第2話「絶望のオリエンテーションと、賢者の空間支配」

 意識が覚醒した瞬間、最初に感じたのは全身を走る激痛と、鼻をつく腐葉土の匂いだった。


「ぐ、うぅ…」


 魔王軍第三師団将軍、オーク・ロードのヴォルグは呻き声を上げて目を開けた。


 視界に広がっていたのは、鬱蒼とした密林だ。


 ただし、そこらにある普通の森ではない。


 木々の枝がまるで生物のように蠢き、巨大な花弁が涎を垂らすように消化液を滴らせている。


 ここはバベル・ガーデン第六六六層――通称『人食い植物の空中庭園』。


「はっ!私は…生きているのか?」


 ヴォルグは自身の体を確かめる。


 自慢のミスリル合金の鎧はひしゃげ、愛用の魔剣は折れている。


 だが、四肢は繋がっていた。


 あの熊耳の少女――真音によって、遥か上空から叩き落とされた記憶が蘇り、背筋が凍りつく。


「魔王様!魔王様はいずこに!?」


 ヴォルグは慌てて周囲を見渡した。


 そして、信じがたい光景を目撃した。


「な…ッ!?」


 頭上の巨大な枝から、二つの大きな物体がぶら下がっていた。


 それは、謎の「発光する粘着テープ」で全身をぐるぐる巻きにされ、まるでミノムシのような姿にされた、二人の男だった。


 一人は、人類の勇者、アレクセイ。


 もう一人は、魔界の盟主たる魔王、ガルシス。


 世界を二分する頂点の二人が、白目を剥いて気絶したまま、風に揺られている。


「我が主を、このような姿に!!」


 ヴォルグの怒号が響いた直後。


 何もない空間に、ジジジ…というノイズが走った。


「あーあ、起きちゃったか。もう少し寝ててくれれば、書類作成が捗ったんだけど」


 何もない空中に、一本の線が入る。


 まるで世界の裏地を開くように、空間が「ジッパー」のように左右に引き裂かれた。


 その裂け目の奥――漆黒の亜空間から、ひょっこりと顔を出したのは、赤いマフラーを巻いた黒いクマのぬいぐるみだった。


「貴様は…あの小娘の連れていた使い魔か!」


「使い魔じゃないよ。管理組合の経理部長、メルキオラスだ」


 ぬいぐるみ――メルキオラスは、空間の裂け目からポスリと地面に降り立つと、パンパンと体の埃を払った。


「下等な愛玩人形風情が!我が主への狼藉、万死に値する!」


 ヴォルグは激昂し、折れた剣を構えて突進した。


 腐っても魔王軍の将軍。


 その踏み込みは音速を超え、一瞬でメルキオラスの間合いを詰める。


「消え失せろッ!!」


 剛剣が振り下ろされる。


 ぬいぐるみの柔らかな体など、両断して余りある一撃。


 だが、メルキオラスは避ける素振りすら見せなかった。


 ただ、その短い足をちょこんと上げて、空中で「えいっ」と足払いの動作をしただけだ。


 ヴォルグとの距離は、まだ数メートルも離れている。届くはずがない。


 しかし、


「ごふっ!?」


 ヴォルグの視界が、唐突に回転した。


 何かに足をすくわれたのではない。まるで、「そこで転ぶことが世界の決定事項である」かのように、彼の体は物理法則を無視して盛大に回転し、地面に叩きつけられた。


「な、なにが…!?」


 ヴォルグはすぐに受け身を取り、体勢を立て直す。


 偶然だ。足元の根に躓いたに違いない。


 彼は再び吼え、今度は魔法を纏った拳で殴りかかる。


「ぬんっ!」


「とぉ」


 メルキオラスが、短い手で空を押す動作をする。


 それだけで、ヴォルグの体は、見えない巨人の掌に弾かれたように吹き飛び、背後の大木にめり込んだ。


「がはっ…!き、貴様…何をした…魔法の波動も、魔力の予兆すらもなかったぞ…!?」


 ヴォルグが戦慄する。


 あの真音という少女は「圧倒的な暴力」だった。


 だが、このぬいぐるみは違う。


 なにをしているかわからない。


「やれやれ。野蛮だねえ、最近の若い子は」


 メルキオラスは、やれやれと首を振る。


「僕はね、真音ちゃんみたいに力持ちじゃないんだ。綿が出ちゃうから、乱暴なことはしたくないの」


「ふ、ふざけるなァァァッ!!」


 ヴォルグは限界まで魔力を高めた。


 プライドが許さない。


 この不気味なぬいぐるみを、全力で消し飛ばす。


「デッドリー・インパクトッ!!」


 黒い衝撃波を纏った特攻。


 それに対し、メルキオラスは面倒くさそうに、短い腕で空中に『四角形』を描いた。


「…うるさいよ。少し静かにしてて」


 【空間圧縮(アーカイブ)】


 キィンッ!


 硬質な音が響き、ヴォルグの周囲の空間が、ガラス細工のように切り取られた。


「え?」


 ヴォルグが声を上げた瞬間、彼の体が存在する「座標」そのものが、強制的に圧縮された。


 メキメキメキッ!


 巨大なオークの巨体が、見えないプレス機に四方八方から押し潰され――瞬きの間に、一辺50センチほどの「肉のサイコロ(立方体)」へと変えられてしまった。


「ぎ、ぎゃあああ!?体が!四角く!?動か、ん!?」


 サイコロ状になったヴォルグが、地面にコロンと転がる。


 死んではいない。意識もある。


 だが、手足も感覚もすべてが狭い空間に封じ込められ、身動き一つ取れない。


 完全なる無力化。


「さて、と」


 メルキオラスは、再び空間のジッパーを開き、中から一枚の羊皮紙と、奇妙な機械を取り出した。


 『全自動・徴収契約書作成機(ポータブル版)』


「お話の時間だよ、えーと…将軍?でいいのかな?君たちへの請求額が確定したから。さっき言ったのと、結局一緒だったね」


 メルキオラスは、サイコロの前の地面に羊皮紙を広げた。


「請求総額、二億四千万ゴールド」


「に、二億…!?」


 圧縮された喉から、掠れた声が出る。


「これは、君たち勇者軍と魔王軍、全員で支払ってもらう金額だ。内訳は、バベル・ガーデンの修繕費、慰謝料、それから僕たちの残業代だね」


「そ、そんな大金…払えるわけが…」


「払えないなら、働いて返してもらう。これは決定事項だ」


 メルキオラスの黒い瞳が、冷たく光った。


「いいかい?重要なのはここからだ。この借金は、君たち全員での『連帯保証』とする」


「れん、たい…?」


「そう。君たちは今日から、陣営関係なく『一つの財布』だ。この二億四千万は、君たち全員の頭割りじゃない。『全員で背負う一つの巨大な岩』だと思ってくれ」


 メルキオラスは淡々と、地獄のルールを説明し始めた。


「つまりね。もし誰か一人が逃げ出したり、サボってノルマを達成できなかったりした場合…その不足分は、残りの全員で埋め合わせてもらう」


「な…ッ!?」


「逆に言えば、誰かが死ぬほど働いて稼げば、全体の借金は減る。…まあ、利子は一秒ごとに複利で増え続けるから、全員が死ぬ気で働かないと、元金すら減らない計算だけどね」


 ヴォルグは言葉を失った。


 それはつまり、憎き勇者軍とも協力し、互いに監視し合い、支え合わなければ、永遠にここから出られないということだ。


「トップの二人のサインは、彼らの魔力波長をスキャンして、僕が代理で済ませておいたよ。…君も、いいね?」


 メルキオラスが機械をかざす。


 ピピッ。


 抵抗する間もなく、ヴォルグの魔力が吸い取られ、契約書に彼の名が刻まれた。


「契約成立」


 ポンッ。


 軽い音と共に、ヴォルグの圧縮が解かれた。


 元の姿に戻ったヴォルグは、膝から崩れ落ちた。


 もはや、戦う気力など欠片も残っていなかった。


 目の前のぬいぐるみは、魔王よりも、神よりも恐ろしい「管理者」だ。


「ちなみに、今すぐ現金で払える?」


「は、払えるわけが…」


「だよね。だから、この契約書には特約条項が入ってるんだ。『現金での支払いが不可能な場合は、労働をもって充当するものとする』ってね」


「ろ、労働だと…?」


「そう。完済するまで、君たちの身柄と労働力は、すべて、ウチ(管理組合)のものだ。拒否権はないよ。わかった?」


 メルキオラスが、小首をかしげて可愛らしく尋ねる。


 だが、ヴォルグにはそれが、死神の鎌を首筋に当てられたような問いに聞こえた。


 彼はガクガクと震えながら、引き攣った顔で何度も頷くことしかできなかった。


 逆らえば、次はサイコロでは済まない。


「よろしい。じゃ、僕は忙しいから」


 メルキオラスは空間のジッパーを大きく開き、そこから、デッキブラシとバケツなど、大量の掃除道具一式をガラガラと雪崩のように落とした。


「彼らが起きたら、君から今のルールを説明しておいてね。まずはこの階層のトイレ掃除からスタートだ。…サボったら、次はサイコロじゃなくて『粉末』にするからね」


 ジッ。


 空間の裂け目が閉じ、静寂が戻る。


 残されたのは、絶望した将軍と、ミノムシ状態の英雄たち。


 そして、山積みの掃除用具だけだった。

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