選択の内側で、君と
サファイロス
第1話 消灯後の灯り
吉備高原の夜は、音を吸う。
山あいの風が校舎の角を撫でても、木々がざわめく気配は遠く、どこか“ためらい”がある。
空は濃い紺。星はあるはずなのに、雲が薄い膜のようにかかっていて、光だけが上手く届かない。
そのかわり、学園の規則が届く。
――消灯二十二時。
――寮内移動は二十二時十分まで。
――以降、談話室・自習室の利用は禁止。
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それが誇りというより、身体に染みついた習慣だった。
右手に懐中電灯。左手に巡回記録のボード。
足音は立てない。廊下は、そういうふうに歩ける床材になっている。
壁の時計は二十二時二十八分。
男子寮A棟の廊下には、灯りが一定間隔で落ちている。
扉の下から漏れる光が、ある部屋とない部屋を淡く分ける。
黒瀬は、ひとつひとつ確認していく。
消灯後の廊下は、本来“空っぽ”であるべきだ。
寮は寝る場所で、眠るために設計されている。
……なのに。
突き当たりの階段を上がった先、二階の談話スペース。
そこだけが、薄く明るい。
黒瀬は歩幅を変えなかった。
怒りがあるわけではない。ただ、“異常”がある。
近づくほどに、音が聞こえた。
カチ、と小さな音。
それは――氷がグラスに当たる音に似ていた。
談話室の引き戸は、閉まっていない。
数センチだけ開いている。
“見つけてください”と言っているように。
黒瀬は指先で戸を押し、静かに中を覗いた。
ソファ。ローテーブル。
壁の本棚。
観葉植物の影。
そして――テーブルの上に、湯気の立つマグカップが二つ。
「こんばんは、黒瀬」
落ち着いた声が、正面から飛んできた。
ソファの背に片肘を置き、こちらに視線を向ける生徒がいる。
制服の上着は脱いでいて、シャツの第一ボタンが外れている。
いかにも“規則を知っていて、破ることに躊躇がない”姿だった。
学園評議会の同学年。渉外担当。
寄付者の子息で、後援会の顔で、行事の壇上に立てば拍手が起きる男。
本人は拍手を当然のように受け取り、当然のように笑う。
黒瀬は一歩だけ中に入り、戸をきっちり閉めた。
逃げ道を塞いだわけではない。音を遮断しただけだ。
「消灯後の談話室利用は禁止だ」
黒瀬が言うと、鷹宮は微笑んだまま肩をすくめた。
「知っている。君が言うなら確実だ」
「なら戻れ」
「冷たいな。お茶くらい飲め」
鷹宮が顎で示した先に、もう一つのマグカップ。
湯気が細く揺れている。
甘い匂い――蜂蜜か、柑橘か。
消灯後の寮には似つかわしくない、柔らかい香りだった。
黒瀬は視線を落とさず答えた。
「飲まない」
「もったいない。せっかく“君のために”淹れたのに」
その言い方が、黒瀬は嫌いだった。
“君のために”という枕詞は、言葉を逃げ場のない形にする。
断れば薄情、受ければ屈服。
鷹宮玲央は、そういう言葉の使い方を知っている。
「……俺のために淹れる必要はない」
「必要かどうかは、俺が決める」
鷹宮の笑みは、挑発というより――楽しんでいた。
規則に縛られる黒瀬を、観察している。
黒瀬は巡回記録ボードを小脇に抱えたまま、淡々と告げた。
「規則違反だ。記録する」
「どうぞ。君の仕事だ」
「……」
そこが、最も厄介だった。
普通は慌てる。言い訳をする。言葉を重ねる。
だが鷹宮は、規則違反を“認める”ことで、黒瀬の正しさを奪う。
黒瀬のペン先が、紙の上で止まった。
鷹宮はそれを見て、満足そうに目を細めた。
「君が迷う顔、珍しい」
「迷っていない」
「迷っているよ。書けばいい。俺は処分を受ける。君は規則を守る。――それで終わりだ」
終わり。
その言葉が、なぜか黒瀬の胸に小さく引っかかった。
黒瀬は、鷹宮が“談話室にいる理由”をまだ聞いていない。
聞く必要はない、と規則は言う。
理由がどうであれ違反は違反だ。
だが――理由を聞かないことは、時に不公平を生む。
黒瀬は自分が嫌いな種類の思考をしていることに気づき、唇を結んだ。
「理由は」
言ってしまった。
鷹宮は、ほんの一瞬だけ眉を上げた。
それは驚きというより、“期待通り”の合図だった。
「理由?」
「ここにいる理由だ。……消灯後に」
「君が興味を持つとは」
「興味じゃない。必要だ」
「必要、ね」
鷹宮はマグカップを指で回し、湯気を眺めた。
その仕草は、舞台の上で観客の視線を集める人間のものだった。
無意識に“見せ方”が染みついている。
「さっき、後援会の役員から連絡があった」
黒瀬の眉が僅かに動く。
「……この時間に?」
「君は知らないだろう。渉外担当は、時計の外で生きる」
「自慢するな」
「自慢ではない。事実だ」
鷹宮は笑って、それから声を落とした。
「学園の寄付金――使途の一部が、妙だ」
黒瀬の背筋がすっと伸びた。
それは“規則違反”どころの話ではない。
吉備高原学園の根っこを揺らす。
「誰が言った」
「言えない。情報源の保護ってやつだ」
黒瀬は即座に判断する。
「明日、評議会に上げろ」
「上げる。だが、その前に“確認”がいる」
「確認は規定の手順で――」
「規定の手順だと、証拠が消える」
鷹宮の言い方が、珍しく真剣だった。
いつもの軽さが薄い。
その薄さが、黒瀬の目には逆に重く見えた。
「……だから夜に?」
「そう。人の目が少ないからな」
「なら、なぜ俺に――」
言いかけて、黒瀬は止めた。
“なぜ俺に言う”という問いは、
“俺を選んだのか”に近い響きがある。
鷹宮はそれを見逃さない。
「なぜ君に? 簡単だ」
鷹宮はソファから立ち上がった。
背が高い。黒瀬と同じくらい。
距離を詰められると、談話室の空気が変わる。
鷹宮は黒瀬の前まで来て、歩みを止めた。
近い。
だが触れない。
触れないギリギリで止めるのが、上手い。
「君は正しいからだ」
低い声。
「……」
黒瀬は視線を外さなかった。外す理由がない。
しかし、胸の奥がわずかに熱い。
「正しい人間が、必要なんだよ。こういうときは」
「俺は“正しい”んじゃない。規則を守っているだけだ」
「同じことだろ?」
「違う」
黒瀬の言葉は強かった。
鷹宮はそれを受け、ふっと笑った。
「違う、か。君がそう言うなら、違うんだろう」
その一瞬、鷹宮の瞳が真面目な色を帯びた。
からかいでも、挑発でもない。
黒瀬はそこで初めて、この男が今夜ここにいる理由を理解した。
渉外担当は裏側を知っている。
だが裏側を知っている人間ほど、
自分の手が汚れていることを恐れる。
黒瀬は、巡回記録ボードを静かにテーブルに置いた。
「……何を確認する」
鷹宮の口角が上がる。
勝ち誇った笑いではない。
黒瀬が“こちら側”に足を置いたことへの、静かな喜び。
「倉庫だ。体育館裏の備品倉庫。寄付で入った機材が置かれている」
「鍵は」
「評議会の規定鍵だ。君が持っている」
黒瀬は眉間にしわを寄せた。
「……最初から俺を使う気だったのか」
「使うなんて言うな。君は自分で判断する。だから君なんだ」
鷹宮はそう言って、もう一歩だけ近づいた。
ほんの数センチ。
黒瀬の呼吸の温度がわかる距離。
「黒瀬。君は、規則を守るために生きているんじゃない」
黒瀬の喉が僅かに鳴った。
言い返す言葉が、すぐには見つからない。
鷹宮は、黒瀬の反応を確かめるように目を細めた。
「学園を守るために、規則がある。違うか?」
その言葉は正しい。
黒瀬が一番信じている種類の正しさだ。
黒瀬はゆっくり息を吐き、短く答えた。
「……行く。十分だけだ」
「十分で十分だ」
鷹宮はくるりと踵を返し、上着を取り上げた。
その動きは軽い。
だが黒瀬には、軽さの裏の緊張がわかる。
談話室の灯りを落とす。
廊下へ出る。
消灯後の寮は、また音を吸った。
並んで歩く。
黒瀬は“並ぶ”という状況に、妙な違和感を覚えた。
普段なら、誰かを注意し、誰かを戻らせる立場。
だが今夜は、戻らせない。
鷹宮が、歩調を合わせてくる。
合わせられるのが腹立たしいくせに、
腹立たしい理由が別のところにある気がして、さらに腹が立つ。
「君、歩くの速いな」
「遅いと無駄だ」
「無駄の中に、いいものもある」
「この時間に“いいもの”はない」
「あるさ。例えば――」
鷹宮は言いかけて、口を噤んだ。
窓の外。
霧が、校舎の足元をゆっくり這っている。
高原の霧は、夜に濃くなる。
灯りがないところほど白い。
鷹宮は小さく言った。
「……君と歩く夜、とかね」
黒瀬は一瞬、足が止まりそうになった。
そういう言い方を、するな。
だが鷹宮は、言ってからすぐに視線を前に戻す。
冗談のように投げて、受け取る時間を与えない。
黒瀬は、淡々と返すしかなかった。
「余計なことを言うな」
「余計なことばかり言うのが俺だろ」
体育館裏へ向かう通路。
砂利の音を立てないように歩くのは難しい。
だが黒瀬は、足の置き方で音を減らす。
鷹宮も真似をした。
「器用だな。さすが規律の番人」
「……番人ではない」
「じゃあ、何だ?」
黒瀬は答えない。
答えたら、形が決まってしまう。
自分の役割も、彼との距離も。
備品倉庫の前に着く。
扉は重い。鍵穴は低い位置にある。
黒瀬はポケットから鍵を出した。
金属音が、夜に小さく鳴る。
鷹宮が、隣に屈み込む。
肩が触れそうで、触れない。
その“触れない”が、妙に意識を引っ張る。
「君の手、綺麗だな」
「……関係ない」
「関係ある。鍵を開ける手だ。大事だろ」
黒瀬は鍵を回し、扉を押した。
中は薄暗い。
懐中電灯の光が、機材の影を鋭く切り取る。
黒瀬は一歩入る。鷹宮も続く。
狭い空間で距離が縮む。
息遣いが近い。
だが言葉は少ない。
箱が積まれている。ラベルが貼られている。
寄付品。備品。番号。
黒瀬は一つずつ確認し、
鷹宮はリストと照合していく。
「……これだ」
鷹宮が、棚の奥の箱を指した。
寄付品のはずの機材が、リストと型番が違う。
黒瀬は、手袋もせずに箱に触れそうになり――止めた。
証拠に触れれば、後で問題になる。
鷹宮がそれに気づき、短く笑う。
「徹底してるな」
「当たり前だ」
「そういうところ、嫌いじゃない」
「好かれる必要はない」
「俺は、好きなものは好きだと言う」
鷹宮の声は、倉庫の壁に吸われて少し柔らかくなった。
黒瀬は、懐中電灯の光を箱のラベルに当てながら言う。
「……これをどうする」
「写真を撮る。型番と保管場所。明日、正式に提出する」
「……いい」
黒瀬はそこで、ようやく理解した。
鷹宮が今夜、自分を呼んだ理由。
規則を破るためではない。
規則を“守るために、最短で証拠を残す”ためだ。
黒瀬は、胸の奥の引っかかりがほどけるのを感じた。
終わりにしてはいけない、と思った理由が、ここにあった。
鷹宮がスマホで撮影し、
撮り終えると深く息を吐いた。
「……助かったよ」
小さな声。
いつもの舞台の声ではない。
誰かに見せるための声ではない。
黒瀬は答えに迷い、そして結局、短く言った。
「評議会の仕事だ」
鷹宮は笑った。
だが、その笑みは少しだけ、痛そうだった。
「君のそういうところ、ほんとに……」
言いかけて、止める。
代わりに、鷹宮は黒瀬の懐中電灯の光から目を逸らし、倉庫の外を見た。
「――ねえ、黒瀬」
「何だ」
「君、俺のこと嫌いだろ」
黒瀬は即答できなかった。
嫌い、と言えば簡単だ。
規則違反も多い。言葉も軽い。人を煽る。
だが、今夜の鷹宮は――
自分の正しさを必要として、
自分に助けを求めて、
そして“助かった”と言った。
黒瀬は、視線を合わせたまま言う。
「……評価は、仕事で決める」
「ずるい答えだな」
「事実だ」
鷹宮は、ほんの少しだけ寂しそうに笑い、
それからいつもの調子に戻した。
「じゃあ、仕事の評価を上げるために、明日からも頼むよ。番人さん」
「番人ではない」
「じゃあ、――黒瀬」
呼び捨て。
たったそれだけで、胸の奥が微かに揺れた。
黒瀬は、鍵を閉める手を止めずに言った。
「……寮に戻る。時間だ」
「了解。規則は守らないとな」
鷹宮は軽く敬礼の真似をして、黒瀬の横に並ぶ。
戻り道。
霧は少し薄くなっていた。
雲の切れ間に、星が一つだけ見えた。
黒瀬は、それを見上げる鷹宮の横顔を、無意識に見ていた。
鷹宮が、こちらを見ずに言う。
「今夜のこと、君が黙ってくれるなら――」
「必要なら記録する」
「怖いな」
「それが仕事だ」
「……でも、君は今夜、俺を切らなかった」
黒瀬は足を止めず答える。
「切るとか切らないとか、そういう話ではない」
「じゃあ、どういう話?」
黒瀬は返せなかった。
答えを言葉にしたら、
今夜が“ただの規則違反処理”ではなくなる。
鷹宮は、返事を待たずに笑った。
「いいよ。今はそれで」
その言い方が、黒瀬は――少しだけ、怖かった。
“今は”という言葉は、続きを約束する。
談話室の前を通り過ぎる。
廊下は静か。
寮生は眠っている。
黒瀬は巡回記録ボードを抱え直し、
無表情のまま言った。
「……明日、正式に提出する。必ず来い」
「君が呼ぶなら行く」
「評議会の命令だ」
「はいはい」
鷹宮は笑って、寮の分岐で足を止めた。
C棟へ向かう方向。
黒瀬はA棟へ。
別れる。
なのに、
別れ際が妙に長い。
鷹宮が、ふいに低い声で言った。
「黒瀬。――おやすみ」
黒瀬の喉が、僅かに鳴った。
“おやすみ”は、寮では当たり前の挨拶だ。
だが鷹宮が言うと、何か別の意味を帯びる。
黒瀬は視線を逸らさず、短く返した。
「……おやすみ」
鷹宮の笑みが、ほんの少し柔らかくなる。
そして彼は背を向け、闇の奥へ消えた。
黒瀬はその背中を、見送ってから歩き出した。
鍵束がポケットで小さく鳴る。
(……明日からも)
その言葉が、胸の中で勝手に続きそうになるのを、黒瀬は押し込めた。
規則の外側には出ない。
出る必要はない。
そう、思うべきなのに――
消灯後の寮で、
たった一つ灯っていた光が、
まだ目の奥に残っていた。
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