第2話 規則と自由
窓の外は白く、遠くの山も校舎も境界を失っていた。
黒瀬恒一は、起床ベルが鳴る前に目を覚ましていた。
いつも通りだ。いつもと違うのは、胸の奥に残る“灯り”の感触だった。
(昨夜のことは、仕事だ)
そう定義し直す。
定義し直さなければ、思考が寄り道を始める。
身支度を整え、A棟を出る。
登校路の石畳は湿っていて、足音が吸われる。
霧の向こうから、生徒たちの気配が集まってくる。
評議会室は、校舎の中央棟二階。
大きな窓があり、朝の光が入る。
――今朝は、その光が霧に溶けていた。
扉を開けると、すでに数名が着席している。
書記、会計、風紀補佐。
そして、奥の席。
「おはよう、番人」
軽やかな声。
黒瀬は一瞬、視線を上げてから、即座に戻した。
「……その呼び方はやめろ」
「やめる理由がない」
鷹宮玲央は、椅子に深く腰掛け、足を組んでいる。
制服はきちんと着ているが、どこか“余裕”が残る。
昨夜の倉庫で見せた緊張は、もうない。
黒瀬は自分の席に座り、資料を並べた。
巡回記録。規則違反の簡易報告。
――そして、昨夜の“件”。
議長役の三年生が、咳払いをする。
「では始めよう。まずは規律関係から」
黒瀬が報告する。
淡々と、簡潔に。
消灯後の違反数。注意件数。再発防止策。
誰も異を唱えない。
それが黒瀬の仕事の評価だ。
「次、
議長の視線が、鷹宮へ移る。
「寄付関連で一点。昨日、後援会より連絡があった」
鷹宮の声は落ち着いている。
だが言葉は、必要最小限だ。
「備品の一部に、記録と不一致がある。
本日中に確認と是正を行う」
室内の空気が、わずかに張った。
「具体的には?」
「型番違い。数量は小。だが見過ごせない」
鷹宮はそこで一度、黒瀬の方を見た。
“合っているな”という確認。
黒瀬は、微不可視な角度で頷いた。
それだけで、十分だった。
「……承認する」
議長が言う。
評議会は“動く”。
会議は粛々と進み、
最後に雑務の割り振りが終わった。
「以上。解散」
椅子が引かれ、紙が揃えられる。
人が立ち上がる音が、霧のように広がる。
黒瀬は立ち上がり、書類をまとめた。
視線を上げると、鷹宮がまだ席にいる。
「黒瀬」
名前。
呼び捨て。
「放課後、時間あるか?」
「用件次第だ」
「確認作業。君がいないと鍵が開かない」
それは事実だ。
だから、断る理由がない。
「……放課後、十六時」
「了解」
鷹宮は満足そうに笑い、立ち上がった。
すれ違いざま、声を落とす。
「昨夜の続きだな」
「昨夜は終わっている」
「そう思ってるのは、君だけかもしれない」
黒瀬は返さなかった。
返したら、会話が続く。
評議会室を出る。
廊下の窓から、霧が少しずつ晴れていくのが見えた。
――昼。
学食は賑やかだった。
全寮制ゆえ、昼は“集団”になる。
騒がしさが嫌いな黒瀬は、いつも端の席を選ぶ。
「隣、いい?」
トレイを持った鷹宮が、当然のように座った。
「……許可は?」
「今、聞いた」
黒瀬はため息をつき、席を詰めた。
距離が縮まる。
制服の袖が、わずかに触れそうで触れない。
「君、昼も一人だな」
「問題ない」
「問題ある。全寮制は“孤立”が一番まずい」
「君が言うな」
鷹宮は笑い、スープを一口飲んだ。
「俺は孤立していない。選んでいるだけだ」
「同じだ」
「違う」
昨夜と、同じ応酬。
だが今回は、昼の光の下だ。
「君は、選ばないだろ」
鷹宮が言う。
「規則が先。感情は後。
だから君は、誰も選ばない」
黒瀬は箸を止めた。
「……仕事の場で、選ぶ必要はない」
「じゃあ、仕事じゃない場では?」
質問が、静かに刺さる。
「……今は仕事の場だ」
「逃げた」
「違う」
鷹宮はそれ以上追わなかった。
代わりに、視線を前へ戻す。
「放課後、体育館裏だ。霧が出る前に終わらせよう」
「了解」
短いやり取り。
だが、胸の奥が少しだけ忙しい。
――放課後。
倉庫は昼の光を受け、昨夜よりも無機質だった。
箱、棚、ラベル。
事実だけが並ぶ。
二人は手分けして確認する。
距離は近いが、触れない。
必要以上の言葉はない。
「……ここも違う」
鷹宮が言う。
「写真を」
黒瀬が指示する。
作業は早い。
互いの癖が、もうわかっている。
すべて終わり、扉を閉めた。
「助かった」
鷹宮が言う。
昼の光の下でも、その言葉は軽くならなかった。
「仕事だ」
「それでも、だ」
鷹宮は、倉庫の前で立ち止まる。
霧が、足元に集まり始めている。
「黒瀬。君は“規則”に縛られているんじゃない」
「……何が言いたい」
「君は、規則を選んでいる」
黒瀬は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
「だから――」
鷹宮は一歩だけ近づき、声を落とす。
「君が選ぶなら、俺は従う」
近い。
昼なのに、昨夜より近い。
黒瀬は一歩引いた。
距離を戻す。
「……不適切だ」
「何が?」
「その言い方だ」
鷹宮は小さく笑った。
「じゃあ、こう言おう。
――次も、一緒にやろう」
それは、仕事の言葉。
だが、黒瀬の胸は否定しなかった。
「……必要なら」
「必要だ」
即答。
霧が濃くなる。
高原の夕方は早い。
二人は並んで歩き出す。
昨夜より、少しだけ自然に。
黒瀬は思った。
(規則と自由は、対立ではない)
少なくとも――
この男と並ぶ限りは。
それを“絡み”と呼ぶには、まだ早い。
だが、もう戻れない線は、確かに越えていた。
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選択の内側で、君と サファイロス @ICHISHIN28
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