも、悪の側からも。中間は安全地帯じゃない。火口だ。
「役が中途半端だと」
神が言う。
「みんな、都合よく使う」
私は息を吐いた。吐いた息が、少し震える。震えるのは、理解してしまうからだ。私は都合よく使ってきた。中間の人間の、曖昧さを。曖昧さを暴いて、分かりやすい図に変えた。図にすると燃える。燃えると読まれる。読まれると仕事になる。
「君の過去記事は」
神が言った。
私は身構えた。断罪されたくない。でも、断罪されたくないと思っている自分が、すでに逃げだ。
「正しかった」
神が言う。
「事実も、構造も、正しかった。だから燃えた」
私は喉が詰まった。正しいから燃えた。正しいから人が死んだ。遺族の姉の言葉が蘇る。
私は神に問う。
「じゃあ私は、誰を救った」
声が掠れた。掠れた声が、店内で小さく響く。自分の声が嫌だ。記者の声だ。問いを投げて、相手の生活を揺らす声だ。
「私は、誰を壊した」
神は答えなかった。答えないのが、答えより痛い。
私はコーヒーを飲もうとして、手が止まる。カップに口がつかない。距離が遠い。指が震えているからだ。
神が言った。
「君が欲しいのは、真実じゃない」
私は顔を上げた。
「許しだ」
神の声は冷たい。冷たいのに、真ん中にある。逃げ道がない真ん中。
私は笑いそうになって、笑えなかった。許し。私は記事で、何度も他人に許しを要求してきた。許されないことを許すな、と叫んできた。なのに、自分は許しが欲しい。
涙が出そうになった。出そうになったのを、瞬きで散らした。瞬きが増える。視界が少し滲む。滲むと、文字が読めなくなる。文字が読めなくなると、私は少しだけ安全になる。安全になりたい自分が、今は嫌だ。
店主が言った。
「真琴さん」
名前を呼ばれると、少しだけ身体が戻る。ここは取材先じゃない。自分が人間でいる場所だ。
「今夜決めるのは、生活の一手だけです」
店主の言葉は、喫茶店の椅子を上げる音みたいに確かな順番を持っている。私は頷いた。頷くと、喉の奥が少しだけ開く。
「生活の一手」
私は繰り返した。
「私は、何をすればいい」
神が私を見る。目が乾いたまま、少し揺れる。揺れは恐怖か、疲労か、判断がつかない。
「今夜は」
神が言う。
「最大の真実を言うな」
私は息を止めた。最大の真実。社の文字。語らせぬ。血。滅び。封印の中の写真家。名簿の姓。私の名前。
「言わない」
私は言った。言い切ると、自分の声が少し安定する。言わない、は受け取る側の選択だ。語る側の敗北じゃない。
神が少しだけ頷いた。
「それが成長だよ」
その言い方が腹立たしくて、でも腹立たしいと思える余裕が少し戻ってきたことが、嬉しくもあった。嬉しいと思うのは危険だ。嬉しさは油だ。
「でも」
私は言った。
「言わないだけじゃ、何も変わらない」
神が目を細める。
「だから、設計だろ」
私は頷いた。共同で抱える設計。聞く側のルール。断罪禁止。拡散禁止。今夜決めるのは生活の一手だけ。背負いを一人にしない。
「抱える場所を作る」
私は言った。声が少し震える。震えているのは、怖いからだ。怖いのは、自分がまた燃えるのを知っているからだ。
その瞬間、店の外で鈴が鳴った。
ここには鈴はない。戸の鈴は鳴っていない。鳴ったのは、街のどこか。遠い鈴。神の鈴と同じ種類の音が、街の暗がりから返ってくる。
私の視界が一瞬白く飛んだ。白く飛んだのは光のせいじゃない。血が引いたときの白だ。身体が先に危険を察知して、目の情報を薄くする。
店主がカウンターに手をついた。
「来ます」
神が言った。声が少しだけ尖る。
「封印が軋む」
私は椅子から立ち上がりかけて、止まった。今夜は受け取る側でいる。勝手に動いて、語る側に戻るな。
私は座ったまま、耳を澄ませた。
鈴が増えた。ひとつじゃない。二つ、三つ、四つ。街のあちこちで鳴っている。鳴り方がばらばらだ。誰かが鳴らしているんじゃない。勝手に鳴っている。契約が全体で反応している。
神が言った。
「君が今、口にしようとしただろ」
私は言い返せなかった。口にしようとしたのは事実だ。最大の真実の輪郭が、舌の上に乗った。乗っただけで街が鳴るなら、言ったらどうなる。
店主が言った。
「住民が倒れます」
その言葉が、現実の匂いを持っていた。倒れる。呼吸が止まる。救急車が来る。救急隊が困る。説明ができない。家族が泣く。生活が壊れる。
煽りじゃない。生活の結果だ。
神が叫ぶみたいに言った。
「今それを言うな。閾値を超える」
閾値。第九話で神が言語化した、真実の重さの線。軽い真実は飲める。重い真実は喉を裂く。
私は目を閉じた。閉じたのは逃げじゃない。止まるためだ。止まらないと、私は言う。言って、また人が死ぬ。
私は息を吸って、吐いた。吸う息が細い。吐く息が震える。震える息で、言葉を止める。
「言わない」
私は言った。今度は、神に言うためじゃない。自分に言うためだ。
鈴が一つ、止まった。二つ、止まった。全部は止まらない。余韻が残る。街がまだ構えている。
神が私を見た。目が少しだけ開いている。怯えに近い。
私は言った。
「言わない。でも」
私は続けた。続けるのが怖い。でも続けないと、ここで終わる。終わりは、運用の勝利だ。個人の切り捨てだ。
「抱える場所を作る」
神の喉が、ほんの少し動いた。唾を飲み込んだ動き。神にも喉がある。喉を見られているのは人間だけじゃないのかもしれない。
「あなたの嘘を」
私は言いかけて、言い直した。断罪に寄せない。役割に寄せる。
「あなたの嘘を、役割ごと終わらせる」
店主がゆっくり頷いた。
神が、初めて怯えた顔をした。怯えは怒りよりも人間の顔だ。神なのに、人間の弱さから生まれた機構なのに、今、ひどく人間の顔をしている。
「終わらせる、って言葉は」
神が言って、止まる。止まったのは、続きが刃になるからだろう。
私は言った。
「終わらせるのは、あなたじゃない」
「じゃあ誰だ」
「私たち」
私は短く言った。短く言うと、言い訳が入りにくい。
神が笑いかけて、笑えなかった。笑うと、それは軽口になる。軽口になると、ここまでの話が嘘になる。
鈴がまた一つ鳴った。今度は近い。店の外。商店街の角。誰かが倒れたのかもしれない。誰かが言いかけたのかもしれない。誰かが思い出しそうになったのかもしれない。
私は立ち上がった。今度は止まらない。受け取る側でいる、という条件は、動かないことじゃない。断罪しないこと、拡散しないこと、生活の一手を決めることだ。
店主が言った。
「真琴さん、今夜の一手は何ですか」
私は一瞬だけ迷った。迷っている暇はないのに、迷いが必要な瞬間もある。迷いは、正しさの暴走を止める。
私は言った。
「集める」
「誰を」
店主が聞く。
「聞ける人を」
神が短く言った。
「器を増やすな」
「器じゃない」
私は言い返した。
「分散する場所を増やす」
神が目を細める。反論が来ると思った。来なかった。神は小さく言った。
「怖いな」
私は言った。
「怖いのは分かる」
怖いのは分かる、と言うと、自分が優しい側に立った気がして嫌になる。私は優しい人じゃない。ただ、怖いから止まりたいだけだ。
店主が鍵を取った。店を出る。椅子が机の上に上がったまま、看板灯だけが揺れる。揺れは風のせいじゃない。街の空気が落ち着かないせいだ。
外に出ると、寒い。寒いのに、汗が背中に薄く張り付いている。興奮の汗。語る側の汗。受け取る側の汗に変えたい。
商店街の角で、人が座り込んでいた。若い男。顔色が白い。口が動いているのに、音が出ない。音が出ないのに、言葉だけが漏れそうになる。第九話で見た現象だ。
私は駆け寄ろうとして、店主が袖を掴んだ。
「触る前に、聞く側のルールを置いて」
私は頷いた。しゃがんで、男の視線の高さに合わせた。
「今、言わなくていい」
私は言った。言うのは簡単だ。言わなくていい、と言うのもまた嘘に見える。でも今は薬だ。呼吸を戻す薬。
「息だけして」
男の胸が小さく上下する。呼吸がある。呼吸があるなら、生活は戻せる可能性がある。
神が男のそばに立った。鈴が鳴った。男の口の動きが少し止まる。止まると同時に、男の目に涙が溜まった。涙は感情の説明じゃない。身体の反応だ。
「ほら」
神が言った。
「言わなくていい。今日は寝ろ」
男が首を振った。首を振る力がある。
店主が言った。
「明日、何が必要ですか」
男の喉が動く。言葉にならない声が出る。掠れた声。
「仕事」
それだけが出た。生活の一手だ。
私は頷いた。
「明日、仕事に行けるようにする」
男は目を閉じた。閉じ方が、少しだけ安堵に近い。安堵は短い。短いからこそ意味がある。一晩だけ眠れる、の価値は、現場でしか分からない。
私は立ち上がった。今夜の話は終わっていない。終わらせない。終わらせる言葉は刃になる。終わらせないための設計をする。
神が私に言った。
「君はそれでも、許しが欲しいか」
私は答えなかった。答えると、許しを求める自分を正当化する。正当化したら、私はまた燃料を作る。
私は言った。
「今夜は、受け取る」
神が目を細めた。笑う寸前の顔。笑わない。
「そうだな」
神が言った。
「最初の相談者の話は、まだ終わってない」
私は喉を押さえた。押さえても、喉の乾きは消えない。乾きは、真実の重さの前兆だ。
神が言った。
「君が作った刃で死んだ人間が、俺の始まりだ」
私はその言葉を、胸に落とした。落とすと痛い。痛いのに落とす。落とさないと、私はまた語る側に逃げる。
街の鈴が、また遠くで鳴った。鳴るたびに思う。言葉が変換される。誰かの喉が守られる。誰かの喉が裂かれる。
私は神を見た。
「あなたは、あの人のことを」
名前を言わない。断罪しない。拡散しない。条件を守る。
「どう思ってる」
神はすぐに答えなかった。答えないのが、答えだった。
「思ってるよ」
神は言った。短い。
「思ってるから、嘘を作った」
その言葉が、夜の空気に沈んだ。沈んで、消えない。消えないから、次の一手が必要になる。
私は言った。
「明日、集会を開く」
神が眉をひそめる。
「早い」
「遅いと」
私は言った。
「また誰かが倒れる」
店主が頷いた。頷きの動きが、生活の動きだ。
「聞く側のルールを、先に配る」
私は言った。
「断罪をしない。拡散をしない。今夜決めるのは生活の一手だけ。背負いを一人にしない」
神が小さく笑った。今度の笑いは軽口じゃない。乾いた笑いだ。疲れた笑いだ。
「それでも、街は燃えるぞ」
「燃やさない」
私は言い切れなかった。言い切ったら嘘になる。嘘は薬だ。用法を間違えると死ぬ。
私は言い直した。
「燃えないように、分ける」
神が一瞬だけ、怯えを隠すみたいに目を逸らした。
「分けるって言葉は」
神が言う。
「優しいようで残酷だ。分けられる痛みと、分けられない痛みがある」
私は頷いた。
「分けられない痛みは」
私は言った。
「抱える」
その瞬間、また鈴が鳴った。今度は、街全体が鳴っている気がした。耳が痛い。視界が薄くなる。誰かが最大の真実の縁に触れた。私かもしれない。神かもしれない。住民かもしれない。
神が私の手首を掴んだ。脈を確かめる指。第七話のときと同じ動き。
「君は危ない」
神が言った。
「真実で生きてるから」
私は手首の掴まれた感覚を、現実として受け取った。皮膚。指。冷たさ。力。神は人じゃない。なのに、触れる手は人の手だ。
私は言った。
「だから、受け取る側に回る」
神が息を吐いた。吐いた息が白い気がした。白くはない。そう見えるほど冷たい。
「君が」
神が言いかけて、止めた。止めたのは、言葉が刃になるからだ。
私は言った。
「言わない」
そして続けた。
「でも、抱える場所を作る」
神の目が揺れた。怯え。疲労。どちらでもいい。揺れたという事実だけが、今夜の成果だった。
遠い封印の方向から、かすかな声が聞こえた気がした。写真家の声かもしれない。風の音かもしれない。判別はできない。でも、呼吸がある気配だけはした。
私はその気配を胸に置いたまま、商店街の暗い道を歩き出した。歩く足音が、やけに大きい。大きい足音は、拡散じゃない。生活だ。明日へ行くための音だ。
そして私は、今夜の最大の真実を、まだ言わないまま抱えている。言わないことは逃げではない。言わないことで守れる呼吸がある。守った呼吸の数だけ、いつか言える日を作る。
その日が来ないこともある。
私はそれも含めて、受け取る側でいようと決めた。
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