第2話 ズレ

次の日も、朝はちゃんと来た。

目覚ましより少し早く目が覚めて、カーテンを開けて、光を浴びる。

「おはよ」

誰にでもなく、言う。

昨日のことは、夢みたいに思えた。

ポケットの中の切符を確認するまでは。

確かにある。紙の感触も、折れ目も昨日のまま。

「……まあ、いっか」

私は笑って、制服に袖を通す。

変なことがあっても、朝は進む。

でも、その日から、世界はほんの少しずつ、

 「ズレ始めた」

駅のアナウンスが、一拍遅れて聞こえる。

電車のドアが閉まる瞬間、なぜか私だけ、余裕がある。

友達と歩く帰り道。

私が言おうとした言葉を、先に誰かが言う。

「今、言おうとした!」

「え、ほんと?」

笑って済ませる。でも、胸の奥に、小さな引っかかりが残る。

時間が、私の周りだけ、ほんの少し緩んでいる。

怖くはない。でも、確かに違う。

私は、切符を持っている。

理由も分からず、行き先も書いていない切符。

それでも、なぜか分かる。


 ――これは、


 「誰か」の時間だ。

私のじゃない。でも、無関係でもない。

明るくいることが得意な私の毎日は、まだ壊れていない。

でも。

このままではいられない気がしていた。

夏は、もうすぐそこまで来ている。

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切符を持っていることは、誰にも言わなかった。

言えば、きっと笑われる。

落とし物だよ、とか。考えすぎ、とか。

それで終わってしまう気がした。

だから私は、切符を毎朝ポケットに入れて何事もなかった顔で家を出る。

駅までの道は相変わらずで、犬の散歩をしているおじさんも、曲がり角の自販機も、何一つ変わらない。

でも、私は分かってしまった。

変わっているのは、私の側だ。

電車に乗ると、人の動きが少しだけゆっくりに見える。

誰かがスマホを取り出すまでの間、吊り革が揺れきるまでの時間、その“間”が、以前より長い。

私は焦らない。

急がない。

でも、止まってもいない。

まるで、世界が一歩引いて、私を見送っているみたいだった。

学校でも、同じだった。

チャイムが鳴る直前、先生が教室に入る直前、何かが起きる「手前」の時間が、妙に長い。

その時間の中で、私は、周りをよく見るようになった。

友達の笑い方。疲れた目。何気ないため息。

今まで見えていなかったものが、たくさん見える。

「今日どうしたの?」

「え?」

「なんか、静かじゃない?」

友達はそう言ったけど、私は首を振る。

「静かじゃないよ。普通」

「そう?」

私は笑う。ちゃんと、いつも通り。

でもその笑顔は、以前より少しだけ、意識して作られていた。

――明るくいなきゃ。

それは、誰かに求められた言葉じゃない。

私が、自分に言い聞かせてきたことだ。

昼休み屋上に行く。

普段はあまり来ない場所。

でも今日は、空を近くで見たかった。

風が強く、フェンスが小さく鳴る。

私はポケットから切符を出して、じっと見つめた。

行き先は、書いていない。でも、日付と時間だけが、妙にくっきりしている。

「七時十二分……」

その時間に、何があったんだろう。

私の朝は、いつも通りだった。

パンを買って、改札を抜けて、学校に来た。


――でも。


頭の奥で、小さな違和感が芽を出す。

その時間に、私じゃない誰かが、ここにいたんじゃないか。

考えすぎだ、と笑おうとして、やめた。

この切符は、私に“考えさせるため”にある気がした。

放課後、部活帰りの生徒たちが校門を出ていく。

私は、少し遅れて歩く。

そのとき、また風が吹いた。今度は、はっきりと感じた。

 「待って」

音じゃない。言葉でもない。

でも、確かにそう伝わった。

私は立ち止まる。

周りには誰もいない。

 でも、背中が冷たい。

「……誰?」

小さく呟く。答えは、ない。

代わりに、ポケットの中の切符が、わずかに温かくなった気がした。

私は、深呼吸する。

怖くはない。本当に。

ただ、これはもう、見なかったことにはできない。

夜、家に帰ると、母がテレビを見ていた。

「今日どうだった?」

「普通だよ」

その「普通」を、私は何度も使ってきた。

普通。大丈夫。平気。

どれも、本当でもあり、嘘でもある言葉。

部屋に戻り、ベッドに座る。

制服のポケットから、切符を取り出し、机の上に置いた。

ライトの下で見ると、切符の端に、小さな汚れがある。

まるで、誰かが強く握りしめた跡みたいに。

「……ねえ」

私は、切符に話しかける。

「あなた、誰の?」

返事はない。

でも、沈黙が、なぜか優しかった。

私は横になり、天井を見上げる。

明るくいるのは、得意だ。

でも、誰かの時間を背負うことは、得意じゃない。

それでも、朝は来る。

来てしまう。

そして私は、また笑って、歩き出すのだろう。

――少しだけ、ズレた世界の中を。

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