3. 触っちゃったら

 私は、その場を走り去った。

 叔母の奇妙な行動が目に焼き付いてしまい、ほかのことを考えられない。ハァ、ハァ、という自分の耳障りな息遣い。紙袋を持つ手が汗でじっとりと濡れる。カットソーに隠れていない首が、熱い。喉が渇く。

 徒歩で十五分の道のりを、私は十分で帰った。


 帰宅した私を廊下で出迎えた母に、息を切らせながら「護身術のこと、言わないで、って、美貴子さんが」と言うと、母は「あら、そう」とだけ答えた。

「なん、で、なんだろう」

「何でって、あの子がそう言うなら言わなければいいだけでしょう?」

「それ、充叔父さん、のこと……何か、関係あるの?」

「とにかくこっち来て座りなさい」と呆れた母に言われ、冷房が効いたダイニングの椅子に腰を下ろす。

「関係あるの、って言われても……。んー、もしかしたらあのことかしら」

 汗を拭きながら冷蔵庫を目指して一旦座った椅子を立つと、母は事も無げに「ほら、あの子、強姦されたことがあるから」と言い放った。

「……えっ? それ、本当……?」

「さあ? 嘘かもしれないけど。あの子が大学生だったときにね、すぐそこのマンションに住んでいた充叔父さんが連れて帰ってきたのよ」

 冷蔵庫の取っ手を持ったまま続きを促す私に苦笑いを浮かべ、母はそのときのことを話した。叔母は人気のない公園の奥に力ずくで連れ込まれ、知らない男に無理やりされたと。服は切り裂かれ、汚れていたらしい。母は「着替えもお風呂に入れるのも私がやったのよ」と明るく言った。

「そんなことが……。でも、何で『嘘かもしれない』なんて」

「え? だってあの子、充叔父さんのこと好きだったから。演技かもしれないじゃない?」

「何それ……演技だとしても、そんな嘘はつかないと思うけど……」

「どうして?」と優しげに微笑む女は、誰なのか。自分がおかしなことを言っていると思えない、何かの障害がある人物なのだろうか。

「わ、私だったら、強姦されたなんて……」

「そう? でも……、あー、もう今だから言っちゃおうかな。お母さんも充くんのこと好きだったの」

「お母さん、も」

 叔母の言ったとおりだった。確か、『血なのかしら』とも言っていた。

「結局付き合うなんてできなかったんだけどね。あの子、私が持っているものよく欲しがってたし、優位に立ちたいのかなって」

「……もしそうなら、美貴子さん、もっと早く充叔父さんと結婚してたんじゃないの……?」

「んー、そうか、そうかもね」

 叔母が三十三歳になるまで叔父と一緒にならなかった本当の理由は何だろうと疑問が湧く。母に確認したくなり口を開くが、出てきた言葉は「お菓子」だった。

「……美貴子さんが作ったお菓子、もらってきた」

「あら、いいじゃない。どこに……廊下にあったあの紙袋かな」

 母が立ち上がり、廊下に置きっぱなしにしていた紙袋を持ってくる。

「ああ、そうそう。あの子ね、そのあと護身術習いたいって言い出して、お母さんよく送り迎えしてたのよ。できないときは充くんに頼んだりしたけど」

「え……? 充叔父さんも男だけど……」

「そりゃそうよ。やだ、何よ今さら」

 けらけら笑いながら、紙袋から中身を取り出す。

「ご、強姦、されたんでしょ? 男の人が怖くなかったのかな。普通は避けるんじゃ……」

「でもあの子、充くんのこと好きだったから。ラッキー、って思ってたかも」

「……本当に、好きだったのかな」

 私がうつむきながら漏らした言葉は、殺された。母ががさがさと包み紙を剥ぎ取る音で。

「あ、溶けちゃってる」

 母の言葉にはっと顔を上げてテーブルの上を見ると、そこにはショコラ・オランジュがあった。前に叔母の家で一緒にレシピ動画を見たことがある。

 輪切りのドライオレンジに付けられたチョコレートは暑さで溶けてしまった。本来ならオレンジの輪の片側にのみ付けられるはずのチョコレートが、そこらじゅうにべたべたとくっついている。

「……さわ、ら……ないで……」

 鮮やかなオレンジ色に、黒い斑点。

『触っちゃったら怖いね』

 これは誰が言ったんだっけ。私?

 触っちゃったら怖い。怖い。

「え?」

「触らないほうが、いいよ」

 アジサイの葉から落とされた、オレンジ色に黒い斑点。

 毒があるから気を付けて。気を付けて。

「まあ、味見するにしても、ちょっと素手ではね。でもお箸洗うの面倒だな」

「……毒が、あるから……気を付けて」

 絞り出した声は震えてしまった。母は気にしていない。

「毒なんて大げさね。ドライオレンジならそんなにカロリーないわよ、きっと」

 そう言うと母はひょいとオレンジの部分を器用に摘み、口に放り込んだ。

「ちょっと、 何やってんの!? 毒だって……!」

「ん? おいしいわよ。一つくらいじゃ太ったりしないから」

 ふふふ、と母が笑う。いつものように。

「……な……、何とも、ない?」

「オレンジって、皮が付いたままだとちょっと苦いよね」

 笑顔からぺろりと出された舌にはチョコレートが付いていて、私はほうっと息を吐き出した。


 紙袋の中には、叔父からのお土産が入っていなかった。きっと叔母が入れ忘れたのだろう。

 またあの家に行かなくては。叔父のお土産は、私にとっては宝物だから。

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