王子襲来

 もしも透明人間になったなら、何をするだろう。知恵のある人なら色々と有益なことを思いつくだろうが、私は植物か路傍の石のように生きるほかなかった。

 悪意や嫌悪をもって避けられているのではなく、まったく見えていないようになるのは、かえって心が落ち着いた。誰にも関心を持たれない代わりに、邪険にもされない。

 元々、ひとと関わるのが得意な方ではなかったのだ。

 年中閑古鳥が鳴いている老舗旅館の空き部屋を住処として、朝になれば起きて、女将さんがいつも多めに用意するご飯をちょっとだけもらって、お風呂に入り、島中を歩き回る。日が沈むころに戻って、また多めに作られた料理を頂いて、お風呂に入り、眠る。

 ここ最近、喜怒哀楽が抜け落ちてきていた。時間の感覚も失われつつある。女将さんが見ているテレビ番組を見ても、しゃべる箱、としか思えなくなってきた。


 誰かと話す必要もないので、声の出し方も危うく忘れかけていた。そんな折。いつものように旅館の外へ出て、コインランドリーを目指していた。島のコインランドリーには、お助けくんという旧式の機械があり、やむにやまれぬ事情がある場合に限り、無償で洗濯ができるようになっている。

 やむにやまれぬ事情ではあるだろう。誰にもみつけてもらえない身では、労働もできないし、賃金ももらえない。旅館の名前が入った古い風呂敷を借りて、洗濯物を包む。かかえて持つと、少し身体が前に傾いた。

 あっ。久しぶりに声が出た。それに重なって、自分より幾分落ち着いた「あっ」も聞こえる。

 さっと伸びてきた手が、こちらの体を支えてきた。洗濯物は足元にぼすりと落ちる。

「大丈夫?」

 その言葉の意味をはかりかねて、暫くぼんやりした。再度、明瞭な口調で同じ言葉が繰り返される。

「大丈夫? 聞こえてる?」

 そこで初めて、それが私を認識し、こちらの応答を待っているものだと気づいた。

 すっかり退化した頭の部分に血が通う。顔を上げると、少年のような、少女のような、いずれにしても酷く、つくりものめいた面貌と出会った。

「……私のことが、見えてる?」

 大真面目に聞いたのに、相手は冗談を受け取るように笑う。

「おばけみたいなことを言うんだな。見えているよ、それにちゃんと触れられるし、足もある」


 髪の毛を滑る手のひら。自分以外の体温。

 感動とか、安堵とか。こみ上げてくる感情に、まだ意識が追いつかない。

 世の中にはまだ、この透明人間を認識できる誰かがいるだなんて。もうとっくに、諦めていたのだ。

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布の下 空空 @karasora99

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