TIME
attha@ぼうや
第1話 それでも朝は来る
私は、朝が得意だ。
目覚ましが鳴る前に起きられるし、寝起きで機嫌が悪くなることもない。
制服のスカートにアイロンをかけるのも、前日の夜じゃなくて朝派だ。
時間ぎりぎりで走るより、少し早めに家を出て、駅前のパン屋に寄るほうが好きだった。
「今日もいい天気!」
誰もいない台所で、私はそう言ってみる。
声に出すと、天気は本当に味方をしてくれる気がするから。
カーテンを開けると、朝の光が一気に部屋に流れ込んだ。
まだ夏になりきらない、少しだけ涼しさの残る光。
私はそれを全身で浴びながら、伸びをする。
制服に袖を通す。
鏡の前で一度だけ笑ってみて、「よし」と小さくうなずく。
これも習慣だ。
朝ごはんはトーストと卵。
マーガリンを塗りすぎて、ちょっとだけ後悔する。
でも、まあいいや。今日は金曜日だし。
家を出ると、近所の坂道に朝の匂いが溜まっていた。
土と草と、昨日の雨の名残。
私はそれを胸いっぱいに吸い込む。
――今日も、ちゃんと楽しい日にしよう。
そう思えることが、私の特技だった。
学校までの道は、毎日同じなのに、毎日少しずつ違う。
咲いていた花が減っていたり、新しいポスターが貼られていたり、
犬の散歩の時間が早まっていたり。
変化を見つけるのは、得意だ。
――だから、あの日もすぐに気づいた。
駅前の古い時計が、
ほんの少しだけ、遅れていたことに。
いつもなら七時十二分を指しているはずの針が、
七時十一分と半分くらいで止まっている。
「あれ?」
私は足を止めた。
遅刻しそうなわけでもない。
でも、なぜか目が離せなかった。
秒針は動いていない。
でも壊れている、という感じでもない。
まるで、時間だけが息を止めているみたいだった。
「……まあ、いっか」
私はそう言って、歩き出す。
いつも通り、パン屋に寄って、いつも通りのクロワッサンを買って、いつも通り改札抜ける。
そのはずだった。
改札を通った瞬間、
背中に、ふっと風が当たった。
冷たくもなく、温かくもなく、
ただ「通り抜けた」という感触だけが残る風。
振り返っても、誰もいない。
「……?」
私は首をかしげたけれど、すぐに笑って、歩き出した。
変なことは、たまに起きる。
それくらいで、世界は揺らがない。
――このときは、まだ。
学校に着くと、校門の前はいつも通りだった。
自転車のブレーキ音、友達同士の笑い声、
「おはよー」という声が、あちこちから飛んでくる。
「おはよ!」
私は、先に見つけたほうが負けみたいな勢いで声をかける。
返事が返ってくると、それだけで一日がうまく回り始める気がした。
今日テンション高くない?」
「金曜日だから!」
「それだけ?」
「それだけ!」
理由は、だいたいいつもそれで足りた。
教室に入ると、窓が少しだけ開いていて、
朝の風がカーテンを揺らしていた。
その動きが、さっき駅で感じた風と、ほんの少し似ている気がして、
私は一瞬だけ立ち止まる。
でも、すぐに席に向かった。
黒板の前では、まだ誰もいない教卓が静かに待っている。
机にカバンを置き、椅子を引く。その音が、教室の中で軽く響く。
――ここは、ちゃんと現実だ。
私は、そう思って安心した。
授業が始まると、ノートを取りながら、時々窓の外を見る。
雲の動きは遅く、空は高い。
先生の声が遠くなりそうになると、私はわざと背筋を伸ばす。
ぼんやりしない。
今にいる。
それも、私が選んできた癖だった。
昼休み。友達とお弁当を広げながら、どうでもいい話をする。
好きなアイスの話、テストの話、帰りに寄り道するかどうかの話。
私はよく笑う。自分でも分かるくらい、よく。
でも、ふとした拍子に、時間が一拍だけ遅れる瞬間がある。
誰かの笑い声が、少しだけ後から聞こえた気がしたり、
箸を置くタイミングが、みんなとほんのわずかにズレたり。
ズレは、ほんの一瞬。気にするほどじゃない。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、ごめんごめん!」
私は笑って、ごまかす。
こういうのは、慣れている。
――明るくいることに。
午後の授業が終わり、
チャイムが鳴った瞬間、教室が一気にざわつく。
「帰り、寄ってく?」
「今日は部活あるから無理!」
「また今度ねー」
私は手を振りながら、鞄を肩にかける。
帰り道。 校舎を出たところで、また風が吹いた。
今度は、はっきりと分かる。
私の横を、何かが通り過ぎた。
人じゃない。…でも、空気とも違う。
「……?」
足を止めると、校門の外に小さな白い紙切れが落ちていた。
拾い上げると、それは、切符だった。
日付は、今日。
時間は、七時十二分。
朝、駅の時計が遅れていた時間。
「……なにこれ」
私は笑おうとした。
でも、喉が少しだけ詰まった。
切符は、使われていない。でも、新しくもない。
誰かのものだったはずなのに、今は、私の手の中にある。
夕方の光が、紙の端を照らす。風が、また一度だけ吹く。
――これは、なんだろう。
問いかけは、
不思議と怖くなかった。
私は切符を、制服のポケットに入れた。
理由はない。
ただ、そうしたかった。
この日、私はまだ知らなかった。
これが、
私の日常に入り込んだ、奇跡の入口だということを。
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