世界樹の大家さんは、熊耳の少女でした。~「私の家を勝手に増築しないで!修理代払えないなら、一生タダ働きしていただきますよ!?」~
秋澄しえる
第1話「天空の違法建築と、ブチギレ大家さん」
巨大な世界樹を覆うようにそびえ立つ
『天を穿つ螺旋の塔(バベル・ガーデン)』
その第七五六層。
鼓膜を叩くのは、成層圏に近い高高度特有の、乾いた暴風の音。
眼下には、見渡す限りの雲海。
白き絨毯は遥か下界を覆い隠し、ここが人の住む領域ではないことを無言で告げている。
本来ならば、神話級の猛禽類だけが翼を休めるはずのこの場所は今、鉄と火薬、そして魔法の炸裂音に支配されていた。
「第五小隊、前へ!魔王軍の防衛結界にヒビが入ったぞ!押し込めぇぇッ!」
「させるか人間風情が!重力魔法、展開!ここから突き落としてミンチにしてやる!」
天空の塔に、無理やり増築された石造りの城壁と、鉄骨の足場。
まるで癌細胞のように肥大化したその「空中要塞エリア」で、人類の希望たる勇者軍と、魔界の盟主率いる魔王軍が、世界の覇権を懸けて激突していた。
――ドォォォォォンッ!!
勇者の放った極大聖魔術が、魔王軍の望楼を直撃する。
爆発の衝撃で、ただでさえ不安定な足場が大きく揺れ、築数百年は経つであろう石材が悲鳴を上げながら崩落していく。
誰もが、この戦いが世界の命運を決めると信じていた。
正義と悪。
光と闇。
その崇高な戦いの果てに、新たな歴史が刻まれるのだと。
だが、彼らは知らなかった。
このバベル・ガーデンで最も恐ろしいのは、勇者でもなければ、魔王でもない。
彼らが戦うこの場所よりもさらに高く――世界樹という「神域」のただなかで、今まさに「至福のひととき」を台無しにされた、たった一人の大家さんであることを。
◆◇◆◇◆
(…あと、三秒)
外の喧騒とは無縁の、静寂に満ちた樹洞の部屋。
最高級の断熱材と防音結界に守られたその空間で、少女――真音(まお)は、神に祈るように目を閉じていた。
こたつ。
古代の遺物と賢者の知恵を組み合わせて作られた、究極の堕落装置。
その温もりの中に下半身を沈め、彼女は震える指先で、小皿の上の「それ」をつまみ上げた。
『スライム・ドロップ』
半透明の紫水晶のような輝きを放つ、一口サイズの球体グミ。
食用スライムの核膜を極限まで薄く加工した「皮」の中に、濃縮された果肉風ゼリーが封じ込められている。
真音はそれを指先で摘まんだまま、厳かにカウントダウンを続けていた。
ただ食べるのではない。
このグミには、最も美味しくなる「魔法の瞬間」が存在するのだ。
(指先の体温が伝わり、極薄の皮がわずかに緩むまで、二秒)
冷えたままでは皮が硬すぎる。
温めすぎれば中のゼリーがダレてしまう。
指先から伝わる微かな熱で、皮の張りが限界まで高まり、かつ中のゼリーがとろりと溶け出す直前――その「臨界点」こそが、真音が追い求める至高の食感。
(そして、室温との調和が完了するまで、あと一秒…今!)
「…いただきます」
真音は確信と共に、宝石を口へと運ぶ。
歯を立てた瞬間、極薄の皮が「プチンッ」と小気味よい音を立てて弾けるだろう。
その直後、ゴムのような反発ではなく、まるで熟れた果実そのもののような、ねっとりとした濃厚なゼリーが舌の上に広がるはずだ。
皮の抵抗と、中身の柔らかさ。
この絶妙な食感のコントラストこそが、日々のダンジョン管理業務で荒んだ真音の心を癒やす、唯一の救い――。
――ズズズズズンッ!!
直後。
世界が揺れた。
比喩ではない。
マグニチュード級の衝撃が、真音の部屋を襲ったのだ。
「…あ」
真音の指先から、紫色の宝石が滑り落ちる。
時間はスローモーションのように流れた。
あ、待って。
落ちないで。
私のスライム・ドロップ。
最後の一粒。
一番おいしい、とっておきの一粒。
――ペチャリ。
無情な音が響いた。
床に落ちたグミは、衝撃で弾み、あろうことか部屋の隅に溜まっていた「ほこり」の中へと転がり込んだ。
ねっとりとした中身が露出し、灰色の埃をたっぷりとまぶした無残な姿となって、止まる。
静寂。
こたつの上の湯のみが倒れ、お茶がこぼれる音だけが響く。
「…真音ちゃん?」
こたつの対面に座っていた、赤いマフラーの黒いクマのぬいぐるみ――メルキオラスが、普段通りの可愛い声で呼びかける。
真音は動かない。
うつむいたまま、長い前髪がその表情を隠している。
「…くまちゃん」
鈴を転がすような、しかし絶対零度の響きを持つ声。
「はい、なんでしょう」
メルキオラスが背筋を伸ばして居住まいを正す。
「今の震源地は?」
「えっと…下かな、あ、七五六層のCブロックだね。乱痴気騒ぎしてる勇者軍と魔王軍が、派手な大質量兵器…いや、でっかい魔法を使ったみたいだよ」
「被害状況は?」
「第七展望台が半壊。外壁の強度も限界値を突破してるね。このままだと、この居住区画ごと崩落しちゃうかもだよ」
メルキオラスが、どこからともなく取り出した電卓をパチパチと叩く。
「修繕費、ざっと見積もって二億四千万ゴールドってとこかな」
「…ふーん、そう」
真音はゆっくりと立ち上がった。
彼女が顔を上げるのと同時に、背後の空間が歪む。
ボォッ、ボォォッ…!
何もない空間から、青白い鬼火が次々と浮かび上がる。
一つ、また一つ。
数十の蒼炎が、まるで処刑台を取り囲む蝋燭のように、ゆらりと揺らめいた。
「ラズリ」
『うむ、承知した』
部屋の隅で丸くなっていた、サファイア色の小竜がカッと目を見開き、重々しい声で応じる。
彼は室外へと飛び出すと、瞬く間にその体躯を膨れ上がらせた。
雲を切り裂く竜の影となり、塔の外周を旋回し始める。
『真音の安寧を乱す愚か者どもめ…。万死に値するな』
真音は、埃まみれになったグミを、ハンカチでそっと包み込んだ。
それはまるで、亡骸を扱うような手つきだった。
「行くわよ。…きっちり払ってもらわないとね」
◆◇◆◇◆
戦場は混乱の極みにあった。
崩れかけた鉄骨の上で、勇者アレクセイと魔王ガルシスは互いに剣を交え、最後の一撃を放とうとしていた。
「これで終わりだ、魔王!」
「終わりなのは貴様だ、勇者!」
だが、その決着がつくことはなかった。
突如として、戦場全体を覆い尽くすほどの殺気が――否、「生物としての格の違い」を突きつけるような根源的な恐怖が、天から降り注いだのだ。
「…な、なんだ?」
勇者も魔王も、動きを止めた。
半壊した展望台の、風が吹き荒れる鉄骨の先端。
そこに、一人の少女が立っていた。
黒髪のショートボブに、頭頂部には愛らしい丸い獣耳。
服装は、戦場には不釣り合いなエプロンドレス。
だが、その背後には――この世の理を外れた、数十の蒼き鬼火が、衛星のように旋回している。
逆光になった彼女の姿は、影そのもの。
ただ、青白い炎の照り返しだけが、彼女の口元がニッコリと笑っていることを不気味に浮かび上がらせていた。
「…誰だ、貴様は!」
魔王軍の将軍が叫ぶ。
少女――真音は、強風にスカートをなびかせながら、手にした羊皮紙をヒラヒラと振った。
「誰って、ここの管理人に決まってるじゃない」
よく通る、少女の声だった。
だが、その声を聞いた兵士たちの数人が、なぜかガタガタと震え出し、武器を取り落とした。
本能が告げているのだ。この女は、まずい、と。
「ちょっとあんたたち! 私の家に勝手に増築した区画のことだけどね、百歩譲って黙認してあげてたわよ? 家賃も払わず住み着いてるのも、私の広い心で見逃してあげてた」
真音が一歩、虚空へと足を踏み出す。
彼女の足元に鬼火が集まり、見えない階段を作り出す。
「でもね! 騒音と振動は許せない!おかげで、私の平穏な休日と、最高のおやつが台無しになったじゃない!」
真音の周囲で、鬼火がボォォォッ! と音を立てて膨張した。
それはただの炎ではない。
世界樹の「自浄作用」が具現化した、存在消滅のエネルギー。
触れれば塵一つ残さず「掃除」される、浄化の業火。
「請求書を持ってきたわ。バベル・ガーデンの修繕費、および精神的苦痛への慰謝料。締めて二億四千万ゴールド! …今すぐ、耳を揃えて払ってもらおうかしら?」
二億という数字に、勇者が素っ頓狂な声を上げた。
「に、二億四千万だと!?ふざけるな!そんな金、今あるわけがないだろう!」
「ふーん、そう」
真音の笑顔が深くなる。
「ない袖は振れない、ってわけね。…じゃあ、仕方ないわね」
彼女の殺気を感じ取った魔王軍の将軍が、慌てて懐から壺を取り出した。
「ま、待て!金はないが、これならある!最高級の『ロイヤル・ハニー』だ!熊人族の娘なら、これが一番の好物だろう!?」
将軍は自信満々だった。熊といえばハチミツ。
これで機嫌を直さない獣人はいないはずだ。
しかし。
その瞬間、戦場の気温がさらに五度下がった。
真音は、差し出されたハチミツの壺を、冷ややかな目で見下ろした。
まるで、吐瀉物を見るような目で。
「…はぁ?ハチミツ?」
低い声。
地獄の底から響くような重低音が、将軍の鼓膜を揺らした。
「あんた、私をバカにしてんの?熊だからってハチミツで喜ぶと思った?あんなベタベタして甘ったるいだけの、毛につくと洗うのが面倒なモノを、私に寄越すと?」
ブチッ。
真音のこめかみで、何かが切れる音がした。
「ハチミツなんぞで、私の『スライム・ドロップ』の代わりになるかぁぁぁッ!!」
真音の絶叫に呼応するように、背後の青白い鬼火が豪音を立てて膨れ上がった。
その怒気に、勇者アレクセイが反射的に動いた。
彼は大陸有数の軍事国家・カリスティア帝国が誇る英雄。
瞬時の判断で、目の前の脅威を排除しようと聖剣を振りかぶる。
「ええい、化け物め!帝国の正義にかけて、ここで討ち滅ぼしてくれる!喰らえ、聖剣技・断空(グランド・クロス)ッ!!」
鋼鉄すら紙切れのように斬り裂く、勇者の必殺技。
人族の間では「最強」と謳われるその斬撃が、真音の頭上に振り下ろされる――寸前。
パシィッ
乾いた音が響いた。
勇者の聖剣は、真音の「左手の人差し指と中指」だけで、軽くつままれていた。
「な…ッ!?」
勇者が目を見開く。
彼の聖剣は、現代の最高の鍛冶師が打ったミスリル製の名剣だ。
それが、武器すら持たぬ少女の指先で止められている。
「…あのね。こんな『なまくら』で、世界樹の管理人に勝てると思ってるの?」
真音は呆れたようにため息をついた。
彼女が纏っているエプロンドレスは、古代の賢者メルキオラスが編んだ『神獣の毛織物』。
その防御力は、現代の聖剣程度では繊維一本すら傷つけられない。
これは個人の強さというより、圧倒的な「文明レベルの差」だった。
「ここで刃物を振り回さないでくれる?危ないじゃない」
真音は底冷えする声で告げると、つまんだ聖剣を右手のデコピンで軽く弾いた。
パキィンッ!!
高い音が響き、勇者の自慢の聖剣が、飴細工のように粉々に砕け散った。
さらに、デコピンの衝撃波が勇者の鎧を直撃する。
「ぶべらっ!?」
勇者は変な声を上げ、砲弾のように吹き飛び、後方の石柱にめり込んで気絶した。
「ば、バカな!あの勇者を!?このおれと互角の力を持つアレクセイを一撃だと!?」
魔王ガルシスが戦慄する。
だが、魔族の長としてのプライドが彼を突き動かした。物理が通じぬなら、魔法だ。
「ならば、これでどうだ!我が魔力の全てをもって消し炭にしてくれる!黒魔法・ヴォイド・フレア!!」
魔王の杖から、全てを飲み込む漆黒の炎が放たれた。第七五六層の一区画を焼き払うほどの熱量が、真音へと殺到する。
しかし、真音はハンカチに包んだ「潰れたグミ」を庇うように抱きしめたまま、不機嫌そうに睨んだだけだった。
「もう…煙たいってば」
彼女の視線に反応し、背後に浮かぶ数十の青白い鬼火が一斉に動いた。
鬼火たちは意思を持つ獣のように飛び出すと、魔王の放った魔法に食らいつき――「食べた」。
ジュボッ。
そんな間の抜けた音と共に、黒炎は跡形もなく消滅した。
いや、分解させられたのだ。
世界樹の浄化システムである鬼火にとって、現代の魔王が使う魔法構成など、穴だらけの「未熟な術式」に過ぎない。
「な、私の魔法が…食べられた…?」
魔王が腰を抜かす。
真音は、砕けた聖剣の破片を踏みつけながら、ゆっくりと歩み寄る。
「ねえ。さっき言ったわよね?ここは私の家だって」
真音の背後で、鬼火たちが合体し、巨大な青い腕の形を成していく。
「人の家で、刃物を振り回すな。火遊びをするな。そして何より――私のおやつの時間を邪魔するな!」
真音は右手を高々と掲げ、指を鳴らした。
「ラズリ!大掃除の時間よ!この階層の『生ゴミ』どもを、まとめて階下に捨てなさい!」
『御意に、我が君!!』
雲を裂く咆哮と共に、上空から「絶望」が降ってきた。
サファイア色の鱗を持つ竜――ラズリが、その巨体そのものを「質量兵器」として、勇者と魔王の足場(空中要塞)へと叩きつけたのだ。
塔の支柱が砕け散る。
ラズリはさらに、その巨大な口を大きく開けた。
『真音のスライム・ドロップの恨み…その身で知るがいい!【蒼天の清掃暴風(クリーニング・ストーム)】!!』
放たれたのは炎ではない。
物理的な衝撃を伴う、超高密度の魔力の暴風だ。
それは兵士たちの装備だけを綺麗に剥ぎ取り、彼らの体だけを正確に、塔の外へと吹き飛ばした。
「うわあああああッ!?」
「落ちる、落ちるぅぅぅ!」
数千の兵士、勇者、魔王が、瓦礫と共に遥か下界へと落下していく。
絶叫が遠ざかる中、真音はハンカチに包んだ潰れたグミを胸に抱き、冷酷に見下ろした。
「命までは取らないわよ。…下の階層で、身体を使って働いて返しなさいよね?利子は1秒ごとに複利で増えるから、完済する頃には孫の代かしらね?」
天空に響くその言葉は、新たな地獄の――否、最強のダンジョン国家誕生の産声だった。
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