狐ヶ崎、遊園前駅。
天羽融
狐ヶ崎、遊園前駅。
常世もの、この橘のいや照りに
わご大君はいまも見る如
──常世の国から伝わった果実が
いよいよ輝くように、
わが君はいつまでも栄えるであろう。
大伴家持 『万葉集』巻18-4063
静岡鉄道にご乗車頂きまして、誠にありがとうございます。
次の駅は──草薙、草薙………。
ガタンゴトンと汽車に揺られながら、
少女は窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
揺れに誘われ、意識は夢と現のあわいに沈んでいく。
車内アナウンスは、最近できたばかりの遊園地の宣伝や、
流行りの民謡、"きつね音頭"なる、妙ちきな歌を流している。
あの丘の上にできた、遊園地のテーマソングらしい。
女学生はそっと目を閉じた。
昨夜、古文の歌集を読みふけってしまい、つい夜を明かした。
手元の古今和歌集の表紙──古びた紙面を指先でなぞる。
文学は好きだ。日本語は美しい。
特に昔の歌は、澄み切っていて、まるで嘘がない。
それが彼女の胸を惹きつけてやまなかった。
乗客が少ないのをいいことに、
彼女は小さく声に出して詠んでみる。
常世もの………。
ちょうどその時、車両に土産売りの女性が現れた。
竹籠を背負った行商の牛女を呼び止め、三銭を取り出す。
分厚い手が、氷蜜柑を一つころりと渡してくれた。
果実の薄い皮をむくと、高貴な柑橘の香りが車内にふわりと広がる。
一房すくって噛みしめる。
冷たい果実は、よく心に沁みた。
昨夜、布団の中でランプを灯しながら読んだ橘の歌を、
彼女は小声でまた詠むのだった。
常世もの、この橘のいや照りに、わご大君はいまも見るごと……………
工場地帯を抜けて、丘へと登る列車は、
すすき野原の上をすべるように走ってゆく。
ボォーーと蒸気が鳴り、
柔らかな振動が車内の木箱のような空間にひそやかに響いた。
少女はふと、線路脇へ目を向けた。
揺れるすすきの海を横断するように、
延びた銀の線路のそばを――
なにかが、すっと横切った。
あ。
ボォーーーーと、踏切の近くで汽笛が再びこだまする。
カン、カン、と警鐘の音が野に散った。
その奥で、それはぴたりと立ち止まった。
狐だ。
線路の脇に佇む小さな影を、
少女の瞳がとらえた。
小さい。
そして、獣のくせに、
迫り来る鉄の塊を、まるで恐れていない。
普段は街中で暮らす少女には、
その光景がどこか この世のものではない ように思えた。
邂逅はほんの一瞬だった。
ぶわぁ、と風が巻き、景色が流れ去る。
身を乗り出して窓の外を探すと、
狐の姿は、すすきの波の向こうへ
ゆっくりと、遠ざかっていった………。
次は、狐ヶ崎、遊園前駅──狐ヶ崎、遊園前駅…………
明朗とした車掌の場内アナウンスに、
少女はようやく窓から顔を離した。
胸が、かすかに跳ねている。
見たこともないものを
“確かに見た” という実感が残っているからだろうか。
それとも、夢の端を覗いたような気分のせいだろうか。
ふと、手のひらの上にある、
白くなりかけた氷蜜柑の半分を見つめた。
一駅ごとに、一房だけ食べる。
清水に着く頃には、ちょうどなくなる──
そんな妙な“旅の決まり”を、自分一人の中で作ってしまっている。
指でふさをもぎ取ろうとした、そのとき──
がらら、と車両扉が開く音がして、
小さな足音が近づいてきた。
思わずそちらを向く。
赤いシートに、ひょいと小さな影が腰を下ろす。
短い足をぶらぶら揺らしながら、読めない表情で汽車の床を眺めている。
女学生はその子をじっと見つめた。
尋常学校に入りたてぐらいの、綺麗な顔をした子。
親の姿は見えない。一人でお使いだろうか。
ふと車内を見回すと、いつの間にか客が引いていた。
あの巨体を揺らしていた行商の女性も、
切符回りの駅員もいない。
気づけば、車両には自分と、この子供だけ。
静寂と揺れだけが残った。その静けさが、妙に胸をざわつかせた。
やがて子供は床から視線を上げ、
彼女の手の中にある蜜柑をじっと見つめた。
「……食べる?」
思わず声が出た。
色素の薄い瞳が瞬き、こくりと頷いた。
彼女は一房そっと手渡す。
子供は口に運び、甘酸っぱさを噛み締めるように頬をゆるませた。
そのいじらしい仕草に、彼女は親戚の幼い従弟を思い出す。
菓子をねだり、本を読んでとせがんできた、あの小さな手と目つき。
まだ残っている蜜柑にも、じいっと視線が吸い寄せられている。
二房、三房……
全て食べ終えると、子供は小さく言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は皮をハンケチで包んだ。
蜜柑の香りがほのかに立ちのぼり、
子供の身体からも、自分の手からも、同じ橘の匂いがした。
汽車が坂をゆっくり登るにつれて、
風の音がふっと変わった。
そのとき──
まるで手回しトーキのチープな音源が、
車内の木の壁をすり抜けて届くみたいに、
音がふわりと漂ってきた。
"コン、コン、きつねが鳴けば、
富士晴れる♪
"コン、コン、あの子が泣けばぁ
富士に傘♪
"茶っきりな♪
"茶っきりな♪
狐ヶ崎遊園地、
本年十一月一日――
いよいよ堂々、開園でございます!
「「皆さまのお越しを、お待ちしてまぁす」」
……妙ちきりんだ。
そんな言葉が、胸の淡いところに浮かんだ。
汽車には誰もいない。駅舎も人影のないまま、静かに通り過ぎていく。
それでも、おかしなアナウンスだけが、いつまでも流れていた。
気づけば、隣の席に男の子がいた。
赤いソファに膝をつき、通り過ぎるすすき野原を、じっと眺めている。
「おうちはどこ?」
彼女が尋ねると、男の子は言葉を返さず、指先ですすきを示した。
「……どこへ行くの」
今度は、男の子がそう尋ねてきた。
清水まで。祖母の見舞いだと答えると、彼は淡々と頷いた。
自分は、新しくできた遊園地へ行きたいのだという。
「遊園地なら、もう通り過ぎましたよ」
窓の外に、駿河湾がひらける。
水面は太陽を受け、きらきらと光っていた。
男の子は首を振った。
遊園地は終点にあるのだと、そう言う。
あの港に?
遊園地?
聞いたことはない。けれど、彼女は外出の少ない身だ。
知らないだけ、ということもあるのだろう。
次は、***崎、遊園地、***崎、遊園地――
終点に差しかかるところで、
無機質なアナウンスが、また妙な言葉を読み上げた。
聞き慣れない響きに、少女は思わず首を傾げる。
地名なのか、呼び名なのか、判然としない。
男の子は落ち着かない様子で、
赤いソファの上に腰をずらし、足を宙に浮かせていた。
ガタンゴトンと揺れていた汽車は、そのまま減速し、
ゆっくりとホームへ滑り込んだ。
ガシャン、と鉄が楔で繋がれる鈍い音が響く。
静岡鉄道へご乗車いただきまして、誠にありがとうございます。
終点、***――。
扉が開くと同時に、男の子が勢いよく飛び出した。
少女も思わず、その背を追うようにして、慌てて汽車を降りる。
何もない漁港の湊が迎えるものだと、思っていた。
少女は、目の前の光景に、思わず息を呑んだ。
――鼠だ。
ちんどん屋の衣装をまとった小さな鼠たちが、
大名行列のように、駅の構内を練り歩いている。
ちゅう、ちゅう、と楽しげに鳴きながら、
太鼓や笛を打ち鳴らし、
その一団は彼女の前を通り過ぎていった。
男の子に、あれは何なのだろうと声をかけようとした、そのとき、
彼はもう、向こうへ走り出していた。
小さな背中が、
駅の向こう、光の中へ、
みるみる溶けていく。
何がなんだかよくわからないまま立ち尽くしていると、
また、ホームに次の汽車が停まった。
ガチャン、と扉が開く音。
うわあああ!!
高い歓声が、駅いっぱいに響き渡る。
たくさんの子供たちが汽車から降りてきて、
改札へ向かって、わあっと走っていった。
——寂れた港が、あるはずだった。
その方角を見ると、
デパートの屋上にあるような風船広告が、白い灯台へと昇り、
海の上には、大きな何かが建てられている。
***崎遊園地
彼女は、砂浜に浮かぶ橋や、波の上に立つ白い塔たちを見て、
——ああ、あれに似ているな、と
どこか冷静に、記憶の底から一つの建物を思い出していた。
モン・サン・ミシェル。
干潟に現れるとされる教会の、写真でしか知らないその姿を。
ドン、と
彼女の鞄に、誰かがぶつかった。
何かの獣の尻尾を生やした女の子が、尻餅をついている。
「ごめんなさい」
そう言って、その子を起き上がらせようとしたが、
女の子は素早い動きでそれを避けると、
たたたっと、他の子たちと同じように、海の方へ走っていった。
空になった手を見つめたまま、
彼女は、少しだけ途方に暮れる。
——どうしよう。
自分は、なぜか、
"ここ"に来てしまった。
呆然と、立ち尽くす。
自分は、どうやらおかしな場所に来てしまったらしい。
——どうしよう。
どうしたら、元の世界へ帰れるんだろう。
学生鞄をぎゅっと握りしめて、彼女は考えた。
空は青く、磯の香りが立つ海風は、柔らかい少女の黒髪を撫でた。
考えて、考えて、考えた末、
ふと、駅のベンチが目に入る。
すたすたとそこへ歩いていき、
彼女はポケットからハンケチを取り出した。
桃色の布地に、白いローズ。
病院に住む祖母が刺繍して、彼女にくれたものだ。
そこに、少女はストンと腰を下ろす。
汽車に乗ってきたのだから、
汽車に乗って帰ろう。
彼女は、そう結論づけた。
駅は、先ほどの喧騒が嘘のように、しんと静まり返っていた。
少女は、遠くの線路を見る。
——汽車は、来ない。
ふと、ため息をついて、
鞄から詩集を取り出すと、
慰みの和歌を、心の中で何度も唱えた。
常世もの………。
次第に胸が苦しくなり、
目から何かがこぼれ落ちそうになった、その時。
ホームに、小さな足音が響いた。
はっとして涙を拭い、駅の入り口を見る。
——あの子だ。
ベンチの隣には、あの男の子が座っていた。
「……君は、遊園地に行かないんですか?」
ちらりとこちらを見て、
その子は「もう飽きた」と言った。
飽きるのが、ずいぶん早い。
彼女は鞄からキャラメルの箱を取り出し、
紅葉のような小さな手のひらに、それを落とす。
飴を舐めながら、ぽつぽつと話をした。
学校のこと、祖母のこと、本のこと、短歌のこと。
彼は、ただ静かに、それを聞いていた。
彼自身の話を尋ねると、
「知らない」とだけ答えて、
それ以上は、あまり教えてくれなかった。
けれど、少しだけ。
——果実が好き。
——鼠が好き。
——桜と、稲の穂が好き。
次第に日が沈み、夜になる。
それでも、辛抱強く待ち続けた。
ぼおおおおおお———!!
遠くから、汽笛の音が聞こえてくる。
あたりはもう夕闇で、
汽車のライトが、ちかちかと線路の向こうを照らしていた。
——よかった。
彼女は、その光景に、そっと胸を撫で下ろす。
もしかしたら。
もしかしたら、
もう帰れないのかもしれないと、
どこかで、予感していた。
元気に滑走する汽車が、
二人の目の前へと、やってきた。
扉が、開く。
彼女は、しっかりと足を踏みしめて、車体に乗り込んだ。
目の前には、
ベンチから立ち上がり、こちらをまっすぐ見つめる視線がある。
「さようなら」
「……うん」
男の子に最後の別れを告げると、
汽車が、静かに動き出した。
窓の外で、その子は、
ずっと、ずっと、こちらを見ていた。
——その子は、
眼の色彩が、綺麗だった。
まるで、
空に砕いた星屑のようで。
狐ヶ崎、遊園前駅。 天羽融 @amane_yu1
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