4. しばらく
「美貴子さん、ごめん。お母さんに、強姦されたこと聞いちゃった」
こういうことは、早く謝らなければいけない。私は母とは違うのだから。玄関の傘立てに傘を差しながら、私は言った。
「そう……。まあ、いいわ」
叔母が赦しを口にして、やっぱり謝ってよかった、と心の底から思う。
「あ、あのね、ちょっと聞きたいんだけど……、どうして充叔父さんとずっと結婚しなかったの?」
いつものダイニングテーブルに着いてから、私は尋ねた。すると叔母は少し迷ってから、口を開いた。
「男の人が、やっぱりちょっと怖かったから。あと、お姉さんが結婚するのを待ってたの。お姉さん、すぐマウント取ろうとするのよ。そういうの面倒でしょ。あまり料理できません~ってフリするのも、本当はちょっと面倒なんだけど」
叔母はそう言って、けらけら笑った。
「フリ、だったの?」
「そうよ。まあでも、おかずをもらえるのはうれしいから」
「そっか」
出された冷たい麦茶をこくりと一口飲む。指に水滴が付く。
「そういえばこの間もらったの、充叔父さんのお土産入ってなかったよ」
「あ、今回は買ってこなかったって」
「え……」
「なんか、忘れちゃったみたい。静香ちゃんかわいそうよって言ったんだけど、まあ忘れちゃったものはしょうがないわよね」
「そう……」
ひどい、いつも楽しみにしているのに。それを何でもないことのように言う叔母にも、少しイライラする。
「あ、『忘れちゃった』で思い出したけど、中身チョコレートだったのに、保冷剤入ってなかったよ。美貴子さんらしくないね。今年の夏の暑さは異常なんだから、気を付けないと」
「ああ、そうね。……やっぱり血なのかしら」
「ん? 何?」
「わからないなら、いいのよ」
そう言って、ふふふ、と可憐に微笑む。
叔母は最近よく『血なのかしら』と言う。でも私は、それを実感できていない。私にも母の血が流れているのは確かだけれど、だからといって、無神経で失礼な言動をしているつもりはない。私がこの家に来るのを叔母が許しているのがその証拠だろう。
「そうだ、そろそろ換気しておこうかな」
カラカラ、と軽い音を立ててリビングの掃き出し窓が開けられ、じっとりと粘りつくような熱気がエアコンの代わりに空気を支配し始めた。
「あら、充さんだわ」
「えっ、ほんと!?」
「ただいまー」
叔父の声がすると叔母は窓枠から手を離し、ぱたぱたと玄関へ急いだ。
「おかえりなさい、充さん」
「もしかして静香ちゃん来てる?」
「ええ」
叔母と話しながら廊下を歩く音が聞こえる。嬉しい、早く会いたかったから。
「充おじさん、お久しぶり。おかえりなさい」
私は笑顔で立って、叔母が開けた窓を閉めた。暑い中を帰ってきたのだから、涼しくしておいてあげたくて。
「静香ちゃん、久しぶりだね」
「うん。イタリア楽しかった?」
「いやぁ、仕事だからなぁ。でも食事は口に合ったよ」
叔母は黙ってキッチンへ歩いていった。きっと飲み物を用意するのだろう。
「そう、よかったね。あ、充叔父さん、お土産買い忘れちゃったんだって?」
ごめん、と申し訳なさそうに笑いながら、叔父はソファに体を沈ませた。
「楽しみにしてたのにな」
叔母がするように、頬を膨らませてみせる。でも叔父には何の効果もない。そういうところも好きなのだ。
「充さん、コーヒーでいい?」
「ああ、ありがとう、美貴子」
「ねえ、充叔父さん、お願いがあるの」
叔母が言うコーヒーって、ホットコーヒーなのだろうか。もしそうなら暑いのに気が利かないなと思いながら、私は叔父の隣に座って腕を取った。
「ん? お願い?」
「お土産買ってこなかった代わりに、どこか連れてって」
「え……、女子高生が好きそうなところなんて知らないから、僕には無理だよ」
「海の方にアウトレットがあるじゃない? その隣に観覧車ができたの。一緒に行こうよ」
「いや、僕はそういうところは……。友達と行く方が楽しいんじゃないかな」
「充さん、お話し中ごめんなさい。コーヒー置いとくわね」
「うん」
叔母がリビングのローテーブルに置いたのは、ホットコーヒーだった。
「叔父さん、ホットでいいの? 暑くない?」
「いいんだ、暑い中でも熱いものを飲みたいから」
「へぇ」
叔父に会えたというのに、今日は何だか気が滅入る。お土産ももらえない、どこにも連れていってもらえないかわいそうな私、なんて言うつもりもないけれど。
すると、叔母が突然胸の前でパンと手を合わせて、「そうだ!」と大きな声を出した。
「十月になったらチューリップの球根を植えようかしら」
「ああ、その頃僕はもう日本にいないな……。鉢やら球根やら、買いに行くの付き合うよ」
「本当? よかった、重いから助かる」
叔母はまたカラカラと音をさせて窓を開けた。むわっとする空気がこちらまで届き、不快さが体に絡みつく。
「私の気まぐれに付き合ってくれるの、ありがたいわ」
「きみの気まぐれなんていつものことだろう」
「やだ、そんなにいつもじゃないわよ」
叔父が、窓のそばに立つ叔母を仰ぎ見る。柔らかく笑うその仕草が愛おしい。
「ははっ、お菓子を気まぐれに作ったりするじゃないか。おいしいからいいけどね」
「あ、そうだ、私もショコラ・オランジュ作りたいな。この間のはチョコレートが溶けちゃってたから」
「そう、ならいい動画があるから、静香ちゃんにメッセージで送っておくね」
叔母はそう言うと早速エプロンのポケットからスマホを取り出して、送ってくれた。スマホを操作する楽しそうな横顔は、年を取っても可愛らしかった。
「……ねえ、美貴子さん」
そんな叔母を見ていたら、私は尋ねたくなってしまった。
「なぁに?」
「昔のこと……あれって、本当、だったの……?」
「昔の? あ、もしかして……」
どうしてこんな考えに至ったのか、自分でもわからない。でも、もしかしたら。叔母は、嘘をついて充叔父さんを誘ったのではないか。いくら妖精のような可憐な女性だからといって、母が負けるなんて。そう思ったら、言ってしまった。
「本当、よ。なんで、そん、な……疑う……」
そう言うと叔母は、ハッ、ハッ、と息を荒くし始めた。そうしてぽろりと涙をこぼし、がくりと床に手をついた。叔父は慣れた様子で洗面所からタオルを持ってきて叔母に渡し、骨ばった背中を優しくさする。きっとその手は温かいのだろうと、私はおかしくなった叔母の様子をぼんやりと見ながら思った。
「美貴子さん……大丈夫?」
過呼吸という症状だろうか。初めて見たからびっくりした。叔母は私の問いに答えず、叔父の腕を掴んで荒い息を静めようとしている。
「静香ちゃん、今日はもう帰ってくれないかな。美貴子、時々こうやって具合が悪くなるんだ」
叔父は
「あ……、う、うん」
「しばらく、来ないでほしい」
叔父にそう言われ、私は沈んだ気持ちを持て余しつつ、黙って玄関を出た。
しばらく、とはいつまでなのか。一ヶ月なのか、一年なのか。教えてほしかった。
夏の夕方の道はまだ明るい。遠くから車が行き交う音が聞こえる道は寂しくはない。それでも、気持ちが暗い。
雨が降りそうな気配を頬が察知する。傘を持っていてよかった。そう思った時、道の隅の土の上に、イモリがいることに気付いた。
「……よく、会うね」
愚鈍に草の根の間を動こうとする小さな生物に、声をかける。どうしてこれまで見つけられなかったのだろうというくらい、こいつらは私の前によく現れる。そのたびに私に災厄をもたらしているように思えてきて腹が立つ。
特に大した音はしなかった。
虫みたい、でも虫と違ってイモリは潰れると赤い血が出るんだ。そう思った。
ああ、傘の先が汚れてしまった。汚い。玄関脇の水道で洗わなければ。
五分くらい歩いたところで大粒の雨が降ってきて、私は胸を撫で下ろした。雨が汚れを流してくれるだろうから、傘を洗うのを忘れて母に叱られる、なんてこともない。
「よかった。次はいつ来ようかな」
私のつぶやきは、雨が傘を叩く音でかき消された。
ショコラ・オランジュ(改訂版) 祐里 @yukie_miumiu
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