布の下
空空
透明人間
一晩で、私のおはようは誰にも届かなくなってしまった。
昨夜もこれまでと地続きの平凡な日常で、その延長として訪れたはずの今朝は、何もかもが変わってしまった。
単身で暮らす小さなワンルームで身支度を整え、小ぢんまりとした島の雑貨屋へ出勤する。その道のりで、いつも挨拶するおばあさんを見かけたので、おはようございますと声をかけた。
杖をついてのんびり歩くおばあさんは、振り返らない。
少し大きめの声をかけてみたが、彼女はゆるやかな足取りで遠ざかっていく。人違いだったか、たまたま声が聞こえなかったのか。その時はあまり深く考えず、鞄を持ち直して職場へと急いだ。
おはようございます。店の裏口から入り、正面の事務所で帳簿を整理していた店長の真正面から声をかける。
しかし、反応がない。
機嫌が悪いのだろうか?
更衣室として使っている別室に行き、自らに割り当てられているはずのロッカーを探して着替えようとしたが、五つしかない従業員用の物入れに、どうしても自分の名前を見つけられなかった。
まだ、寝ぼけているのかもしれない。そんな漠然とした不安は、三巡目の確認を経て、得体のしれない悪寒となった。
来たのと同じ格好で更衣室を出る。店長はしきりに時計を気にしており、思わずといった様子でつぶやいた。
「遅いなあ……いつもならもう来ている時間なのに……」
そこで、首を傾げる。
「……誰が、だっけ?」
そんな異常があっても、人体は正しく空腹を訴えた。朝ご飯、今日は抜いてしまったのだった。昨日の晩ご飯を急いで詰め込んだお弁当を、近くの公園で広げる。
試しにすれ違う人へ残らず声をかけてみても、目の前へ躍り出てみても、誰も、なにも反応を示さなかった。私の存在をまったく認識していない様子なのに、ぶつかりそうになったりすると、ごく自然に立ち止まったり、方向転換をして回避してくる。
避けようとするということは、私を質量のあるものとして認識しているはずなのに、意識にのぼってきていないかのような。
お弁当の青椒肉絲をお箸でちょもちょも摘む。出来合いの調味料で炒めたお得品のお肉は、いつも通り美味しい。
なにかの悪ふざけだろうか。
あるいは、自分の壮大な勘違いだろうか。
食べ終わって、自分の家に帰ろうとようやく思い立ち、到着した我が家の扉の前。鍵を探すも、鞄の中、上着のポケットにもみつからない。
試しに捻ったドアノブは開き、中を見る。
部屋の中央にはベビーベッドが置いてあり、赤ん坊がすやすやと眠っていた。傍らには仮眠を取る母親とおぼしき女性。知らず、抜き足差し足で後退り、逆戻りした屋外で、掲げられた表札を見る。
そこには、面識のない人物の苗字が、もう何年も住み着いている様子で刻まれていた。
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